依頼という名の命令
高洌惺が突きつけた要求を聞いたボクは、嫌な予感を禁じ得なかった。
「計画……?」
恐る恐るな響きを持ったボクの問いに、彼女は頷きを交えて答えた。
「そうよ。貴女にはこれから――馬湯煙の屋敷に忍び込んでもらうわ」
聞き覚えのある固有名詞にボクは目を見開き、思わず小さくそらんじた。
「……馬湯煙」
「そうよ。【藍寨郷】にいる時、小耳に挟んだ事くらいはあるんじゃないかしら? 十年前に突然現れて、【会英市】と【甜松林】の町興しをしてみせた、この辺りで一番の資産家よ。その二つの町に並ぶ店は、ほぼ全てにタンイェンの息がかかっているわ」
資産家――その単語を聞いたボクは、すぐに彼女の頼もうとしている事を予想した。そう、「盗み」という予想だ。
ボクは勢いよく食ってかかった。
「ふざけないでよっ! ボクに泥棒をやれっていうのか!?」
「早合点が過ぎるわよ。私はタンイェンの屋敷に忍び込めとは言ったけど、何かを盗んで欲しいとは一言も言ってない。私は人を探して欲しいだけよ」
「ある人?」
顔をしかめながら尋ねる。
すると高洌惺は、不機嫌そうな、それでいて気に病むような苦々しい表情を浮かべて言った。
「――私の母親よ」
「お母、さん?」
彼女は無言で首肯した。
「【会英市】の隣には、【甜松林】という町があるわ。【会英市】で働く男達の欲求のはけ口として、タンイェンが廃村寸前だった村を基盤に作った色町よ。母はその【甜松林】の娼婦だった」
「娼婦……どうしてまた?」
「私の家には、昔出て行った父――いえ、あんなクソ野郎、父とすら呼びたくないわね。その男が博打で作った借金があった。普通に働いて返すとなると十年はかかる額だった上、金貸しも返済を急かしたわ。母はその借金を一刻も早く返すため、【甜松林】で体を売るようになった。【甜松林】の娼婦になれば、男の慰み者になる代わりに、普通に働くよりずっと高い金が稼げる。幸か不幸か、母はとても綺麗な人だったから、客からの指名も多かった。母は雌犬のように男に尻を振る恥辱に数年間耐えた結果、どうにか借金を全額返せたの」
そこまで聞けば、単なる思い出で済んだことだろう。
しかし、このしたたかな少女が、意味もなく身の上話をするとは思えない。
つまり、続きがまだあるのだ。ボクに対する要求へと繋がるような。
「そんなある日、母はある一人の男に買われたわ。――馬湯煙よ。奴は時々【甜松林】にやって来ては、気に入った女を買って自分の屋敷に呼び出すの。普通は娼婦のお持ち帰りなんてできないけど、【甜松林】の娼館の出資者はタンイェンだから強く言えない。母は一ヶ月前にタンイェンの屋敷へと連れて行かれて――以来ずっと家に帰っていないわ」
そこまで聞いて、ようやく目的の輪郭がはっきりした。
「貴女にタンイェンの屋敷に侵入してやって欲しい事は――行方不明の母を探すこと。もしかすると、母は屋敷の中に閉じ込められているのかもしれない。貴女にはそれを確かめてもらうわ」
それを聞いた途端、ボクは猛烈に突っ込みを入れたくなった。
「ちょ、ちょっと待った! タンイェンの屋敷に行ったのを最後に行方不明……そこまではいい。けど、それでタンイェンが容疑者だって理屈に走るのは少し乱暴なんじゃないの?」
「消えたのが母だけだったら、多少はそう思ったかもしれないわね。でもね、母だけじゃないのよ」
「え……どういうこと?」
「タンイェンに呼び出された娼婦は、皆例外なく行方不明になっているのよ。私がタンイェンを怪しいと思うのはそれが理由」
――彼のお眼鏡にかなった娼婦が屋敷に連れて行かれたまま帰ってこないとか。
