1. アレキシサイミアの日常
この春から高校二年生になった。とて、朝礼の時間が遅くなるわけでも、わたしだけ遅刻が許されるわけでも、生活が劇的に変化するわけでもない。今日も今日とて身支度に追われている朝だった。ドタバタと駆け回る横で、母は優雅にコーヒーを口にしていた。
「今年の倍率、すごかったらしいね」
「え、なんて?」
一分一秒を争っている時に耳を貸す余裕なんてなかった。
「もし一年受験が遅かったら入学できたかね」
冗談を云われた時は相手が本気でないことを汲み取り、笑みを浮かべるのが定石だ。
「あんな学校に落ちるほどバカじゃない」
「そこは我が子ながらほんと不思議。家では勉強しない割には成績で苦労したことないものね。今から努力して東大目指したら?」
「ジョーダン云わないで。あんな連中の一員になりたくない」
「あら、変わり者の相手なんていくらでも慣れてるでしょうに。またあの人たちの話を聞きたいわね」
あぁ、話が長くなりそうだ。親の長話に付き合って遅刻なんて洒落にならない。先生に失笑された挙句に反省文なんて馬鹿げている。ぺらぺらと喋り始める母を放って、幾許か寒さが残る春の朝に身を投じた。
今日も今日とて変哲もない一日が始まった。
二年生の教室は去年より緩やかで華やか。まぁ、多感で精神的にも肉体的にも著しく変化する時期だからそう感じるのかもしれない。おかげでわたしも女のくせに背丈だけはすくすく育ってしまった。中学生の頃みたいに髪の毛を短くしたら誠に遺憾だけど男と間違えられる……かもしれない。
昼休みになれば男も女も勝手にグループを作ってワイワイと騒ぎ出す。そんな中、わたしは窓際の席でスマホと睨めっこ。適当な動画を流しながらパンを齧るのが最近のルーティンだ。だけど大学生の身内ノリではしゃぐだけの動画なんて……誰が観るのだろう。少なくともわたしは時間の無駄だと思う。そろそろ違うルーティン、始めようかな。
パンの包装紙を捨てようと立ち上がると、ふと視線を廊下に向けてしまった。不運にもその先に……廊下にいた茶髪の男と目が合ってしまった。彼もこちらに気づくと薄気味悪い笑みを浮かべながら手招きしてくる。てっきり他の誰かを呼んでいると思って周囲に目を向けるも誰もいない。ということはお目当てはわたし?
「読み通りだ。ちょうど葵に頼みたいことがあって」
シャツの裾がだらしなくはみ出し、スラックスを腰パン気味に履く男子生徒。髪の色はやんわりと茶色に染まっていて語尾はやや上擦っている。その外見だけバカが露呈している残念なやつ。中身も当然バカなのだが、根は真面目で友達思いの憎めないやつ——淀橋肇が立っていた。
それを見たわたしはノータイムで身を翻し自分の席に引き返す。しかし相手は男の子。距離があったのに一瞬で詰めてきて、わたしのか弱い腕を掴んだ。
「逃げることないでしょう。葵に相談があるんだ。ジュース奢るからさ、お願いっ!」
面倒だ。たかがジュースでわたしの時間を奪うつもりか。こんな時にしおらしく「たすけてぇ」と悲鳴をあげれば誰か助けてくれるかもしれない。しかし残念ながらできない。なんせわたしは忌々しいことに無邪気な子供時代に身につけた「他人に優しくする習性」を捨てきれず、誰かに頼られれば断れない残念な性格だった。今からでも過去をやり直したい。
「はぁ、ここを出よう。時間がもったいないから手短に」
嘘だ。自分にできることなら絶対に手を貸してしまう。
「さっすが相棒。だけど二年になっても友達がいないようじゃ、まだまだだな」
余計なお世話だ! でも悔しいことに否定できない。
せっかち、面倒くさがり、損得勘定、これらは己を表現できない鳥越葵の生命線。いわば「キャラ設定」であって、見失えば空虚な人間だとバレてしまう。
正直に云って学校の友達とかどうでもいい。一緒にいたって楽しくないし、逆に体力と精神がすり減るだけで一文の得にもならない。だけど高校生として普通を目指すなら最低限の付き合いを保たねばならない。
密談するのに心当たりがあったわたしは一つ上のフロアに向かう。倉庫が立ち並ぶここらは人の出入りは少なく、内緒話をするにはうってつけなのだ。
「放課後、暇な日ってあるか?」
「デートのお誘い? 悪いけど肇とはお付き合いできない」
「……え、もしかして今、速攻で振られた?」
そうだよ、と何度か首肯する。肇と付き合うなんて天変地異が起きたってありえない。
「俺だってお断りだ。お前と付き合いたいと思うやつなんて世界中を探したっているかどうか。……ま、俺、彼女できたし」
「え、そうなの? 誰と? わたし知ってる人?」
恋愛話なんて微塵も興味ない。肇が誰と付き合おうが勝手だし、相手が可哀想だ。だけど恋愛が会話のネタになれば根掘り葉掘り訊くのが鉄則なのだ。
「四谷日奈子——って知らないか。容姿端麗、成績上位常連で、一年の頃から話題になってたんだけど——」
あぁ、話が長くなりそうな気配。ここで打ち止めにしておこう。
「で、本題は?」
