3. 神秘との邂逅
知性と本能が拮抗する。
幻覚にしては見ている時間が長い。何度も呼吸を整えた。少なくとも幻覚の可能性は否定できる。状況から判断してもトリックの可能性は極めて低い。だからといって安直に天使の存在を認めるわけには……や、わたしはなにを考えているんだ。
ここは現実であり混沌でもある。混沌に常識を持ち込む方が無礼だろう。
「なにしてるの?」
気さくに声をかけてみたものの、言葉が通じるかどうか不安だった。けど天使はこちらの声に反応して一瞬わたしの方を向いた。でもすぐに元の視線に戻してしまう。
ううん? どういうことだ。一息つくことなく、今度は先ほどより大きな声で呼んでみる。
今回もこっちを向いてくれた。しかしその無機質な表情から一転、はっきりした動揺が見て取れる。
「ひょっとしてボクのこと見えてる?」
なにを寝ぼけたことを。些事には目を瞑ることにして今は天使の問いに無言で首肯した。
ただのコミュニケーションのはずなのに天使はキョとんとしたまま動かない。こういう時って人間が呆然とする役ではないのか。ま、普通を求められたところでわたしには不可能なのだけど。
「あなたは何者? 少なくとも人間じゃないよね」
このままでは埒が明かないので、今度はわたしが問いかける。その言葉で正気を取り戻したのか、天使の身体が予備動作もなく唐突に浮いた。そしてこほんと咳払いをして仕切り直しといわんばかりの名乗りを上げる。
「ボクは天使。人を守護する神の御使さ!」
うん、そうだね。見れば分かる。
「あぁ、えっと……すごいね。うん、すごいすごい、初めて見たよ」
とりあえずぱちぱちと拍手して思いつく限りの賛辞を述べてみる。語彙力の低さに我ながらある種の感動さえ覚える。わざとらしい演技に不満だったのか、天使は首を傾げながら地上に降りてきた。
「だよね、ボクも記憶にないし。でもきみの雰囲気に覚えがあるんだよね」
「世界に三人はそっくりさんがいるというし、きっと他の二人と会ったのでしょう」
「それはないよ。だって地上に降りたのも久しぶりだし」
会話の勢いに任せて「何年前」とは訊けず。だって相手は神秘の代名詞。姿形こそ人間そっくりでも思考とか価値観とか時間感覚とか、地上の常識と同じ保証はない。さらりと千年前の話題を出されても時間の無駄だ。
「ところできみは、どうしてそんなに冷静なの?」
おっと、こちらが一線を引いたのに、あまり触れられたくない領域に躊躇なく踏み込んでくる。
とはいえ天使が相手だろうと対処を変える必要はない。見せかけの感情を装うだけだ。
「冷静なんてそんな、緊張で心臓ばくばくだよ」
「ふぅん、ま、きみがそう云うなら追求しないけど」
それはなによりだ。
「ボクが訊きたいのはそれだけじゃない。どうしてボクを認識できるの?」
「そう訊かれても困る」
「たった一つの例外を除いて人間が天使を認識できるわけがない」
「ならその例外ってのがわたしでは?」
「例外を説明しよう。ボクたち天界の住民は地上への干渉を避けてる。でも百年に一度、天と地の架け橋として天使と意思疎通できる人間を選ぶんだ。その時期になれば天界中は大騒ぎ。ボクの耳に入らないわけがない。それに選定の時期はまだ当分先だろうからきみは例外じゃない」
と、云われても困る。その話が本当だとしても天使を認識できる理由に心当たりはない。
自分に信仰心があるとは思えない。変なものを拾ったり怪しげな儀式に参加したり世界線を移動、まして特別な力があるとも思えない。神秘の塊でもわからなければもうお手上げ。しばらく困り顔で「むぅ」と唸っている天使を観察していた。
けど、なにか問題があるだろうか。だってわたしは熱心な教徒でもなければ普通……一部を除けば普通の女子高生。現にこの世界をひっくり返す一大スクープにも無関心。混乱の火種を撒き散らすのも面倒だ。天使が存在することがわかったって空の住民に雲と星と鳥と飛行機、それに天使が加わるくらい。下手すれば明日になれば忘れているかもしれない。
