第15話 — 第二次世界大戦:失われたゴキブリ(パート1)
明日は町を揺るがす大宴会。
その前夜、ハルミはキッチンで絶望と戦っていた。
食材なし、時間なし、正気なし。
――そして現れたのは、
この家の真の支配者。
ゴキブリ。
逃げて、飛んで、消えて、恐怖を残す。
これは宴会前夜に起きた、
人類vs 六本足の悪夢の記録である。
金曜の夜――大宴会の前夜)
夜はあっという間に落ちてきた。
風が魂ごとコートの中に押し込んでくるような、冷たい夜だった。
リビングでは、
メイが世界のすべてをかけた集中力で粘土をこねている。
タケルは国家試験でも受けるかのような顔で本を読んでいた。
そして――ハルミは。
完全なるパニックの渦の中にいた。
「明日は宴会……」
そう呟きながら、
彼女は引き出し、棚、扉を片っ端から開けていく。
まるで正気を失った探偵のように。
「料理しなきゃ!掃除しなきゃ!準備しなきゃ!
……助けて……」
キッチンの棚を開ける。
そこにあったのは――
賞味期限の切れた小麦粉。
お茶のパック三つ。
正体不明のパスタ。
そして、時間軸を間違えたとしか思えない豆の瓶。
ハルミは深呼吸した。
「よし……これでいける。
必要なのは、創造力と、根性と――」
――その時。
見えた。
それは、そこにいた。
ゴキブリ。
小さい。
動かない。
まるで「この家は私のものだ」と言わんばかりの、傲慢な姿勢。
世界がスローモーションになる。
触角が、悪意のある挨拶のように動いた。
次の瞬間――
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
メイは粘土を落とし、
タケルは「またか……」という顔で眉を上げた。
ハルミは、修行不足の忍者のように後ずさる。
「い……い……い……
モンスターが!!私の家に!!」
「ただのゴキブリだよ」
タケルは本から目も上げない。
「ただの!?
タケル!あれ、私を見た!!」
「表情ないでしょ」
「それが怖いの!!」
メイはソファに飛び乗った。
「ハルおばちゃん!足、動いてる!!」
ハルミはほうきを構えた。
城壁の上の戦士のように。
「みんな!!非常事態モード!!」
「ハル……」
タケルが立ち上がる。
「僕がやる」
「ダメ!私が大人!責任者!」
「震えてるけど」
「責任ってそういうもの!!」
ゴキブリが左に一歩動いた。
ハルミは二歩下がった。
「出て行け!!六本足の悪魔!!」
タケルはスリッパを手に取り、
メイは粘土を魔法の杖のように構えた。
空気は、アニメ最終回レベルの緊張感。
ハルミは囁く。
「作戦よ。
タケル、左。私、右。
メイ、スマホで照らして」
「スマホ持ってない」
「じゃあ希望で照らして!!」
――その瞬間。
ゴキブリが、飛んだ。
飛んだ。
飛んだ。
「飛んだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
ハルミの叫びは、
たぶん県境を越えた。
「落ち着いて!」
タケルが空中を叩く。
「私、出ていく!!
自分の家から出ていく!!」
「ハルおばちゃん!!」
メイは泣き笑い。
「落ち着け!!」
タケルも完全にパニックだった。
ハルミは走り、
雑巾で滑り、
冷蔵庫にぶつかり、
回転し、
膝から崩れ落ちた。
「この家、私を殺しに来てる!!」
ゴキブリは天井に止まり、
そして――消えた。
完全に。
三秒間の沈黙。
ハルミは口を押さえた。
「……消えた」
「それって……悪い?」
メイが聞く。
「悪い!?
それは最悪よ!!」
彼女はぐるぐる歩き出す。
「消えたゴキブリは……」
「何?」
「時限爆弾よ!!」
タケルは額を押さえた。
「ハルミ……」
「もうここに住めない!!
荷物まとめて!!」
「でも宴会は?」
「宴会はゴキブリの家でやる!!」
その時――
ピンポーン。
このタイミングで?
ハルミは凍った。
「……あいつ、仲間呼んだ」
「違うから」
タケルは目を回した。
ハルミはほうきを構え、
幽霊と戦う覚悟でドアを開けた。
そこにいたのは――
ケイ。
スーツ姿。
完璧。
氷のように冷静。
二人は瞬いた。
(え……ハルミに……子ども……?
……いや、甥っ子だ。うん、そうだ)
エプロン歪み、髪爆発、
刀のようにほうきを持つハルミ。
武器のようにスリッパを構えるタケル。
モンスターに怯えるメイ。
ハルミは深呼吸した。
「……あの。
殺虫剤、持ってます?」
「……は?」
ケイは絶句した。




