2. 混沌の街 秋葉原
放課後のチャイムが鳴り響く。義務から解き放たれた教室は今日イチの盛り上がりに包まれた。帰宅部の人間がいつまでも学校に留まる理由はない。でも早く帰宅する理由もないし、ホームルーム直後だと帰り道も駅も混む。だからしばらく教室でぽけっとしてタイミングを見計らうのだが、今日は違う。
本当ならすぐに待ち合わせの場所に向かうべきだろうが、わたしにとって色眼鏡を持たない人間との接触ほど怖いものはない。なんせ地道に作り上げたキャラ設定を無視して、鳥越葵の深層に触れる可能性があるからだ。そのため自分の言動はしっかり管理しているつもりだ。
こんな時、知恵ある人間ならどうするか。答えは簡単だ。しっかりと対策を練ること。不信感を持たれないような会話を進めなければならない。
教室に残っていたクラスメイトに挨拶がてら、それとなく四谷日奈子について尋ねてみた。
「綺麗だし頭もいいし非の打ちどころがないよな。なのにまさか、あの淀橋と付き合うとはね」
どうやらその件は知られているようだ。肇が云っていたとおり、件の彼女は有名人のようである。世の女性が羨む烏羽色の黒髪に分け隔てなく笑顔を振り撒く愛嬌、して教師からも有望視されている才女。わたしには致命的な欠点を背負わせたくせ、恵まれた人間には才能をいくつも与えるなんて世の中不公平である。
その後も他のクラスメイトからも情報を仕入れた結果、彼女について知れば知るほど、どうしてあんなバカと付き合うことになったのか不思議になった。その経緯は誰一人知らない。なんとも奇妙な話である。限りなく空想を積み上げた仮定だけど、そもそも付き合っているという話自体が虚偽である可能性も。うん、やっぱり自分の目で見ないと信じられない。半信半疑のまま待ち合わせ場所の昇降口まで向かった。
階段を降りて下駄箱が見えた先には——美女と仲睦まじく談笑する肇がいる。
「遅かったな。早く行こうぜ」
◇
「先に用事済ませようか」
「でしたら肇くんが話してた顔馴染みの店に行ってみたいな」
道中は適度な距離感を保ちつつ、互いに自己紹介と雑談を挟みながら秋葉原へと向かう。さすがは才女。わたしの気持ちを慮ってくれたのか、こちらが「四谷さん」と他人行儀で呼ぶと「鳥越さん」とありがたい距離感で接してくれた。
でも、おかげで短い道中だったけど彼女の人となりが見えてきた。頭の回転が早くて綺麗で笑顔が似合う、と。
うん、仕入れた話と寸分の狂いもない。
だけどなおのこと、肇の浅はかな魂胆を見抜いてそう。そもそも二人が付き合い始めた理由も不明。探りを入れようとも考えたが……面倒だ。それに二人が楽しそうにしている光景を見れば真実はわかる。野暮な真似はしたくなかった。
「おぉ、ここがアキバか。改札は……こっちかな」
残念。肇が行こうとしているのは昭和通り口。ネットの画像でよく見かける秋葉原は電気街口。正反対だ。だけど四谷の目の前で堂々と引き留めるわけにはいかず、わざとらしい咳払いで合図した。
「わぁ、電気街口ってなんだろ。カッコいいしこっちから行ってみようよ」
咄嗟の言葉に後悔する。いや、カッコいいから行ってみようとかバカ丸出しじゃないか。感情で行き先を決めようとするな、というかカッコいいってどんな感情だ。わざと無知を振る舞うほど愚かなこともない。他人を立てるとはいえ、こんな役回りを引き受けた自分を呪った。
「アキバオタ——ったく、葵はしょうがないなぁ」
なんだ、そのたどたどしい反応! せっかく道家を演じてやったのに!
