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久留宮あさぎは、早朝の部活のためにいつものように六時お気をしていて、歯を磨き、寝癖を直していた。
現在高校二年であり、陸上部に所属するあさぎは、三年生引退後は陸上部の副部長をしている。あさぎは面倒くさがりだが、人望はあり後輩からも慕われている。短距離を専門とし、特に100メートルでは市内でも二位に入る実力者である。県大会では惜しくも一位は逃したが、それでも二位になったのだから、彼女が副部長になるのは当然であった。とはいえ現部長で、彼女とは違い県大会でも一位を取った幼なじみ、渋谷庸人には敵わない。彼女が部長になったら、面倒くさい朝練も廃止だ、と意気込んでいたが、庸人が部長になったため、それは防がれてしまった。
自分がここまでの成績を残すことができたのは朝練のおかげでもあるのだが、正直面倒なものは面倒であった。あさぎははぁ、とため息をつくと、洗面所を出る。
自分の部屋に行く途中、弟の部屋の扉をそっと開く。今はまだ小学二年生の弟は、愛らしい顔で眠っている。弟は部活などはないから、もう少しゆっくりしていられる。それを少し羨ましそうにし、あさぎはそっと扉を閉めて、朝練に向かう。
制服を鞄に詰め込み、学校のジャージ姿で登校する。学校への投稿は制服と決められているが、どうせ着替えるのだから、と大抵の朝練をする部活はジャージ投稿である。それは学校側も黙認している。下手にうるさく言っても効果はないし、そこそこの成績を残す部ばかりなので、学校としても強気でいられない、というわけだ。
秋になり、少し肌寒いがそれも走っていれば慣れてくるだろう、と半ズボンを見てあさぎは思った。
自宅から学校までは十分少々。近道の公園を通って、と思った彼女はふと足を止めた。
「・・・・・・・・・・・なに、これ?」
そう呟き、しゃがみ込む。彼女の足元には何か黒い欠片が落ちていた。不思議な光を放つそれを手に取ると、微かに臭いがした。
どことなく不気味に感じ、彼女はそれを投げ捨てた。
ゾワリ、と鳥肌が立つ。なぜかは知らないが、いやな予感がした。
あさぎは足早に公園を抜けると、逃げるように学校に向かっていった。
ここ最近のこの街での異常事態を彼女も知っており、そのせいで敏感になっているだけだ、とあさぎは自分に言い聞かせた。そうに決まっている、と。
学校につき、彼女はすぐにその不気味な体験を忘れた。走っているうちに、そんなことは忘れてしまった。いつものように後輩たちと話して、腐れ縁の庸人と奔った。
更衣室で軽く汗を流し、制服を着ると彼女は自分の教室へと向かっていく。
教室につき、仲の良い女友達に挨拶をしながら自分の席に向かうあさぎ。そんなあさぎの耳に、男子たちのひそひそとした話し声が聞こえてきた。
「なあ、聞いたか?隣のクラスの浜松のこと・・・・・・・・・」
「ああ、あいつ一昨日から家にも帰ってきてないんだろう?」
声を静めているので、この騒がしい声では聞こえづらいはずだが、不思議とあさぎの耳にはよく聞こえてきた。あさぎは特に注意をして聞くけではなかったが、だからといって流し聞くわけでもなかった。
「あの浜松が帰らないなんてな。あいつ、友達同士で遊んでても門限には帰るやつだぜ?」
「遅い反抗期かもよ?」
「だがよぉ、知るところの知り合い全員が浜松の行方を知らないんだぜ?あいつの親父さんが警察に捜索願だしたって話だぜ?」
警察官の親を持つ少年はそう言い、「あ、これ内緒だからな」と言う。浜松が登校しない理由は先日までは家庭の事情、と言うことだったのだ。下手に言いふらし騒ぎにしてはいけない、と父からもふたをされていたのだ。つい話してしまったが、少年はそう言い仲間たちにお願いをする。仲間たちもそうそう浜松のことを言いふらすような精神は持ち合わせてはいなかった。