【藍寨郷】の食堂のおばちゃんから聞いた噂話の一部が、狙ったようなタイミングで思い起こされた。
「え……それって噂のはずじゃ……」
「噂なんかじゃないわ。娼婦の行方不明は真実よ。確認だって取ったもの」
ボクは一応納得する一方で、常識的な事を考えた。
【煌国】には『治安局』という警察機構がある。もしタンイェンが行方不明事件の原因である可能性があるのなら、姑息な策などとらずに治安局に言いつけて、タンイェンの屋敷を調べてもらえばいいはずだ。
それをそのまま口にすると、次のような否定の返事が返ってきた。
「試してみたけど無理だったわ。奴はこの辺りの治安局の支部に多額の寄付をしている上、この国の一部の権力者とも繋がりがあるの。そのせいで治安局も「確固たる証拠が無いから」と家宅捜索には及び腰。警察機構が聞いて呆れるわね、まったく」
その台詞にはさすがに同感だった。権力者と繋がりがあるからといってビビるなんて、まるで地球ではないか。どこの世界でも人間の考え方というのは一緒なのだ。
そして、さらなる疑問がボクの頭に生まれた。
「……ボクにやらせたい事は大体分かったよ。でも、やるやらないはまず置いておいて、一つだけ分からない事がある」
ボクはそう前置してから、その疑問を口から出した。
「――どうして、ボクに頼むんだ?」
「いい質問ね。いいわ、これからその理由を教えてあげる」
彼女はそう言うと人差し指を立て、話を続けた。
「まず、一番大切な理由。――貴女は私と違って、タンイェンに顔が割れていない。私は【会英市】の人間である上、一度治安局にタンイェンをチクった事がある。だから奴に顔が割れていて、なおかつ警戒もされているわ。私じゃ無理なのよ」
次に、中指が立てられた。
「二つ目の理由は――貴女の腕前よ」
「腕前? 武法の?」
「そうよ。タンイェンの屋敷は、奴の雇った用心棒が警備しているわ。数が多い上に、個々の力量もそれなりにある。その警備は屋敷の外側に集中していて、内側の警備は比較的甘いけど、それでもそこそこの人数がいる。貴女が私の母を探して屋敷内をうろついている最中、用心棒が貴女を怪しんで捕まえようとしてくるかもしれない。そうなった場合にその用心棒を寝かしつけられる腕前が必要なのよ。全員まとまった集団には勝てなくても、一人二人数人程度が相手なら余裕で勝てるはずよ、貴女なら」
その妙な評価の高さに、ボクは不審げに眉をひそめる。
「どうしてそう言い切れるんだい?」
「だって、実力を確かめたもの」
確かめた、だって?
ボクは今、初めてこの娘に会ったのだ。それでは確かめようが――
「……まさか」
ライライが驚愕したような顔で呟く。
「どうしたのライライ? 何か心当たりが?」
「……シンスイ、あなたが昼間【藍寨郷】で戦った「彼」よ」
それを聞いてようやくピンときた。
まさか――徐尖さんが!?
高洌惺は口端をニヤリと歪め、
「聡いのね。そう、徐師兄は貴女の実力を計るために、手合わせを求めたのよ」
「……どうりで退くのが早かったわけね」
ミーフォンが悔しげにそう口にする。
……ジエンさんが敵だった事は、少しショックだけどまだ良いとしよう。
だがそれとは別に、問題が一つあった。
「で、でもさ、そもそもどうやって屋敷に侵入するの? 外はたくさんの用心棒に守られてるんでしょ?」
「慌てなくても、これから話すわ。貴女を選んだ最後の理由に重複する問題でもあるしね」
彼女はそこでひと区切りし、三本目の指を立てた。
「貴女を選んだ三つ目の理由、それは――その美しい容姿」
予想外の答えだった。
自画自賛になるけど、ボクは可愛らしい容姿で生まれてきた。
けれど、それが今回の計画で一体何の約に立つというんだろう?