ほぉら見たことか。彼女もあんぐりと口を開けているじゃないか。せめてこちらの努力を無駄にならないように努めてもらいたい。
構内を抜けると晴れ晴れとした空が見えた。こんなに気持ちがいい天気なのに眼前の景観は混沌。
電気街口というからには家電量販店があるのは理解できる。その延長線でゲームセンターがあるのも理解できよう……が、駅に併設されたショッピングセンターにはゲームキャラクターの等身大パネル、アニメのコマーシャルが流れる大型ビジョン、と、ごちゃごちゃとした景色が展開されている。
電気街、オタクの聖地、国内有数の観光地。
世界中を見渡したってこれほど癖ある要素を詰め込んだ街はない。
はたまた街を練り歩けばメイド喫茶にラーメン屋、最近ではケバブ料理の店も増えてきた。いっときは「爆買い」なんて言葉も流行り、インバウンド需要で至るところから異国の言葉が聞こえてくる。もはやここが日本なのかも曖昧になってしまう。
「さぁて、どこ行こうか」
なんて言いながら横目で場所を教えてくれと訴えてくる肇。ばちばちとアイコンタクトを送ってくる様が滑稽で放置してみたい、なんてね。
「なんかあっちが混んでるね。行ってみようよ」
指さす場所は大型ビジョンが設置されたテナントビル。なんてことはない。あれはただのエレベーター待ちの行列だ。あのビルにこそお目当ての店があるのだ。
ま、場所さえ教えてしまえばミッションコンプリート。エスコートは肇に丸投げ——っと。
「ごめん、電話入っちゃった。先に入ってて」
不意に鞄に入れていたスマホがブルブルと震えた。二人に断りを入れてから人混みを避けて画面を操作する。そこには懐かしい名前が表示されている。
「お久しぶりです、沼津店長」
『あぁ、葵くん。久しぶりだね。今ちょっと時間あるかい?』
記憶と違わない口調。男性の平均より声が高いあの人は変わらず元気にしているようだ。わたしを「くん」づけで呼ぶ癖も昔と変わってない。
「大丈夫ですよ。出先なんでちょっとうるさいですけど」
『あはは、構わないよ。ところで急なんだけど近いうちに店に来てくれないかな? 見せたいものがあるんだ」
「近いうち、ですか」
面倒や手間を省いて呼吸しているわたしには、常にどの選択が楽で自由で効率がいいか計算して生きている。
というのも感情に鈍感なわたしは体調管理もシビア。疲れを感じ取れなくても身体はしっかりと疲労が蓄積しているようで、知らず知らずのうちに体調を崩してしまう事態が多々あるのだ。頭痛、めまい、痙攣、ひどい時は道端で倒れてしまうこともあった。半年前の文化祭なんて責任者を押し付けられたものだから、その時に生じた左手の痙攣が今でも残っている。だから面倒くさがりも仕方のないことなのだ。
店に行く手間を考える。休日は混雑するから却下。ならば平日、学校終わりなら無駄がない。
えぇっと、学校から店までの距離は……一時間くらい。久しぶりに会うから会話も弾むだろうし、時間にゆとりがある日がいい。それこそ今日とか。
はぁ、世の中うまくいかないね。今日に限って珍しく用事が入っているのだから。肇に秋葉原に連行されるなんてついてない…‥ん、でも待て。
もう役目は終えているのだから帰ってもいいのでは?
そうだ、そうしよう。これから店に向かおう。となると今から秋葉原に向かう……って、おいおい、大丈夫か、わたし。ここが秋葉原じゃないか。もはやここにいるのが当たり前になってきて頭が混乱する。
「今、ちょうど秋葉原にいまして。今からでも大丈夫ですか?」
「おっと、今は店を留守にしていてね。あと一時間ぐらいで戻るけど」
「なら適当に時間潰してます」
「悪いね。それじゃあまた」
あー、あー、あー、たいへんだー。急ぎの用事ができてしまった。これでは肇と合流できない。
軽快に画面を滑らせて『急用ができた』とメッセージを送信、っと、よし。
いつもならすぐ既読になるのに、今はうんともすんともしない。なら今頃ねんごろしてるのだろう。
ならわたしはいつもどおり、この混沌を彷徨うことにしよう。
◇
ボードゲームショップ『もんもん』
なんてことはない。こじんまりとした雑居ビルにあるゲームショップ。父の大学時代の後輩が秋葉原に構えた店だ。
秋葉原に構えたなんていえば聞こえはいいけど、実際の最寄りは末広町。おまけに『もんもん』があるビルはエレベーターなし、男女共用和式便所、おまけに階段の柵はがたがた。いい意味で老舗の店、悪い意味で時代に取り残された空間だ。