「最近、多いよな・・・・・・・・・・この街、どうかしちまったのか?」
一人の少年の言葉に、彼らは沈黙する。
異変、か、と自分の席に座り、あさぎは一人呟く。確かに、このところこの街はおかしい。何がおかしいか、と問われれば、全てがおかしいように思える。行方不明者数、死亡者数、いずれも過去に例を見ない数である。
夜な夜な学校や家が荒らされることも頻発している。あさぎの通う高校や弟の通う小学校、それに登下校の際の市の車による放送など、至る所で注意を促されていた。なるべく一人にならず、夜の外出は控えるように。耳にタコができるほど、聞いた。
けれど、一向に行方不明者は減らない。被害者は増えるばかりである。
物思いにふけっていると、ヒュウ、と風が吹き、彼女の頬をくすぐる。
彼女の髪を揺らした風は、そのまま隣の席に置かれた本のページをまくる。机の上に置かれた本のページが開き、悪魔の書かれた挿絵があさぎの目に映る。不気味な角を生やし、その巨大な翼を背に生やし、こちらを見る悪魔は、不気味にあさぎを見て微笑んでいた。
帰りのホームルームでは、しばらくの間、部活動は中止にする、と担任から告げられた。多くの生徒が部活に入っており、その中には不真面目な生徒もいたが、大半が熱心な生徒であり、ブーイングの嵐が巻き起こる。しかし、この高校からも行方不明者が出た、と名前は明かさずに担任が言い、教育委員会からのお達しなんだ、と小さな声で担任は呟いた。それならば、学校としても逆らうわけにもいかない。なにより、自分たちの安全の為なのだ、仕方がないだろう。
面倒な部活に出なくていい、とはいえ、後輩たちと触れ合い、走ることができない、という事実はあさぎの心を重くした。なんだかんだ言っても、自分は部活が、陸上が好きだったんだ、と彼女は思った。
仕方なく帰る彼女は、下駄箱で庸人に会った。
「あ、庸人!」
「よっす、あさぎ」
いかにもスポーツ少年、といった風貌の少年は好意的な笑みを浮かべる。
「しばらくは部活、あれだけど、まあ、またしばらくしたらできるようになるだろうよ。それまで、訛らせるなよ?」
「そっちこそね、庸人」
そう言い、あさぎが笑うと庸人も笑い、「じゃ、また明日な」と手を振り、駆けだした。
あさぎもその背に向かって、軽く手を振る。その姿を後ろの方で見ていたあさぎの友人たちが、あさぎを見てにやけ顔で言う。
「あさぎぃ、渋谷君と仲いいねえ、相変わらず」
「幼なじみなだけよ、庸人とは」
「本当かなぁ、実は恋人だったり~?」
からかう友人たちに、顔を赤くしたあさぎは膨れ面で言う。
「違うったら!」
「向きになるのが怪しいなあ」
そう言い、キャハ、と笑う友人たちとともに、あさぎも下校する。
ふと、あさぎは後ろを振り返る。長い、自分の影だけが後ろには広がっていた。
今、何か視線を感じたような、と思うあさぎだが、それは自分の勘違いとすぐに思い込んだ。隣の友人たちは、何事もないようすであったからだ。
そんな、彼女たちから少し離れた道の先で、一人の高校生がその首筋をかみ砕かれ、絶命していた。その死体を下卑た目で見た青い悪魔たちは、のっそりと死した肉体に近寄り、大きく醜く、口を開いた。
そして、ガブリと一斉に噛みついた。
「ただいまぁ」
「お帰り、お姉ちゃん」
「優輝、帰ってたのね」
自宅に帰ったあさぎを迎えたのは、小学校から帰宅していた弟の優輝である。優しく、気の弱い優輝は姉であるあさぎとは違い、運動は嫌いであり、友達も少ない。そんな優輝とあさぎの仲は普通のきょうだいよりは仲がいい、と言えるだろう。少なくとも、彼女の友達たちよりかはマシである。これは少しばかり、あさぎと優輝の年が開いているのもあるかもしれない。あさぎにとっては手間のかかる、だが可愛い弟であり、そんな姉を優輝も頼りにしていた。
「お母さんたち、少し遅くなるってさ。ごはん、先食べててもいい、って」