「お前から効いておいてその態度かよ。まぁ、今に始まったことじゃないからいいけどさ。頼みってのは俺と日奈ちゃんと三人で秋葉原に行ってほしいんだ」
「あき……え、なんで?」
彼の口から意外な地名が出てきて少々面食らった。これには百戦錬磨のわたしでも意図がわからなかった。
淀橋肇とは去年クラスメイトだった腐れ縁。人となりはそれなりに理解したつもりだった。典型的な楽観主義者で流行りには全力で乗っかるバカ。だけど漫画やアニメには目もくれない、現代では稀有な存在だった。
なのにどうして秋葉原なんかに? しかも彼女を連れて三人で? どうも話がきな臭い。
可愛い女の子に目がない肇が秋葉原に興味があるとすればメイド喫茶。でも女の子を二人も侍らせるとは随分といい趣味だ。
「……なんで後退りするんだ」
「や、危険な匂いが」
そんな怪訝な顔をされたって、こちらは防衛のため。仕方ない状況である。しかし肇の話はさらに続いた。
「『王剣戦記』ってアニメ、知ってるか? 日奈ちゃんがそのアニメの大ファンで、グッズを買いに行きたいんだって」
そのタイトルは最近街中で何度も目にする。SNSを中心に話題になっているアニメだ。
◇
地球とは別世界の伝説。世界を統べると謳われている伝説の剣を求めて小さな竜が旅に出る。だが旅早々、摩訶不思議な現象によって地球に迷い込んでしまった。足を負傷して動けなくなった彼を地球の少年が助け、交流を深めるうちに友情が芽生える。一方その頃、世界中で暴れ回る竜が観測されるようになる。謎の力で暴走する同胞を救うべく少年と共に世界を旅する——みたいな内容だったはず。
一見すると子供向けのコミカルな絵柄だが、宿敵と戦う時は王道の熱い展開だったり、記憶を失った謎の少女との恋模様、交錯する思惑やどろどろとした複雑な人間関係、緻密に散りばめられた伏線だったりとアニメマニアにも好評。
◇
「それならアニメグッズ売ってる店、教えよっか」
「助かる! やっぱり持つべきものはアキバオタクだ」
「アキバオタクってなんだ。てか、教えたらわたしが行く必要なくない?」
我ながら正論だ。だいたい恋人とのデートで第三者を連れていこうとする方がどうかしてる。ここは裏でサポートに徹する方が適切ではなかろうか。なのに肇は目を逸らす。
——うん、裏がありそうだ。ジッと睨むも目が泳ぐだけで一向に白状しない。だったらいいさ、隠し事、当てちゃうから。
思えば違和感は最初からあった。わたしほどではないけれど彼も面倒くさがりで、他クラスまで足を運ぶなんて滅多にない。それこそ教科書を借りる時くらい。
一年ちょっとで学んだコイツの性格、彼女ができた事実、わざわざわたしに会いに来たこと、総合的にまとめれば……ははん、読めてきた。わたしは意地の悪い性格ではないのだから素直に頼んでくれればいいのに。
「理由教えてくれないんだ。だったら本人に直接訊こうかな」
「えっ」
「肇から一緒に秋葉原に行ってほしいって頼まれたんだけど、時間が取れなくていけない。その代わりといってはなんだけど品揃えがいい店をリストアップしたから楽しんできてね、って。うん、そうしよう、それじゃ」
わざとらしく胸の前でぽんと手を叩き、有言実行といわんばかりに肇たちの教室に足を進める。が、後ろから肩を掴まれた。
「あ、待って待って。お願いだからそれだけはご勘弁を。神様仏様葵様、白状しますからどうか」
わたしの袖を掴んでへーこらと懇願する様が情けなかった。でも隠し事に踏み込めたみたい。このまま情けない姿を目に焼き付けるのも一興だけど、わたしは意地の悪い人間ではないので止めておく。だけど隠し事をしようとした罪は償ってもらいたい。
「その、つい口がすべって」
「なにをさ」
「アキバのことならなんでも知ってる。先週も行ったばかりだって。そしたら信じちゃって」
「因果応報。懲りたら嘘つきは卒業するんだね。だけどさ、今、店を教えたら丸く収まる話でしょう」
「——おバカっ!」
……はい? バカにバカと云われて癪に触らない人間はいない。
「アキバみたいなよくわからない街もスマートに闊歩できるシティボーイだって見せつけたいの! だからお願いっ、俺には天下無敵のアキバオタクのナビゲートが必要なんだ。どうか、この通りっ」
バカみたいな理由とは裏腹に誠意が見られる。深く頭を下げるうちに、みるみると姿勢が崩れて行く。終いにはおでこを床に擦り付けていた。しかも名前がアキバオタクにすり替わってるし。
非常に身勝手だ。頭が平和ボケしてないか? 世界がお前のわがままで動くわけじゃないんだぞ。
でも、少し関わりを持たないうちに変わった。
人一倍のプライドを持つ肇が他人のために頭を下げるなんて考えられない。これも恋という名の浪漫が悪さしているからだろうか。わたしには一生理解できないものだけど羨ましいと思う感情もない。わかるのは恋が特別であることだけ。
「わかった。ただし次はないからな」
「あと金輪際アキバオタク云うな。むず痒くなる」