けど、あの場所で人生を変える数奇の出会いを果たした。今までどおり律儀に学校に通っていたら出会うことのなかった連中。一度会ったら忘れられない賑やかな人たちだった。
いくつか例をあげてみれば大手製薬会社に勤める出世頭、幼い頃から日米仏を行き来するトリリンガル、宇宙飛行士を目指す院生。もちろん普通の会社員も学生もいた。年齢性別出身はバラバラ。わたしを含めた全員が謎めいた運命に導かれて遊び場に集った。それをこの世では「奇跡」と呼ぶ。
歩き慣れた道のりを今更迷うわけもなく、あっという間に到着した。一階は大家の事務所になっているとかで常にシャッターが下がっている。二階はパソコンやスマホの修理店。ネットの相場より安くて店員の愛想も悪くないと沼津店長も太鼓判を押していた。三階は『もんもん』、四階と五階は知る限り空き家。
店長不在とわかっていながらもやってきてしまった。会う前にどうしても済ませておきたいことがあった。
現代の建物より段差が高い階段をテンポ良く踏み進み、『もんもん』があった三階を通過し、五階からさらに数段しかない階段の先にある扉を抜ければそこは、なんてことはない。混沌を見下ろせる屋上に到着だ。
ここに来るのも久しい。ちょっと見ないうちに街並みが変わっただろうか。
ここは混沌を観測できる稀有な場所。ビルの避難階段とか、屋根に投げ捨てられた煙草の吸い殻とか空き缶とか、稀に階段の踊り場で煙草休憩するメイドさんを見かける。
賑やかな空間にぽっかりと空いたこの場所が、わたしが本当のわたしでいられる場所。
ここに来るといろんなことを思い出す。何年も前の出来事が手が届くところにあると錯覚してしまう。だけどわたしが感じているより現実は目まぐるしく動いていて、わたしだけが過去に囚われている。
変わらないのはわたしだけ。今も昔もやるせない世の中に憂いを帯びながら空を見上げるだけ。
それから何も考えず、何も振り返らず、ただただぼうっと地べたに座って揺蕩う雲を眺める。今日は風が強いからふんわり綿菓子があっという間に飛ばされていく。時間もあるし天気もいいから少しだけ一眠りしようかな。
なんて呑気なことを考えていれば蒼空に不思議なものを見つけた。
アレ、なんだろう。
鳥はあんなに大きくない。飛行機はあんなにゆらゆらと動かない。だったらアレは……なに?
即座にぱっと頭に浮かんだ可能性を否定する。現代において妄想と大差ない子供じみた可能性。あぁ、きっと疲れているのかも。ゴシゴシと目を擦り、何度も瞬きしてみる。
が、視界から異物が消えない。とうとう精神がイカれたようである。わたしの瞳には「人」にしか見えない。
改めて自分が異常であることを自覚する。世界が無理やり神秘を押し付けてきたって悲鳴をあげるわけでも逃げるわけでもなく、ただただ冷静に現実を処理するのだから。
異物はゆったりと落ちてきて——わたしがいる屋上に降り立った。今ちょうどわたしの対角線上に立っている。
異物は動かない。ぱっちりとした大きな目でぼんやりと街を見つめている。もしかしてわたしに気づいていない? だとしたら今が逃げるチャンス。それなのにどうしてか、逃げる選択肢はなかった。
なんといっても際立つのが空色の長髪。ちんまりとした背丈に、非力なわたしでも力を込めると折れてしまいそうな細い腕、顕著な肩を露出した純白のワンピース。遠目でもわかる小顔はどことなく無機質で、なにを考えているのか読み取れない。人形らしいといえばそれまでだけど。
どことなく親近感が湧いた。もはや警戒は邪魔になる。この子はなにを見ているのだろう。この混沌に面白さでも見出しているのか。
彼女と同じ目線になりたくて彼女の隣に立ってみる。だけど面白みなんてちっともなくて、隣の彼女は無機質なまま。
モデルとか女優とかだろうか。だとするとあの奇妙な光景もドラマの撮影なのだろうか。だけど目につくところには大掛かりな仕掛けも撮影機材も人の影もない。どうやって空を飛んでいたんだろう。
他に目につくことといえば、頭に浮かんだ光る輪っかと背中から生えた白い翼。
これだけ人間離れした要素を見せられれば見当がつくだろう。でも先ほど否定したとおり、現代を真っ当に生きている人間が容易に非現実を受け入れられるわけがなかった。
——天使じゃないか!
——いや、バカなことを考えるな。天使なんて存在するわけがない。