1
DEMONS EXIST. THEY ALWAYS WATCH YOU.
オカルト、超常現象、心霊現象、迷信。それらを多くの人々は架空のものとし、怖がりこそすれども、実際はほとんど信じてはおらず、映画や小説など、娯楽として味わう程度であろう。誰もがそれを現実とは受け止めない。
しかし、それらは実在するのだ。ただ、多くの人間の目には移らない、闇の底で蠢いているだけで、それらは日常のすぐそばに存在している。
人間たちのすむ層に、きわめて近く、だが知覚されない向こうの世界には、地獄の怪物や悪魔が常にこちらの世界を見ている。そして、あわよくばその世界の境界線を越え、こちらの世界に侵攻しようとしてくる。
太古の昔より、そう言った悪魔や心霊はこの世界に入り込み、それらの影響で各地に迷信や伝説が生まれた。
科学が発達する以前、魔術や神が侵攻されていた時代には、それらを皆が信じ、そして、対処法も知っていた。だが、科学の発展とともに、魔術や超自然、神学は多くの場面で否定されるようになった。
宗教を信じるものでさえ、悪魔を信じるか、と問われれば、多くのものが首を振るであろう。
言い伝えを守ってきた人々も年老い、神も悪魔も怖れぬ現代人が増えた。そして、急激な地球人口の増加。それは、多くのひずみを生む。
人の数だけ、悪意が存在する。怒りや欲望といった負の感情は、悪魔や霊を呼び寄せる。
未だかつてないほどに、今の世界は向こうの世界に近くなっており、境界線は曖昧になっている。けれど、それを知る者はごくわずかである。危機はすぐそこにまで迫っている。
悪魔が鎌首をもたげ、こちらを見ている。黄色い瞳を爛々と輝かせ、穢れた唇からは硫黄の香りのする唾液と、欲望を吐き出している。
今もまた、一匹の悪魔が向こうの世界からこちらの世界にやってきた。絶望を糧に、悪魔は現世に現れる。人の弱みに付け込み、力を得るために、彼らは何でもする。
悪魔が存在するように、天使もまた存在する。天使、すなわち神の使いたちはしかし、そう言った悪魔を未然に防ぐことはほとんどない。
天使と悪魔の間にも不文律があり、互いに争うことはたった一度を覗いては、小規模なものばかりである。とはいえ、その小規模なものも、彼らの視点であり、それは人間界に大きな影響を及ぼす。だから、彼らは協定を結んでいるのだ。
神や天使に祈りをささげても、無駄だとは知らない人間たちは、己の欲望が招いた結果に悔いながら、死んでいく。地獄の業火に焼かれ、魂は悪魔に引き裂かれる。
天使が人間を救うことはない。天使は慈悲深くない、利己的な存在だ。父なる神と自分を中心に考える絶対主義者ばかり。彼らが人を救うことなどない。人間安堵、彼らにとってみれば蟻に過ぎない。一匹の蟻が死のうとも、それで大騒ぎするはずなどないのだ。
・・・・・・・・・・・・ならば、誰が悪魔から我々人間を守るのか?
冷たい風が吹いた。まだ本格的な冬ではないのに、肌を指すように痛い。
薄いトレンチコートをさすり、仕事に疲れたサラリーマン、と言った風貌の男は街の中を歩く。
子どものころから住み慣れたこの周辺ではあるが、近ごろは再開発や都会化が進み、数年で大きくその姿は変わっていた。まるで、どこか別世界の様にすら感じていた。
人間関係も大きく変わった。子供のころの近所の老人たちはすでに死に、代わりに見慣れぬよそ者が入り込んでくる。近所付き合いもろくにせず、地域社会に溶け込まない者たち。けれど、今やそれが圧倒的に大きくなっていた。
これが、現代社会の抱える問題の一つかもな、と改めて男性は思った。老人たちが「昔は」と呟くのは好きではないが、こればかりは彼も同意せざるを得ない。
彼自身、次第に地域社会から離れていることを自覚していた。一応行事に参加はしているが、年々その人数は減るばかりであるし、娘たちも関心を示さない。
中学生になる娘は色気づき、小学生の娘も今ではよくwからない。
会社での中間管理職と言うストレスのたまる一であり、彼自身、家庭を顧みる余裕はない。妻は昔ほど愛らしくは見えないし、陰では浮気をしているのでは、と勘繰ってしまう。そんな自分を恥じるが、心の闇は広がることを押さえることができない。
一体、何時からこうなっただろうか。何時から、こんなにこの街は棲みづらくなったろうか?
