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第5話 — お風呂と小さな奇跡

冬の夕暮れは、どうしてこんなにも胸をざわつかせるのだろう。


薪の匂い、冷たい風、橙と紫が混ざる空。

まるで「何かが変わる前の合図」のように、静かで、どこか寂しくて。


春海は買い物袋を抱えながら、そんな空を一度だけ見上げた。

今日もきっと、ただの帰り道。

いつも通りの玄関、いつも通りの部屋。


——そう思っていた。


でも、その夕方は違った。

冷たい風が運んできたのは、ただの寒さじゃない。

「運命の始まり」なんて言ったら大げさだけど……


春海の生活をひっくり返す“事件”が、

このあと玄関の向こうで待ちかまえていることを、

この時の春海はまだ知らなかった。

夕方の風は薪の匂いを運び、冬の冷たさが指先にじんと染みた。

空は薄いオレンジと紫に溶け、何かが始まる前の静けさのように見える。


春海は、両手いっぱいの買い物袋を抱えながら、肩で玄関の扉を押した。


「いずみーー!! 開けてぇぇ! 手が凍って落ちそう! 指紋なくなった!!」


ギィィ…と、ホラー映画のような音を立ててドアが開く。

出てきた泉は、寝癖のままの髪に古いパーカー、おまけに“冷蔵庫でゴキブリ見つけた人”みたいな顔をしていた。


「はる……」

泉は春海の後ろを指差し、目を丸くした。

「……ねえ。まさかとは思うけど……市場で子ども二人、拾ってきた?」


春海は買い物袋を足で押し入れながら、慌てて否定する。


「拾ってない!! ただ……寒かったの! だからちょっとだけ家に……!」


泉は腕を組んだ。


「次はなに? 町内会? 市場の全員? 駅員さんまで連れてくるの?」


「シャワーに入れられる人数までかな……」


ゆっくりと、春海のコートの裾を握ったのは、小さな女の子だった。

涙で頬が濡れ、夕日のような赤い髪は、少し乱れていた。


泉は思わずつぶやく。


「えっ……なにこの子……かわいすぎる……人形じゃん……」


その後ろに立つ少年は正反対だった。

眉間に皺を寄せ、肩は緊張で固まり、まるで誰も信用していないような目つき。

けれど、その視線の先にあるのは小さな妹ただ一人。


冬そのものの少年。

夏そのものの女の子。

そして——彼らを連れてきた春海は完全に“台風”。


「お家……きれい……」

と、少女——芽衣が呟く。


春海は吹き出した。


「きれいじゃないよ〜。散らかってるだけ。でも……あったかくはできるよ!」


泉は鼻で笑った。


「その“散らかり”に、さっき私つまずいたけどね」


春海は両手を叩く。


「よし! まずはお風呂!」


少年——タケルは目を見開く。


「お風呂!? いい!! 俺たち……きれいだから!」


泉がすかさずツッコむ。


「髪の毛、ほぼ生き物だけどね。しゃべり出したら私逃げるから」


「必要ない!!」

タケルは腕を組んでそっぽを向く。


しかし、その時。

芽衣が春海の服をきゅっと掴んだ。


「……あったかいお湯……ほんとにあるの……?」


声があまりに小さくて、春海の胸がぎゅっと締まる。


「あるよ。ぽかぽかの。天国みたいなやつ。入ってみる?」


芽衣はこくんとうなずいた。


浴室にお湯が流れ出すと、芽衣は笑った。


「ふわふわ……雲みたい!」


「いい匂いもするでしょう?」

春海は優しく髪を洗いながら言う。

「疲れ、全部流してくれるよ」


小さな肩に触れると、その細さに胸が痛んだ。


「お母さんがね……お風呂は“心も洗える”って言ってた」


「ほんと……?」

芽衣が見上げる。


「足りなかったら——もう一回入ればいいの」


芽衣は幸せそうに笑った。


タケルの番になると、彼はしばらく浴室の前で固まっていた。

湯気、温かい水、曇った鏡を見つめ、突然ぽつりと呟く。


「……これ……毎日あるのか」


廊下から春海が答える。


「うん、毎日。あなた達も、これからはね」


タケルは返事をしなかったが、わずかに肩の力が抜けた。


芽衣は大きなタオルにくるまれて出てきた。


「かわいい〜!!」

春海は髪を三つ編みにし、

芽衣は「これ、しあわせの三つ編みだね!」と言って笑った。


タケルが出てくると、春海はすかさずタオルを投げる。


「ほら! ちゃんと拭いて! びしょびしょのまま歩かない!」


「……うるさい」

とタケル。


春海は胸を張った。


「ありがとう、よく言われる!」

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