7. エクソダス
やけに身体が熱い。目覚めて早々、寝苦しさに襲われた。
どうやらいつの間にか寝ていたようだ。今何時だろう。外はまだ薄暗い。スマホを探そうと曖昧な意識のまま周囲を弄った。
……あれ、身体が動かない。腕に寝息を立てた天使が張り付いてる。理由はあとで本人に吐かせるとして今は起こさないようにスマホを……
「んん……ふわぁ、おはよう葵」
おっと起こしちゃったようだ。目覚めたアキハは子猫のように目を擦っている。
「おはよう、アキハ」
どうやら朝は弱いみたい。わたしも人のことをいえる立場ではないが、今日に限っては不思議と目覚めが良くてテキパキと身体を動かせる。
うとうとしている天使はそのまま放置。充電切れのスマホをケーブルに繋げて身支度を整える。気づけば時刻はいつもどおりの登校時間だった。トーストを齧っている時に起床した母から昨日のあらましを聞いた。
あんなに熟睡している姿は初めて見たと驚かれた。本当のことは云えないので体育で走らされたと誤魔化した。そもそも正直に話したところで信じてもらえるわけがないし。
それよりか心配なのは不可思議の塊を見られたかどうか。けどいつもどおりの様子なので大丈夫だろう、多分。
いつもどおりの日常。毎日同じ時刻の電車に乗って、同じ駅で降りて、同じ格好をした集団に紛れて坂を登る。
そう、いつもと変わらない光景。でもやっぱり背後霊がいるだけで変な感覚だ。
「エジプトを離れた時より人が多いね」
天使の冗談が笑えない。この状況とエクソダスを同列にしないでほしい。これからわたしたちは自分の意思で牢獄に入るというのに。
昇降口で靴を履き替え、食堂から漂うカレーの匂いを堪能しながら教室に向かう。なんてことはない行動。天使がいたところでやることは変わらない。
なのにどうしてだろう。周囲の視線が不気味だ。他人の感情に敏感なわたしだから過剰なのかもしれない。
アキハほど正確ではないにしろ、わたしにも長年培ってきた感性がある。感情を当てるだけならアキハに負けるつもりはない。でも、わたしに向けられるこの感情に覚えがない。
気のせいだと思っていつもどおりを振る舞うも、廊下をすれ違う生徒全員から不気味な視線をぶつけられる。
軽蔑ではない。尊敬でもない。プラスとマイナスが入り混じる奇妙な感情だ。昨日まではこんなことなかったのに。昨日との違いをしいてあげるなら天使を引き連れているだけ。
え、もしかして、みんなアキハを認識できてる? この学校に問題があった? アキハの読みが当たってた? そんなバカな。
お、落ち着け、葵。威厳よりあくびを振り撒く天使の妄想が当たっててたまるか。
念の為に教室に入る前にトイレの鏡で身なりを確認。制服に異常なし。表情は変わらず無感情。ニコッと笑えば天使がくすくす笑い始める。
「ぎこちないね」
うっさい、余計なお世話だ。後ろに取り憑く変なものを無視してひとまず深呼吸。大丈夫、何も起きてない。そう自分に言い聞かせて教室に入った。
だがすぐに確信した。足を踏み入れた瞬間に教室にいた全員がわたしに目を向けてきた。どうやら裏で何か起きているようだ。
こういう時だけは感情が生えてこない体質が頼りになる。余計な言葉を発さないまま自分の席へと向かう。その間も誰かから話しかけられることはなかった。要件があるなら直接訊いてきてほしいのに。
相手の出方を待つ、それも一興。ここが盤上なら強引に動くのも一つの策。けどここは現実、無理やり動けばこの先の学生生活を犠牲にする可能性もある。
こんな時、あのバカがいれば簡単に情報を仕入れてこれるのに。
こんな時、多少なりともクラスメイトと仲良くしておけば相談できたのに。