「ん、優輝、お母さんたち、まっている?」
「うん」
共働きの両親だが、その職場は同じ場所であり、たいてい二人一緒に帰ってくる。遅くなるときは大体、七時過ぎである。二人だけの食事も味気ないから、たいてい待っているのだが、優輝がお腹を空かせている場合は先に食べることもあった。
優輝の言葉に「わかった」と言うと、あさぎは自分の部屋に向かい、鞄を置き、着替えをする。着替えをしながら、優輝に向かって言った。
「優輝、今日は宿題、見てあげなくていい?」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。それより、ゲームの続きしない?」
わくわくした様子の弟の声に、あさぎは笑うと「わかった」と返事をする。
「今日は負けないわよ」
「僕だって!」
そう言い、おかしそうにあさぎは嗤うと、リビングの弟のもとに向かっていく。
弟とゲームをしているうちに、七時を過ぎ、親が帰ってくる。あさぎと優輝はゲームを片付けると、夕食の準備をし、両親を出迎えた。
そして、親子四人でその日の夕食を楽しんだ。
何気ない団らんの時間を、あさぎは満喫する。
時折、彼女の耳に届くニュースは酷く不吉なものであり、彼女に不安を抱かせる。
(大丈夫よ、私もお父さんもお母さんも、優輝も、誰もいなくなったりなんてしない)
そう自分に言い聞かせ、あさぎは弟の方を見る。ご飯粒を口につけている弟にそれを注意し、おかしそうにあさぎたちは笑った。
そんな家族を、窓の外より見ている黄色の瞳に、あさぎたちが気づくはずはなかった。
翌朝は、昨日よりも一層寒くなっていた。
久々の部活のない学校に、少しだけのんびりと起きたあさぎ。そんなあさぎは、普段は読む暇のない新聞に目を通す。
「あ・・・・・・・・・・・・・」
『また行方不明か?今年に入り・・・・・・・・・・』新聞の見出しが目に映る。
「またかぁ」
テレビを見ていた父が呟く。
「本当に、いったいどうしちまったんだ、近頃のこの街は」
「本当にねえ、あんたたちも気をつけなさいよ」
父の言葉に母が答えて、弟の寝癖を直しながら言った。
「母さんたちの会社の人もいなくなっているし、何があるかわからないからね。携帯だけはちゃんと持っていなさいね?」
そう言い、優輝にもしっかりと携帯を握らせる母親。小学生の時から携帯を持たせるなんて、と反対していた母も、この事件で少し考えを変えたらしい。何かあったら、すぐに連絡できるように、と先週急いで買ってきたのだ。母親も優輝が事件に巻き込まれたら、と考えたのだろう。
あさぎと優輝が登校の準備を済ませ、玄関に向かうと両親は彼女らを見送る。
優輝の頬にキスをして、頭を撫でて「いってらっしゃい」と母親が言う。あさぎは優輝の手を握り、弟共に声をそろえていった。
「行ってきます」
「ねえ、お姉ちゃん」
優輝が歩きながら聞いてくる。あさぎは首を横にして、なに、と問い返す。
「もしも僕がいなくなったら、お姉ちゃんは悲しい?」
「それはもちろん。お母さんやお父さんと一緒で、あんたは大切な弟よ、いなくなって哀しくないはずないじゃない」
そう言い、頭をくしゃくしゃ撫でると、「じゃあ」と優輝が言う。
「何かあったら、お姉ちゃん、僕を助けてくれる?」
優輝のどことなく、いつもと違う様子にあさぎは疑問を感じたが、力強く頷き、優輝の目を覗き込む。
「当然よ、優輝」
「よかった」
優輝はそう言うと、姉の手を離した。早紀の方で道は二つに分かれており、そこがちょうど二人の分かれ道となるのだ。
「それじゃあ、気を付けて帰ってくるのよ、優輝。またあとでね」
「うん」
手を振り、あさぎは弟と別れる。そして、あさぎは高校へと向かっていく。
そんな姉を見て、優輝も小学校の方向へと足を進めた。
『みぃつけた』
声が響く。低く、不気味なしゃがれた声が。耳障りな声は、闇の中にだけ響く。
黄色の瞳が、闇の中で仄かに輝き、消えた。