「にぎった手は、話さなくていい会話」
【おはなしにでてるひと】
瑞木 陽葵
混雑する電車の空気はちょっと苦手。でも、蓮と一緒なら、だいじょうぶだと思えた。
「はい、こっち」って言われて、素直に座ったくせに、ちょっとだけ照れて目をそらした。
――手をつながれたことより、その温度が残ってる方が、なんだかくすぐったい。
荻野目 蓮
電車の中では、陽葵の歩幅に合わせて少しゆっくり歩くようにしている。
手をつないだときに、彼女の指がほんの少し力をこめたの、ちゃんと気づいてた。
――“何も言わない優しさ”は、こういうときに使うものだと思ってる。
【こんかいのおはなし】
電車のホームは、想像通りの混み具合だった。
人がすれ違うたびに、誰かの会話やバッグのすそが肩に触れる。
「……あんま得意じゃないんだよね、こういうの」
ぽそっと言ったつもりだったのに、
隣にいた蓮は、すぐに反応した。
「知ってる。だから――ほら」
ふいに、手を取られた。
そのまま、ぐいっと一歩前に出されて、
気づけば空いた席に座らされていた。
「はい、こっち」
短く、それだけ。
でも、その一言で、
この車両の“空気の壁”が、少しだけ遠くなった気がした。
蓮は、そのままわたしの前に立った。
手はまだ、つながれたまま。
まるで、
“ここから先には、誰も通さない”みたいな顔して。
ちょっとだけ、
笑いそうになった。
そして、数駅すぎて、
人が少しずつ減って、
車内が落ち着いたころ――
蓮は、すっと隣に座った。
「……もう混んでないし、立ってる意味ないよな」
「……あー、なるほどねー。今さら戻ってきたって感じねー」
「ちゃんと席あけてたんだから、いいだろ?」
なんて言いながら、
ちょっとだけ距離を詰めて座る蓮。
座席のカーブにあわせて、肩が少し触れるくらいの距離。
でも、不思議といやじゃない。
むしろ、なんか落ち着く。
「さっき、乗るとき手つないだじゃん?」
「うん」
「……あれ、自然すぎて、なんか拍子抜けした」
「え、照れろってこと?」
「いや、逆にすごいなって思っただけ」
ふたりで笑ったあと、
しばらくは、窓の外の景色を眺めた。
踏切を通るたびのカタンという音と、
静かな会話と、
手のひらに残ったあたたかさ。
「……このまま、ずっと乗ってたいな」
「降りたくなくなるじゃん、それ言うと」
でも、
この電車も、わたしたちの時間も、
どこかに向かって走ってる。
だからこそ、
この一瞬が、こんなに愛おしいのかもしれない。
【あとがき】
電車って、意外と“心の距離”が出やすい場所ですよね。
喧騒のなかで、声をひそめて会話するふたりには、
まるで“ふたりだけの密室”があるみたい。
陽葵にとっての“手の感触”、蓮にとっての“守る距離感”、
読者の皆さまの“こころ”に静かに届きますように。