第16話 — 世界大戦:消えたゴキブリ(後編)
突然現れたのは、
冷静沈着・完璧上司のケイ。
混乱の家、泣きそうなハルミ、
そして――まだ生きているゴキブリ。
だが彼は逃げなかった。
スーツを脱ぎ、袖をまくり、
静かに言う。
「場所、確認しました」
これはゴキブリ退治であり、
社会的尊厳の完全崩壊の物語である。
ドアは、不穏な音を立てて開いた。
そこに立っていたのは――ケイ。
完璧なスーツ。
無表情。
管理職特有の落ち着き。
ハルミは、刀のようにほうきを構えたまま固まる。
メイはクマちゃんを抱きしめ、
タケルはスリッパを警棒のように握る。
ケイは眉を上げた。
「こんばんは、ハルミ」
「……こ、こんばんは……
ケイさん。いえ、上司。いえ……こんばんは!!」
魂が五秒ほど体を離れた。
ケイは部屋を見回した。
混乱。
子ども。
武器。
「書類を届けに来ました。
月曜の報告書です」
「わぁぁぁぁぁ!!忘れてた!!」
彼女は髪を直し、
エプロンを直し、
人間になろうとした。
失敗した。
「今日行くって、連絡しましたよ」
「連絡!?」
「はい」
「……忙しくて……」
メイが小声で。
「ゴキブリと戦ってた」
「……ゴキブリ?」
もう隠せなかった。
「キッチンに出て、
飛んで、
消えました」
「……理解しました」
全然理解してなかったが、
そう言った。
ケイは黙ってジャケットを脱ぎ、
袖をまくり、
ネクタイを整え、
中に入った。
ハルミは呆然とした。
彼は小さく呟いた。
「……変わってないな」
でも、視線を逸らした。
――覚えている。
だからこそ、覚えていないふりをした。
その時。
「……ハルおばちゃん」
ゴキブリは、彼女の足元にいた。
「ぎゃあああああああ!!」
全員が動いた。
ケイは冷静だった。
「位置、確認」
雑誌を折り、
しゃがみ、
バン!!
「……死んだ?」
「いいえ。奥に」
「まだ生きてる!?」
ケイは片手で棚を持ち上げた。
「……え?」
そこにいた。
ゴキブリ。
バン!!
終わった。
「処理完了です」
ハルミは崩れ落ちた。
「助かった……」
タケルは呟く。
「……怖い」
「強い!」
ケイは手を拭いた。
視線が合い、
二人は同時に逸らした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。
……おやすみ、ハルミ」
彼は去った。
ドアが閉まる。
ハルミは畳に倒れた。
「上司に……見られた……」
「もっと悪いこともあった」
「何が!?」
「ゴキブリが勝つとか」
その夜。
電話が鳴った。
「……明日、空港。
六時。
お母さん、来るから」
――絶望。
宴会。
母。
全部、同じ日。
誰も、準備できていなかった。




