とても小さな町
引っ越したその日――夕日色に染まる田舎町で、春海は思った。
「ここ……スローライフ系アニメじゃない?」
町の入り口には共同菜園。
窓辺にはふてぶてしい猫。
商店のおじさんはなぜかもう名前を知っているし、湖では子どもたちがのんびりパンを投げている。
そして案内役の桜と相棒のいずみは、春海の大袈裟な反応にいつもツッコミを入れる。
そんな三人が歩きながら出会うのは、
優しすぎる住人たち、
ゆっくりと流れる空気、
そして「ここに住みたい」と胸が震えるほどの景色。
――これは、少しドジで、でも前向きで、
自分の“新しい居場所”を見つけようとする少女・春海の、
ゆるくてあたたかい田舎町スローライフの物語。
笑って、つまずいて、ときどき泣いて。
そんな日常の一歩目が、静かに始まる。
夕日がゆっくりと沈み、空を淡いオレンジと桃色に染めはじめたころ、桜が声をかけた。
「春ちゃん、いずみちゃん。そろそろ行こ? 町を案内するって約束したからね」
引っ越しの疲れがまだ髪にも残っている春海は、なぜか胸を張り、無駄に堂々と手を上げた。
「任務・田舎町探索! スタートッ!」
いずみが深いため息をつき、春海のコートの襟を引っ張る。
「落ち着いて、春海。散歩するだけでしょ。征服するわけじゃないよ」
「いいじゃん、主人公気分くらい味わわせてよ!」
桜はくすっと笑い、小さな懐中電灯を手に三人を門の外へ導いた。
家の前の道は、古い舗装の名残が少し残っているものの、とてもきれいに整えられている。
家々は、現代的なものもあれば、昔の物語をそのまま残しているような佇まいもある。
どの窓も「あなた誰?」と覗いてくるようで――けれど、それはどこか優しく、まるで近所のおばあちゃんが見守ってくれているようだった。
角を曲がると、小さな共同菜園が見えてきた。手作りの札がいくつも並んでいる。
「トマト 大切に育ててね」
「ねぎ 歌うと曲がります」
春海は目を輝かせた。
「道のど真ん中に菜園!? すごすぎるでしょ!」
桜は微笑む。
「ここではね、みんな少しずつお世話するんだよ。自分が育てたもの以外は、あまり触らないの」
いずみが目を丸くする。
「……本物の、誠実な人たち……?」
「そうだよ。隣の家のマンゴーを盗もうとしたら逆に“全部持っていきなさい”って言われるくらい」
春海は胸に手を当て、大げさに震えた。
「いずみ……。ここ、完全にスローライフ系アニメの世界じゃない?」
しばらく歩くと、家の前に小さな旗や花柄のカーテンを飾っている家が増えた。
太った猫が窓辺に寝そべっている家もあり、まるで「あなたはどのくらい可愛いの?」と評価してくるような目つきだ。
その猫が突然「ニャーーッ!」と大声で鳴いた。
「ひゃああっ!?」
春海は飛び上がり、見事に自分の足に引っかかった。
「なんで猫の肺活量のほうが私より強いの!?」
いずみは笑いを堪えて肩を震わせた。
桜が振り返りながら言う。
「じゃあ、次は商店を見よう」
道の先には「みんな買って、みんな喋る」タイプの昔ながらの商店があった。
ドアには小さなベルがついていて、誰かが入るたびに軽やかな音が響く。
店主らしき丸眼鏡のおじさんが、手を振ってきた。
「春ちゃん、もう落ち着いたかい? 明日新鮮な野菜が入るから、欲しかったら声かけてね! そして、ようこそ!」
春海は笑顔で返したが、歩き出しながらいずみに小声で囁いた。
「どうやって私の名前知ってるの? 私まだ何も買ってないよ……」
「春海、あなた高校の文化祭で踊った時ちょっと有名だったじゃん。忘れてるだけ」
「忘れてないもん! ただ……顔を覚えるのが苦手なだけ……」
「それ、“誰も覚えない”って言うんだよ」
歩き続けると、小さな湖が見えてきた。夕日が水面にきらきらと散りばめられている。
老人が釣り糸をたらし、小さな女の子が鯉にパンをあげていた。
「ここが花守湖。夏になると灯籠流しがあるんだよ」
と桜。
春海は息を飲んだ。
「ここに……住みたい……」
「住んでるよ」
いずみが淡々と返す。
「じゃあ言い直す! ここに私の思い出も住ませたい……!」
いずみはその頭をポンと撫でた。
町の出口にある展望階段まで進むと、上からは町全体が見渡せた。
小さな屋根、商店、工房、並木道、湖、水面で遊ぶ子どもたち。
風が少し冷たく吹き、春海は静かに呟いた。
「きれい……」
桜は満足そうに微笑む。
「小さな町だけどね。私たちの大事な故郷。そして……春ちゃんの新しい場所でもあるよ」
春海は瞬きを早くして涙をごまかした。
「泣いたら湖に落とすよ」
といずみ。
「泣いてない! これはアレルギー……花粉……ほこり……いや感動……いや、アレルギー!!」
桜が肩を叩く。
「明日、隣町の大きいスーパーも案内してあげる。電車で10分だから」
春海はぱっと笑顔を咲かせた。
「行く! でも……まずはこの町をもっと知りたい。なんか――ここに馴染みたいの」
いずみは誇らしげに頷いた。
「お、成長してるじゃん」
「私は成長するの! ただ、成長の途中でつまずくタイプなの!」
三人の笑い声が、小さな町に柔らかく溶けていった。
春海の新しい生活は、静かに動き出していた。