そもそも他人に興味がないから進級しても連絡先の交換どころか名前と顔が一致しない。高校では人間関係は希薄だし、わたしの連絡先を知っているのは肇くらい。
さて、このままだと埒が明かない。朝礼が始まる前に探りを入れるべきか。鳥越葵に話しかけるなという御触れがあるなら授業中、こっそり席が近いやつに声をかければいい、なんて考えていた時だった。
急に前の席のやつが振り返ってスマホを向けてきた。
「これってお前か?」
云ってる意味がよくわからない。どうやらわたしに声をかけるなという御触れはないようだ。それには安堵しつつも事態がうまく飲み込めない。とりあえず訊かれるがままスマホを覗いてみる。
*
夕暮れの街。信号待ちをしている対岸の群衆。その群衆のほとんどが手元のスマホと睨めっこ。人と違うことをすれば目立ってしまうのが世の常。ゆえにスマホを持たないもの、まして一人だけ頭を見上げていれば嫌でも目についてしまう。
加えてただでさえ浮いている存在が、光る輪っかと純白の翼を携えた天使と目を合わせていれば、その光景は奇跡に等しい。
*
うん、どう見てもわたしだ。しかもここ、秋葉原の交差点だし。
「まさか本当に……天使を見たのか」
その驚きを皮切りに教室が一気に沸騰した。
「やっぱり本物じゃん! 誰だよ、偽物とか言い出したのは」
「や、天使なんているわけがないだろう。常識的に考えて」
不思議と動揺しなかった。だって天使なんてバカげた存在は否定されるべきなのだから。
「ディープフェイクって知らないのか? 時代遅れだな」
「わざわざこんなの作るか、普通」
議論に火がつけばわたしの出番はなくなった。気づけばわたしに視線をぶつけてくる輩もいなくなっていた。
けどどうしてこの写真が、というかどうしてこんなに知られているのか。この隙に近くにいた子にわけを尋ねた。わざわざ説明してくれた彼女に頭が上がらないが、すべてを把握したわたしはため息しか出なかった。
昨日のことだ。とある人物が偶然、街中でわたしと遭遇したそうだ。イタズラのつもりで隠し撮りをしたものの、そこにはこの世のものとは思えない光景が写っていた。
天地をひっくり返すスクープに平静を失った彼は友人中に拡散、たちまち学校中に広まったようだ。他の誰かに聞く前に本人に許可を取れ、と思うものの時すでに遅し。どちらにせよ昨日は熟睡していて連絡は取れなかったけども。
根も葉もない話はオカルトへと昇華し、天使に招かれたとか神隠しにあったとか、たった一夜にして天使肯定派と否定派がしのぎを削っている。
「高校生にもなって天使がどうとか、もう少し大人になれよ」
そうそう、と急拵えの笑顔で同調する。昨日までのわたしなら彼に同意していただろうが……非常に残念。今回に限ってはバカげている方が正しいのだ。無意識だけどこの時のわたしはアキハを凝視している。
——おい、どうして姿が写ってる。
ごちゃごちゃした空間を一刀する視線で諸悪の根源をとらえる。呑気なアキハはあくびしながらスマホを見つめた。
「わぁ、可愛く撮れてる。カッコいい人が隣にいればボクの可愛さも引き立つね」
無邪気に喜ぶな! と、声に出したい。もどかしさを咳払いで表現してみると、ようやく異変に気づいたのか「あれ?」と首を傾げた。
「……そういえば天使を観測しうる技術が誕生したから気をつけろとか云われてたっけ。へぇー、このちっこい機械なんだ」
気づいたところでアキハの反応に変わりなかった。すっかりとスマホに興味津々だ。もうわたしは両手で顔を覆うだけ。被害者のわたしが騒動の後始末をするなんて面倒の一言では片付けられない苦痛である。
今回に関してはアキハに責任はない。わたしもアキハが写真に写るとは考えもしなかったし。
全ての責任は盗撮して拡散した、あのバカのせいだっ!