第一章 ドクロ杖の少女〈5〉
スケルグがどう云った経緯で人間界へ堕ちてきたのか、しのぶは知らない。しかし、スケルグは自ら魔法を放棄し、ほぼ人間として小心翼々と暮らしている。
ただ、本来、人間に見えるはずのない魔族の姿が見えていると云うことは、それなりに凄惨な過去があるにちがいない。
魔族は人間の生き血を大量に摂取すると体内の組成が変わり、人間にも姿が見えるようになるらしい。魔族としての特性をのこしつつも、より人間に近い存在となるため、二度と魔界へ戻ることはできなくなると云う。
スケルグの姿がのどかや百川李にも見えていると云うことは、かつて彼がその手を人の血で染めたことを意味している。それでも、しのぶはスケルグが信頼に値する人物だと疑わない。きっとなにか深いわけがあったのだ。
魔界にとって人間界は僻地だ。人間界へ放逐された魔族が多少の殺人を犯したところで、魔界にはなんの痛痒もない。
人間界に陰陽師や祓魔師がいることは把握しているので、彼らが勝手に悪魔を退治してくれればよいと思っている。よほどのことがないかぎり、魔界が人間界に干渉することもない。
そのため、スケルグは堕ちてきた魔族と人間界との仲介役を果たしている。例の腕輪で魔族を人間界へ帰化させる手助けをしているのだが、応じた悪魔はほとんどいないらしい。
ちなみに、人間界側の窓口が、宮内庁へつらなる極秘機関〈陰陽省〉である。
平安時代から歴史の裏舞台で悪鬼妖怪のたぐいを相手にしてきた組織だ。その存在を知っている一般人は、天皇および数名と云われており、歴代総理大臣にもその存在は秘匿されてきた。
悪鬼妖怪の退治屋は、そのほとんどが陰陽省へ所属している。陰陽省のうしろだてがあって、スケルグの堕魔族(悪魔)帰化計画は成り立っているのだが、いまひとつ成果はあがらない。
4
気がつくと、しのぶのとなりに腰かけていたのどかが、お腹にベーグルクッションをだいたまま寝息をたてていた。
「すか~ぷしゅるるるる。すぴ~ふしゅるるるる」
「うわ、いつの間にか寝てるし。ひょっとして、こいつおぶって家まで帰らなくちゃなんないのか? 勘弁してくれ……」
のどかが一度眠りにつくとテコでも起きないことを経験的に知っているしのぶは頭をかかえてうめいた。
おとなしくスケルグのタンシチューに舌鼓を打っていた百川李が、おずおずとしのぶへ訊ねた。
「あの……一体あなたたちはなに者なんですか?」
「今頃それを訊く?」
「だって、あんな状況でまともにものを考えられるわけないじゃない」
「いいよ。なにも考えなくたって」
「でも自分の身になにが起こったのか知りたいのは当然でしょ?」
「なにが起きたのかはわかってるだろ。夜遊びして悪魔に襲われかけたあんたがヘンテコ少女と白い鹿に助けられたってだけの話さ」
「だけって……」
「少しでも感謝の気持ちがあるならなにも訊くな」
「でも……」
「デモもストライキもあるか。文句があるならタンシチューとココア代、5500円(税込)払ってどこへともなり消えてくれ」
「そんな……」
しのぶはあえて卑怯なカードを切って百川李をだまらせた。
百川李の困惑と好奇心はわかる。彼とておよそ1ヶ月前までは、サッカーに青春をささげる、ごくふつうの高校1年生だったのだ。
よもや自分が特異体質者で魔族(悪魔)の姿を見ることができたり、白い鹿に変化できることすら知らなかったのである。
およそ1ヶ月前。鹿香しのぶはJR坐浜駅前で行き倒れていた碧眼の美少女を助けた。
彼女の名前はモヘナ・ペルセポナ・レメディオス・アキバ。魔族の精鋭戦闘部隊〈冥土の巫女〉の一員である。
それをきっかけに、しのぶは魔界の陰謀に巻きこまれ、由緒ある神社の末裔で、先祖代々悪鬼妖怪の退治屋と云う狩庭紀里香・のどか姉妹にも出逢った。しかも、彼女たちはしのぶのイトコだった。
ひょんなことから、天駆ける神使の白鹿に変化したしのぶは、モヘナたちとともに魔界の陰謀を打ち破ったのだが、彼が魔界のパワーバランスをくずしかねない存在であることがあきらかとなる(ただし、彼が白鹿に変化できることとはなんの関係もない)。
そのため、魔界からの護衛にモヘナが、人間界(陰陽省)からの護衛に紀里香・のどか姉妹がつくことになった。
こうして護衛についたはずの紀里香・のどか姉妹から、天駆ける白鹿の機動力に目をつけられたしのぶは〈悪魔狩り〉のタクシーがわりとして、夜ごとこき使われているのだ。
護衛されるどころか、危険な現場の最前線へ4本足で立たされている。
その上、乗鹿(?)の下手なのどかのせいで、背中にはすり傷が絶えない。
(おれの平穏な日常はどこへ行ってしまったのだろう? ゆやーん、ゆよーん、ゆやゆよん)
理不尽かつ不愉快な現実をまざまざと思いかえして、しのぶは中原中也の詩なぞ脈絡もなく引用しながら無言で意気消沈した。
そのようすを見かねた百川李が声をかけた。
「あの……私、なにかあなたを傷つけるようなこと云った?」
百川李の声で我にかえったしのぶが、うつろな笑顔で答えた。
「いや。あんたには関係ない。こっちにもいろいろあってね。ま、おれも好き好んでこんなことに首を突っこんでるわけじゃないんだ。ハ、ハ、ハ」
「……なんかよくわかんないけど、あなたも苦労してるんですね」
「ま、そゆこと。おれたちはもう帰るから、あとはスケルグにしたがってくれ。あんたの家出の原因も彼に相談してみるといい。スケルグなら快刀乱麻に打開策を教えてくれるさ」
「あの……、ありがとうございます」
百川李はしのぶへ頭を下げた。今夜はわけのわからない悪魔とやらに乙女の純潔や命をうばわれなかっただけでも奇跡だ。
そんな危機を救ってくれただけでなく、寝床を用意し、おいしいタンシチューまでごちそうしてくれた人たちを疑う理由はない。