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一夜が明けても、この街は暗黒が覆われていた。もはや神も悪魔も、陰でこそこそと動くことを隠し馳せず、堂々と異常を引き起こしている、という状況であった。
街の住人達のほとんどが、恐らくこの異常を察知しているのだろう。街は異様な静けさに包まれ、人の姿はない。いや、ただ単に、もはや無事な人間などいないのかもしれない、と思わせる。
事実、この街にいるものは普通の者たちではない。悪魔、天使、それに闇の世界を知る人間たち。それくらいのものである。
一夜で様子の変わった街を、窓から眺めるあさぎは隣のベッドで寝ていた優輝が起きるのを見て、「おはよう」と述べた。だが、太陽は天に輝いていないので、朝、と言う印象は受けなかった。
先ほど起きた際、霧伏に聞いたところ、時間の流れでは朝に値するのだが、現実世界とは異なる法則のもとにあるのだという。
「お姉ちゃん、僕たち、ちゃんと生きているよね」
「ええ、大丈夫よ」
弟を安心させるために、抱きしめる。弟は未だに不安そうではあったが、少しは落ち着いている様子である。
あさぎは弟を引き連れて下に降りた。下に降りると、霧伏がキッチンで朝食を作っていた。
彼の少し離れた場所では、入沢が顔を上げて二人を見る。
「おはよう、少しは眠れた?」
「ええ、おかげで」
寝ることができたし、落ち着くことができた。あさぎがそう言うと、よかった、と入沢は答えた。
「今日は昨日以上に動くことになるかもしれないわ。事前に、それだけは覚悟していて」
あさぎはああ、地獄は終わっていないんだな、と感じた。自分たち、いや優輝を狙うものは数多くいるのだ。こうして一晩休めただけでも、奇跡と言えるだろう。
「でも、これからどうするの?あなたたち二人だけで、どうにかできるの?」
「できるかどうか、ではないわ。するのよ」
入沢はそう言い、安心させるように言う。
「それより、もう少しで朝食ができるわ、座って待ってて」
「作っているのは俺なんだがな」
そう言い、さらにもったスクランブルエッグやらなんやらを持って、霧伏がやってくる。あさぎは意外だな、と言う目で見る。
「元天使が料理、って似合わないわね」
「これでも、下界暮らしは長いんでな」
そう言った霧伏はきょうだいの前に朝食を置き、またキッチンに戻り入沢の朝食を持ってくる。
「ありがと」
入沢があそう言い受け取るのを見ると、おや、と優輝が疑問に思う。
「霧伏、さんは食べないんですか?」
「ああ、しばらく食わずとも、俺は動けるからな」
人間並みの肉体とはいえ、食事をとらずに済む、というのはどういう身体をしているんだなろうな、ときょうだいは思った。
それにしても、天使が朝食を作る、と言う姿はシュールだなぁ、と思う。とはいえ、想像していた天使とは霧伏の姿は大きく違った。現実の彼は、冴えないメガネの男子だからだ。
「入沢さんは料理は作らないの?」
「彼女はそういうのは、からっきしだ」
入沢が答える前に、霧伏が答える。入沢が抗議の声を上げるが、反論できないために、尻すぼみに声が消えていった。
「これでも彼女はもとは地方ではお嬢様でな」
「へえ」
あさぎが入沢を見る。そう言えば、どことなく庶民、と言う感じがしない。その容貌も相まって、お嬢様と言っても違和感はない。
「地方と言っても、本当に田舎のよ。それに、その頃の私は、ただの世間知らずだったし」
しみじみと言う入沢は、そういい霧伏の淹れたコーヒーを飲んだ。
「それより、どうするの霧伏。今後のプランは?」
「向かってくる敵は切り伏せるだけだ」
「それだけじゃあ、一生終わらないわよ」
「わかっている」
霧伏はそう言い、自身のコーヒーを啜った。
「ガブリエルと話をしてみようと思う」
「ガブリエル、って天使ですよね」
優輝の問いに、霧伏は頷く。ガブリエルともなれば、詳しくないものでも一度は聞いたことのある名前であろう。