夜道を歩き、家路を急ぐ彼は、ふと気づくと自分の周り以外は電気が消えていることに気づいた。
人気はないし、自分の真上の電灯だけが、示し合せたかのように灯っている。
闇が蠢いた気がして、男性はひるむ。
化け物?いや、そんなものがいるはずがないんだ。
子どものころには、そう言ったものは信じないようにした。UMAや怪奇現象など、全部作り物。フィクションだ。恐れることはない。
「お化けなんてないさ」
そんな詩を唄ったな、などと思い、男は足を進める。先ほどまでの電灯が消え、彼の数歩先の電灯がともる。
これには、男性もゾクリ、と背筋を凍らせる。
ふと、周囲を見る。あたりには、誰もいない。
恐怖が押し寄せてくる。周囲は闇に染まり、何も見えない。通り慣れた、毎日通る道。それも、この時間ならば、まだ人は数人ほどいつもいるはずだ。今日に限ってなぜいない?
答えの出ない問いを浮かべながら、男性は急ぎ足で家に向かう。
家に行けば、安全だ。そうだ、何か悪い夢だ、疲れているんだ。
脚は次第に速度を上げ、気づかないうちに彼は走っていた。彼が奔りだすと、闇はさらに彼を追ってきた気がした。
ぞぞぞ、と何かが近づく感触。背後は暗闇、前方にはわずかな明かり。けれど、明りの方向に行けば、安全だと彼は思った。
はあはあ、という自分の吐き出す息と足音、それに心臓の鼓動だけが聞こえる。
恐怖を感じたのは、恐らくこれが初めてであろう。
ホラー映画の恐怖とは、全く違う、本当の恐怖だった。
普通の人間である彼は、この平和な日本で育ち、犯罪にも巻き込まれなかった。それが一転して、このような状況にいるのだ。
鼓動が、やけにうるさくなる。
彼の目の前に、見慣れた家が見えてくる。妻と結婚した時、無理をしてでも、と買った一軒家が。
助かった、と思い、玄関に手を駆けるが、その扉が開くことはなかった。
「どうしてだ!?」
叫ぶ彼に、背後の気配は近づいてくる。
「止めろ、来るな」
姿なきそれに向かい、彼は言った。見えないが、本能が彼に教えてくれる。それはすぐそこにいる、と。
「止めろ、ヤメロォぉォォォォォォ!!!!」
叫ぶ男性は、手に持っていたカバンを投げるが、それは闇に切り裂かれ、消滅した。
そして、逃げ場のない男性は、静かに近寄る闇に怯え、へたり込む。
姿なき怪物は口を開ける。不気味な粘膜のこすれる音、カチカチと鳴る音が、男性の耳に入る。
そして、シャアアア、という音を最後に、彼の意識は消え去った。
翌日、夫の帰宅を心配した妻が玄関で見たのは、変わり果てた夫の姿であった。
紅葉した葉が風に乗り、飛んでいく。朝日のおかげで、肌寒さは少しだけ和らいでいるように感じる。薄着の女性たちはそれでもどこか寒そうであり、そろそろ冬物の準備をした方がいい、と考えているのだろう。男たちも、ポケットに手を突っ込み、会社や学校へと足を急がせる。
朝の忙しさに包まれる街中で、一組の男女は少し離れた広場から、人の波を見ていた。
「いやあ、忙しなく動いてるねえ」
少女、と形容してもいいであろう片割れは、整った顔に、長い茶髪をサイドテールにしている。どこか日本人らしくない顔立ちであり、うっすらとだが化粧をしている。もう秋の半ばと言うのに、真夏のような薄着である。
少女のすぐそばにいる少年は、野暮ったい眼鏡をしていた。いわゆる根暗な少年などが漫画や小説出かけている黒縁メガネをしており、学生服の上に薄手のコートを着ている。手には文庫本を持ち、それを熱心に目で追いかけていた。
「まあ、僕らにはもう関係のないことだ」
年齢的に見ても、高校または大学生であろう二人だが、人ごみから離れ、それに加わる気配はない。
二人は学校などと言うものには所属していないし、そもそも普通の人間社会から離れた位置にいるのだ。
「それで、何かわかった?」
少女が問うと、少年は本を閉じ、目を開いた。黒い瞳が、一瞬光ったように見えた。
「この街を覆う瘴気を感じる。巧妙に隠されているが、この目はごまかされない。間違いない、この街には悪魔やそれに類する者たちがいる。それも、相当数な」
「やっぱり・・・・・・・・・・・」
少女は少年を人ごみを見てそう呟き、少年を見る。
「それで、どうするの?」
「連中も、僕らのことには気づいているはずだ。その上で、何か仕掛けてくるかもしれないからな。今はまだ、様子見をするしかない」