その理由も、彼女は説明した。
「確かにタンイェンの屋敷の周囲は、用心棒たちに固く守られているわ。けど奴らは、タンイェンが【甜松林】から連れて来た娼婦には警戒しない。だからすんなり屋敷に入れる」
――美しい容姿。
――【甜松林】。
――娼婦。
これら三つの要素から導き出された一つの答えを、ボクは恐る恐る疑問としてぶつけた。
「…………まさか君はボクに、娼婦になれと?」
「そうよ。貴女にはその美しさでタンイェンに取り入り、屋敷に侵入してもらう」
彼女はあっさりと肯定し、続けた。
「私は貴女という人材をずっと待っていたわ。貴女の噂を聞いた時、私はすぐにこれを利用しようと考えた。【黄龍賽】本戦参加者には、帝都へ到着するまでの猶予として一ヶ月の期間が与えられる。でも時間に制限がある以上、余計な寄り道は避けて真っ直ぐ北上してくると思ったわ。【黄土省】へ入るための関所は、東西南北に一箇所のみ。北の関所から真っ直ぐ進めば、自ずと【藍寨郷】へとやって来る…………正直、賭けだったけれど、私は見事に捕まえたわ。李星穂、貴女という「強さ」と「美しさ」を兼備した女をね」
次の瞬間、ドンッ! という鈍器で殴るような音が響いた。
ミーフォンが手近な木の幹へ拳を叩きつけた音だった。拳が当たった箇所の木皮は削り取られ、中をさらけ出していた。
「――ざけんじゃないわよクソ女」
その声は低かったが、代わりに暗い憎悪のような響きが濃密にこもっていた。
「さっきから黙って聞いてりゃ、泥棒のくせに猛々しいにも程があるわ。あんたのお袋が行方不明? ああそれはご愁傷様ね。でもそんなもん、お姉様の大切な物をガメるための免罪符になんかなりゃしないのよ」
ミーフォンは高洌惺に鋭く歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「それにねぇ、あたしが人を痛めつける方法をどれくらい知ってると思う? あんたの頭蓋の中から【吉火証】のありかを引っ張り出すくらい造作もないわよ」
激しくは無い、落ち着いた口調。しかし一言一言に込められた殺気が、ミーフォンの本気度合いを濃く表していた。
普通なら、こんなふうに凄まれたら大なり小なり怯えを見せるだろう。
「――やってみなさいよ」
だが高洌惺は怯えるどころか身じろぎ一つせず、ミーフォンの目を真っ直ぐ見ながら毅然と言い返した。
えも言えぬその迫力に、ミーフォンは微かな動揺を見せる。
「拷問して無理矢理口を割らせるって言ってるんでしょう? いいわよ。お好きな方法でやってごらんなさい。ただし、もしも痛みに心が折れそうになったら、舌を噛み切ってあの世に逃げてやるわ。【吉火証】のありかを抱えたままね」
それを聞いておぞましく思うとともに、驚嘆もした。
彼女は自分の自害と、それによって失われる【吉火証】のありかを盾に、拷問による自白を防いでいるのだ。
そして、彼女の目からは、それをやる覚悟と気迫が強く感じられた。
まともな神経ではない。はっきり言って狂気の沙汰だ。
ボクは、それがとても恐ろしく感じた。
「私だって、自分でできるならわざわざ赤の他人に頼んだりなんかしないわ。でも、私の手には余る。この辺一帯のほとんどはタンイェンの傘下で食ってるようなものだから、他の人の助けも期待できない。武館のみんなもそれなりに腕は立つけど、それでもタンイェンの用心棒には数も力も及ばない。果てには治安局も重い腰を上げない。まさに八方塞がり。だから――もう誰かに無理矢理やらせるしか方法が無いのよ」
高洌惺は悔しさを噛み締めるように言うと、力の抜けていたミーフォンの手を払い除ける。
「さて、李星穂。改めて貴女に依頼するわ。タンイェンの屋敷に忍び込み、私の母を探しなさい。その結果、納得のいく成果を出せたなら、【吉火証】は返してあげる」
それは依頼じゃなくて命令だ――そう密かに反感を覚える。
しかし、一度頭を冷やして冷静に考えた。
確かに、彼女の要求は理不尽極まるものだ。
しかし【吉火証】を取り戻す方法は、現段階では彼女の要求に応じる事以外に存在しない。
彼女の流派は【奇踪把】であると分かったので、彼女の所属する武館を攻める手も一瞬考えた。しかし、狡猾なこの少女が、それに対して何も対策を立てていないとは考えられない。いや、むしろ何か対策があるからこそ、彼女は自分の流派を明かしたのだろう。
そして、ボクに残された時間も無限ではない。一ヶ月以内に帝都へ着かないといけないのだ。道中どれだけの時間がかかるか未知数なため、無駄な時間の消費は可能な限り避けたい。
できるだけ最速で、そして確実に【吉火証】を取り戻すには、やはり高洌惺の要求をのむしかない。
内容が内容であるため、躊躇を禁じ得ない。