神の忠実な僕であり、天使の中でも絶大な力を持つ天使の一人だ。
「でも、そのガブリエルも天使、つまり敵なんですよね?僕たちにとっては」
「その通りだ、優輝。だが、うまく説得できれば、あいつならば」
「霧伏とは天使時代の親友だったのよ。幸い、他の天使ほど頭も固くないしね」
ガブリエルと面識もある入沢が口をはさんだ。しかし、入沢としてはこの期に及んでガブリエルが助力してくれるとは思っていなかった。
「でも、私は反対よ。ガブリエルは確かに信用できる天使ではあるけれど、彼は今回私たちの味方にはならないと思う」
「それでも、天使を味方にできれば、状況は変わる。かけてみる価値はある」
昨日、エリサエルを撃退している。エリサエル程度では倒せないと知れば、天使側もガブリエルやミカエル、ラファエルクラスの天使をよこしてくるはずである。その中でも天使サマエルと相性的に、彼が適任である。ガブリエルが前に出てくる可能性は、高い。
「どちらにせよ、奴とは相対することになる。そこで話してみて、駄目だったなら戦うさ」
「ふぅん」
入沢は本当にできるかしら、と半目で見ている。霧伏はそれを流し眼で見て、顔を逸らした。
他にも悪魔や陰陽師の動向も話したかったが、それきり会話が途切れてしまった。下手にあさぎや優輝を不安にさせる必要もないだろう、という二人の意向もあった。
次第に結界が薄れる中、残り少ない時間を四人は過ごしていた。
地獄の最深奥、原罪の城。
七つの椅子が円状に並び、一つの座を除き、そこには悪魔たちがずらりと並んでいた。
一番巨大な椅子に座るのは、地獄の王にして、悪魔の王サタン。不敵に笑う悪魔の王は、静かに笑っている。
その隣に座すのは、気怠そうな巨体の悪魔。たるんだ皮膚、悪臭を放つ肉。長い髭と、いやらしい光を放つ黄色の瞳は、見るものを不安にさせる。
名をベルフェゴール。『怠惰』を司りし悪魔である。
その隣に座るのは、スーツ姿の悪魔が座っている。三十代ほどの人間男性の姿をしており、目元はサングラスに覆われている。無精ひげの生で、どこか野性的な印象さえ受ける。
名をマモン。『強欲』を司る悪魔である。
その隣の席は、空席であった。本来そこにいるべき悪魔、蝿の王ベルゼバブの姿はそこにない。かつて『暴食』を司る悪魔は霧伏巽によって退治されている。その際、その魂ごと地獄に送り返されたのだが、その肉体は未だ再生を果たしていない。未だ身体の再生すらできないベルゼバブの悲鳴は、地獄の下級悪魔たちを怯ませている。
哀れなベルゼバブの席の隣は、『色欲』を司る悪魔、アスモデウス。黒い翼に、官能的な肉体を持つ妙齢の女性の姿であった。目は紅く輝き、その魔性の魅力には、天使も悪魔も抗うことは難しいだろう。紫色の唇はてかてかと光り、他の大罪すら飲み込もうとしているように見える。
その隣、この世のものとは思えぬ美貌を持つ美青年。およそ彼以上の存在はいないであろうと思われるほどであり、あらゆる次元で彼ほど完成されたものはおそらくないであろう。完成した美が、そこにはあった。
かつて、天使の中でも『光あふれるもの』と呼ばれ、神に愛された天使であった。しかし、サタンとともに神と天使に背いた、サタンと並ぶ悪魔として知られている。『傲慢』を司る悪魔、ルシファー。
そのルシファーとサタンに挟まれているのは『嫉妬』を司る悪魔、レヴィアタン。
彼の場合、玉座には座っておらず、その玉座にその身体を撒きつけていた。リヴァイアサンとして知られるこの悪魔は、東洋の竜や蛇に近い姿をしている。あまりにも巻きつきがきついために、玉座はびしびしとヒビが広がっている。口元からは、チロチロと蛇のような先端の割れた舌が現れては消えた。
「どうやら、サマエルの介入があったようだな」
悪魔たちの会合でまず口を開いたのは、ルシファーであった。至高の芸術品、光あふれるものは、じろりとサタンを見る。
「聞けば、戦いの前に奴に情報を与えたという。何を考えている、サタン」