少年はそう言い、野暮ったい眼鏡が少し下がってきたので、元の位置に戻す。そして、腰を上げた。
「仕事を始めよう」
「了解、霧伏」
少女は少年の顔を見て、微笑んだ。
「狩りを始めましょう」
人ごみとは反対に向かう二人。通勤ラッシュであり、中心に向かう電車は人でいっぱいだが、その逆方向はがら空きであった。
電車に乗り、目的地に向かう二人。周囲に少しの人がいる中で、二人は話を始める。二人の声は、大きなものであったが、それが周囲に咎められることはなかった。少年と少女の周囲には、通常とは異なる空間が形成されているからだ。ここならば、他の人間やそれ以外の者たちに聞かれることなく、話すことができる。
「まずは、先日変死していた男性の家に向かうわ」
「死亡していた男性は確か、自宅前の玄関で死亡していたそうだな?」
「ええ。けど、妻はおろか、誰もそれには気づかなかった。死体は酷く損壊しており、身体の70%が存在しなかったようね。警察の見解では、野犬か何かに襲われた、となっているわ」
けれど、こんな街でそんなことがあり得るかしら、と少女は笑う。周囲は自然の少ない集合住宅や家ばかり。そんな場所で、仮に野犬がいたとしても、気が付かないわけがないだろう。
「別の層に迷い込み、そこで殺された、と見た方が自然だな」
少年が言うと、少女も同意を示す。
層、すなわち普通とは違う、境界線の「向こう側」。よくある神隠しなどは、この層に迷い込む(もしくは妖精などにいたずらで連れ込まれる)ことで起こる。数百年前までは、そういった層のズレ、というものは人里離れた山が主なものであったが、地球環境の激変により、その常識はもはや古いものとなっていた。
この街は開発や、生活圏の広がりでそれまでとは違う人々や物が混じり込んだ。それを発端に、陽との関係も変化し、負の感情が生まれる。バランスが崩れ、不安定になれば「境界線」もまた崩れる。
そこから、「彼ら」が迷い込むこととて、あり得ないことではない。
「とはいえ、それでもこの街や周辺で起こる事件は、あまりにも多すぎる」
特にここ数か月の行方不明者や死者の数は、常識では考えられない数になっている。警察は故意にこのことを隠しているが、彼らにかかればそんなことはすぐにわかる。
故に、彼らは考えていたのだ。この状況は自然発生的なものではなく、何か巨大な意志が引き起こしたものではないのか、と。
下位の悪魔や地縛霊と言ったものではなく、力を持った悪魔や心霊のもたらしたものではないのか、と。
「とはいえ、相手もこちらに経過しているようだな。下位の悪魔たちを潰しながら、じっくりやっていくしかないか」
少年の呟きに、少女は面倒ねえ、とため息をつく。
二人を乗せた電車は、ゆっくりと目的地近くの駅に向かう。
二人は駅を出ると、歩き出す。
「なんか嫌な感じね。さっきの街中よりも、濃い闇の臭い」
その美麗な顔を顰めて少女が言う。少年は近くの壁を指でこする。
「見ろ」
そう言い、少年は指に付着した粉のようなものを見せる。少女はそれを自身の指に救い上げる。
「硫黄ね」
「ああ、悪魔がいる、と言う証拠だな」
少年はそう言い、それも複数、と付け加えた。
悪魔たちはこの世界に現れる際、いくつかの科学的な痕跡を残すことがあり、その中でも代表的なものが硫黄である。原理は不明だが、硫黄がこのような場所に付着している、と言うことはすなわち、悪魔がいる、と言うことである。上位の悪魔ならば、痕跡を残さないが、下位の悪魔は未熟であるため、このような証拠を残すことがある。
人間には知覚できないが、悪魔の遺す硫黄にもそれぞれ特徴があり、特殊な目や知識のある物はそれでどういった悪魔がいるか、どれだけの悪魔がいるかを見分けることができる。
「驚いたな」
「・・・・・・・・・そうね」
二人は互いの顔を見て頷く。硫黄の特徴から割り出された悪魔は、実に多種多様である。
普通、同じテリトリー何に複数の悪魔がいたとしても、それは同種であったり、服属関係の飽くまであったりするが、ここに残されたものはそれにしては数が多すぎた。
インプ、餓鬼、オーガ、淫魔、シェイプシフター。少なくとも、それだけの悪魔がもいる。
これは思った以上に深刻だな、と少年が言うとと二人は再び歩き始めた。
朝だというのに、夜の闇の気配は濃厚に周囲に残っていた。