しかし、やがてボクは屈辱を噛み殺し、宣言した。
「――分かった。君に協力するよ。高洌惺」
「しめた」と言わんばかりの微笑みが、彼女の唇に生まれる。
次の瞬間、ミーフォンが殴りかかるような勢いでボクにすがりついてきた。
「ダ、ダメっ! ダメです! お姉様が体を売るなんて!!」
驚き、怒り、焦り、悲しみなど、あらゆる感情がない交ぜになったような表情。その瞳はうっすらと涙で潤んでいた。
ミーフォンの心情を容易に察したボクは、いつものようにその頭を優しく撫でながら、
「大丈夫だよ、ミーフォン」
「何が大丈夫なんですか!? どうしてこんな女の言いなりになって、お姉様が好きでもない男と寝ないといけないんですか!! どう考えたってふざけてます!!」
うん。それはボクも同感だ。
でも――
「でも、そうしないと【吉火証】は取り戻せないんだ。もう一昨日ミーフォンには話してるよね? ボクが【黄龍賽】で優勝したがってる理由」
「っ……それはそう、ですけど……!」
分かるけど分かりたくない、そんな気持ちが表れた顔でうつむくミーフォン。
――分かってもらうしかない。だって、他に方法が思いつかないのだから。
けれど、悪い事ばかりでもなかった。
……実を言うとボクは、少し安心していたのだ。
てっきり、ライライ達もまとめて娼館に行け、って言われると思っていたが、用があるのはボク一人だったからだ。
ライライ達と違って、ボクは元々男。根っから女な二人に比べれば、男に体を許す事への精神的ダメージが小さいはずだから。
それにもう一つ。
ボクは高洌惺に協力するとは言ったが――男に体を開くとは一言も言っていない。
「大丈夫。ボクもタンイェンに会うまで、のらりくらりとやり過ごしてみるよ。綺麗な体で帰れるよう、最大限努力するから。こう見えてボク、とっさの機転はなかなか良いんだよ?」
そう。上手いこと立ち回ってみればいいのだ。
治しようの無かった前世の病に比べれば、この状況の方がまだイージーモードだ。打開のしようがある。
そう、前向きに考える事にした。最後の最後までそうする方が、悲観するよりもずっと上手くいきやすいということを、ついさっきライライに教えてもらったばかりなのだ。
「……でも……でもぉっ…………!!」
しかし、やはりそれだけでは足りなかった。ミーフォンはボクの服の裾を握りながら、ポロポロと涙を流し始めた。
その泣き顔を見て痛ましい気持ちになる一方、泣いてくれることに嬉しさも感じた。
女同士云々はともかく、この娘はボクの事を本当に慕ってくれている。だからこそ、ボクが慰み者になる事がたまらなく嫌なのだろう。
「……しょうがないな」
ボクはうっすらと微笑むと、ミーフォンの片腕を掴む。
そして、ぐいっと手前へ引き寄せた。
「――――んむっっ!!!????」
涙で濡れた瞳を、これ以上ないほど大きく見開くミーフォン。
ボクらは今まさに――互いの唇を唇で塞ぎ合っていた。
鼻腔を優しくくすぐるミーフォンの甘い匂い。その唇は柔らかさと瑞々しさを両方含んでいて、触れ合っていてとても心地よかった。
やがて、ゆっくりと互いの唇が離れる。触れ合っていたのはほんの二、三秒だったが、まるで一分くらい経ったかのような錯覚に襲われた。
ミーフォンの顔は当然ながら、まるで赤信号のようにまっかっかだった。頬の辺りからは、微かながらほっこりと湯気が出ている。
ボクはにっこりと笑い、陽気に語りかけた。
「はい。ボクの初めての唇は君のものだよ。これで万が一男に奪われても、初めてしたっていう記憶はずっとミーフォンの中に残る。これじゃ、ダメかい?」
大した事なかったように振舞ってこそいるものの、ボクも内心じゃかなり恥ずかしかった。
ミーフォンは何も言わない。
だが、その頬に立つ湯気の濃度がさらに濃くなった瞬間、
「……………………ぷしゅー」
ばたーん!! と、風に吹かれた棒のように横倒しとなった。
ミーフォンはそのまま、動かなくなる。
完全にのびているようだった。
「……シンスイ、あなた男前過ぎるわよ」
ライライはミーフォンと負けず劣らずの真っ赤な顔で、そう感嘆する。
ボクは恥ずかしさを隠しつつ、元気な笑顔とVサインを返した。
「とにかく、ボクを信じてよ。なんとか頑張ってみるからさ」
その言葉に、ライライはしばらく黙考した後、呆れ笑いを交えて頷いた。
「……分かったわ。でも、もし辛かったら戻ってきなさい。あなたは一人じゃないんだから」
「うん、分かった」
ボクもそう頷き返した。
そして、高洌惺の方へと向き直る。
「相談は終わったかしら?」
その見透かしたような冷笑に若干ムッとするが、その気持ちを抑え、指図するように言った。
「終わったよ。――さあ、ボクを今すぐ【甜松林】へ案内したまえ」