「うーん、きみに心当たりがないとなると厄介だ」
「や、厄介?」
「正常に機能していると思われた摂理に致命的なバグを見つけた。天界にとって由々しき問題だ。発見した以上、天界はきみを放っておくわけにはいかない」
天使の声色が重くなる。辺りに緊張感が走る。どうやらわたしが考えている以上に厄介な事態なのだろう。協力は惜しまないけど面倒は嫌だ。
「なら天界に連れてって人体解剖でもする? それとも始末する?」
正直、死ぬのは怖くない。むしろ死への恐怖より死に方にこだわるタイプ。無惨な姿で家に戻ることだけは避けねばならない。
これまでの楽観的な思考を投げ捨てて真剣に答えたつもりだった。そんなわたしとは裏腹に天使は笑みを溢した。
「っはは、ボクを血も涙もない殺戮人形だと勘違いしてない? 大丈夫だよ、人を殺すなんてとんでもない……調べる時はちょっとチクっとするかも」
せめて採血程度の痛みであってほしい。顔に傷なんて負ったら死活問題だ。
「で、でも心配しないで! せっかく面白そうなことが起きてるんだ。天界に報告なんてもったいない。ボクが解決したげる!」
と、空色の天使が自信満々に答える。正直、頼りない以外の言葉が見つからない。解決どころか平穏な地上をしっちゃかめっちゃかに掻き回しそうな気がしてならない。迷宮入りなんて洒落にならないぞ。
でもこちらに他の選択肢があるわけでもなく……しょうがない。ここはどこぞのバカを見習って専門家に丸投げしよう。
「わかった。あなたに全部お任せするね」
「うん! よろしくね! えっと名前は?」
「鳥越葵。天使さんのお名前は?」
「——あぁ、そっか。ボクにも名前が必要か。うーん、なんて呼んでもらおう」
「お仲間からなんて呼ばれてるのさ」
「天使に名前なんてないさ。地上に残っている名は愛称みたいなもので、天使同士はテレパシーで判別してる。……そうだ! ここはお近づきの印にボクの名前、葵に決めてもらおう」
まさか最初の仕事が天使の名付けとは責任重大だ。天使だから西洋に寄せた方が馴染みあるだろうか。天使、エンジェル……あれ、向こうの言葉だと性別で言葉が変わるんだっけ。女性だとアンジェリカ、男性だとアンジェロみたいな。
この子は……どっちだ?
「あまりジロジロ見られると恥ずかしいよぉ」
この初々しい反応……どっちだ? 背格好で判断すると女の子に見えるけど一人称が「ボク」ときた。天使は性別がないってのが通説だったような。
決めるのも面倒だ。いっそのこと男でも女でも違和感ない名前にしよう。それこそわたしみたいな。加えて呼びやすければ完璧だ。
とて即座に思いつけば苦労しない。インスピレーションを得ようと周囲を見渡すも秋葉原の喧騒は清楚と正反対。期待に満ちた視線を向けてくるが応えられそうにない。
「ね、ね、どう? ピッタリの名前思いついた?」
「いや……なかなかしっくりするのが」
定期考査さながら頭をフル回転。あーでもない、こーでもない、否定と肯定の繰り返し。
人が真剣に考える最中も周囲がうるさい。車のクラクションに線路の音、「まだぁ?」と催促してくる天使。これでは天使が混沌の一員——や、待てよ。
「アキハ、アキハはどう?」
声に出してみるとすごくしっくりした。我ながら会心のアイデアに惚れ惚れする。混沌で出会った神秘に相応しい名前だ。ついでに呼びやすい。
「あ、きは? ……アキハ、うん、音が心地いい。今日からボクはアキハだ。改めてよろしくね、葵」
「うん、よろしく、アキハ」
どうやら地上と天界とで常識に差異はないようだ。天使が差し出してきた右手の意味はすぐにわかった。
これがアキハとの最初の約束。きっと過去もくまなく探したって人間と天使の約束事なんてそう多くはないはずだ。もしかすると東方の国では初の快挙かもしれない。
普通の人間ならどんな反応をするのだろう。胸を張って自慢したりするのかな。
けど残念なことにわたしには、今の感情を表現するだけの力はなかった。