間章|竜の耳
[私は戦わない。ただ、あの声を聴いたから。]
[I did not roar to fight. I roared because I heard you.]
彼女が動いたのは、「彼が傷ついた」からではない。
彼女は、数え切れぬ人間たちが語律の中で砕け、命詩者が共鳴によって灰と化す姿を見つづけたり。
戦争と沈黙をくぐり抜け、その鱗の下には無数の消えた声が眠っている。
痛みなど、とうに麻痺していた。
なぜ人間は、そこまでして——声が枯れるまで叫び、「聴かれること」に固執するのか。
彼女には、理解できなかった。
——彼が、消え始めるまでは。
それは、「彼が話した」のではなかった。
彼女が「聴いた」のでもなかった。
彼が、「語られかけていた」ことに気づいたのだ。
その声はあまりにも静かだった。
まるで、彼の内側に潜む囁き。
許されていない詩が、強制的に朗読されようとしていた。
それは彼の声ではなかった。
世界が、彼を使って語ろうとしていた。
——言ってはならぬ、ある言葉を。
彼女は、そこで初めて「恐怖」を感じた。
自分のためではない。
その声のために。
彼女は、忘れたと思っていた。
語律が崩壊したあの日、旧き契約者が最後に遺しし殞詩。
風の中で断ち切られた銀の弦のような声。
その残響は、塔の廃墟に沈んだはずだった。
だが、まだ——残っていた。
風の中でも、詩の頁でもない。
あの少年の中に。
引き裂かれた名前の下。定義されぬ存在の奥。
それは記憶ではなかった。
それは——
答えの始まりだった。
彼女が応じなければ、その声はもう誰にも聴かれない。
だから彼女は、
咆哮した。
それは、攻撃のためではない。
戦うためでもない。
それは、伝えるためだった。
「——聴こえている。」
彼女は、詩の終章ではなかった。
沈黙の中で待つだけの存在では、もうなかった。
このとき、彼女は自らの意志で、
彼のために声を発しぬ。
咆哮の残響の中、彼女は微かに聞いた。
裂け目の奥から——
未完の詩が、
今、目覚めようとしていた。
【間章 完】