白い息の並ぶ夜
大学生のころ、真夜中に出かけたことがある。
軽音部の仲間たちと、廃墟になった古い宿泊施設へ。
地元では、その場所についてあまり口にしない。
池があり、そこで昔、女性が殺されたという噂だけが残っている。
名前は……ここでは伏せておこう。
正門は、もう門としての形を保っていなかった。
瓦の欠けた屋根、支えを失って傾いた柱。
そこをくぐると、すぐに藪が始まる。
笹や竹が入り混じり、道の両脇を覆っていた。
懐中電灯を照らしても、光は葉に跳ね返り、先のほうは見えなかった。
藪を進むうち、空気が少しずつ冷えていく。
夏の夜なのに、吐く息が白くなる。
白い息が、懐中電灯の光に触れて揺れた。
後ろのほうで誰かが「寒くない?」と呟く。
遠くで、野犬のような声が聞こえた。
音の方向が掴めず、森の奥からも、水の底からも聞こえてくるようだった。
池に着いたとき、誰も言葉を発しなかった。
波はなく、水面は黒く固まったように静かだった。
何かを見たわけではない。
ただ、長く留まるべきではないと、誰もが感じていた。
──帰り道。
竹藪の奥から、か細いバイクのような音が聞こえた。
最初は、遠くでエンジンを吹かす音のように思えた。
けれど、それは少しずつ近づいてくるのに、音の太さは変わらない。
そして、妙なことに……音の出所が、道ではなく藪の中だった。
足を止め、耳を澄ませた。
……すすり泣きに聞こえる。
それも、濡れた布を絞るような湿った声だ。
声は私たちと並ぶように動いていた。
歩幅を合わせ、距離を詰めてくる。
私は息を殺し、視線だけを横へ向けた。
懐中電灯を藪の奥に向けようとは、誰も言わなかった。
この場所に来るのは三度目だった。
初めて来たとき、背後から足音がついてきた。
それで慌てて駆け出したことがある。
二度目以降、走らないことが暗黙の決まりになった。
走ったら……何かがついてくる気がしていた。
すすり泣きは、相変わらず横にいた。
やがて、傾いた正門の影が見えた。
足を踏み出すたび、門が少しずつ大きくなる。
そして、境を抜けた瞬間、声は消えた。
振り返ると、藪はただの闇だった。
葉の擦れる音も、白い息も、もう残ってはいなかった。
それでも私は、あの夜の並んで歩く気配を……
今も、忘れることができない。