一斉に他の大罪の視線を受けても、『憤怒』を司る悪魔はけろりとしていた。
「いいだろう、ゲームは呆気なさすぎるとつまらん」
「めんどぉーな、ことぉぉ、するぅぅ」
のんびりとして、それでいて聞く者を不快にさせる間の伸びた声。発現者であるベルフェゴールは自身の鼻穴に指を突っ込み、ほじくる。ほかの悪魔たちの蔑視の視線をものともせず、ベルフェゴールはサタンを見る。
「ただでさぁえぇぇ、天使もぉ、いるのだぁぞぉ。『運命の子』がぁ、奴らに渡ったならばぁ、我々はァぁぁ・・・・・・・・・・」
「てめえに言わせると、何時間かかるか分かったもんじゃあねえ」
マモンはそう言い、ベルフェゴールの言葉を中断した。
「まあいいぜ、俺様はただ手に入れるだけだ。俺様は強欲のマモン様だからな。天使どもなんぞ、蹴散らしてくれる」
「そうねえ」
アスモデウスはうっとりとマモンを見て、同じ目でサタンを見る。
「工作のおかげで、ワタクシたちも久々地上に出れるものねえ。久々暴れようかしら」
「好きにしろよ、ゲームはみんなで楽しむべきだ」
サタンは嗤う。
ルシファーはただ黙ってサタンを見る。だが、これ以上何も話すことはないとわかると、ならば、と立ち上がる。
「ならば、こちらはこちらで好きにやらせてもらうぞ、サタン。貴様ほど私は面白おかしくやってられんからな」
そう言い、その姿が消えると、マモン、アスモデウスもサタンから顔を背け、その姿が消える。
のっそりと玉座から立ち上がったベルフェゴールも消えた。
サタンはちらと横を見た。その時には、レヴィアタンの姿もいつの間にか消えていた。
クツクツ、とサタンは嗤う。
「いやぁ、まったく詰まらん奴たちだなあ」
まあいいさ、とサタンは肩を竦め、その姿を消した。
「大罪が動いた」
四つの影が動く。四つの影の上には光の環、アウラが浮かんでいる。その背後には複数対の翼が生えている。その翼の数から、かなり行為の天使であることがわかる。いずれも目を見張る美貌を持ち、この世のものとは思えない。
ガブリエル、ミカエル、ラファエル、ウリエル。名高き天界の実力者たちである。
彼らは彼らの宿敵である七つの大罪が本格的に動き出すのを感じていた。
「こちらも、動かねばな」
ウリエルは口を開き、その閉じられた両目で下界を見る。
「しかし、『運命の子ども』はサマエルの手の中にある。あやつの手から子どもを手に入れるのを優先すべきでは?」
ミカエルの言葉に、しかし、とガブリエルは言葉を濁す。
「七つの大罪を放っておくわけにはいくまい。彼らを地上に出しては・・・・・・・・・・」
「それは問題ではない」
ラファエルがガブリエルの言葉を遮る。
「人間の犠牲など、アルマゲドン・・・・・・・・・・『最後の審判』の前には無意味だ。人間への嬢は捨てろ、ガブリエル。貴様の友人の堕天使のようには、なりたくなかろう」
ラファエルの言葉に、口を閉ざしガブリエルは他の三人を見た。
「・・・・・・・・・・・・だが、ガブリエルの言葉も一理ある。ふん」
ウリエルはそう言うと、ラファエル、ミカエルを見る。
「我ら三人で、大罪は相手しよう。ガブリエル、貴様はサマエルを相手にしろ」
相性の問題でも、貴様が一番適任であろう、とウリエルは命じる。
「ただし、情けはかけるな、ガブリエル。これは聖戦なのだ。これがもたらす先の世界は、我々天使と髪による世界でなければならない。どういう意味かは、分かるな」
「無論。私とて、天使だ。その意味は十二分に理解している。使命の為ならば、友情も切り捨てよう」
ガブリエルの言葉に、ウリエルは頷くと、「ゆめゆめその言葉、忘れるな」と厳かに呟く。
「さて、それでは聖戦を行おう」
ウリエルの手には、いつの間にか黄金に輝く槍があった。
何対もの光り輝く翼を広げ、ウリエルは告げる。
「・・・・・・・・・・我らが神のために」
「「「我らが神のために」」」
それに続き、三人が唱えると、光に包まれ、四人の天使の姿は消えた。