表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/17

第四章|沈黙者たちの地

[語らぬことは、恐れではなく、選択である。]

[To remain silent is not fear—it is choice.]




 彼らは夜明け前にヴォクセイを去りぬ。


 ラクリマは語らず、彼も道を尋ねなかった。風だけが二人を運ぶ。


 それは——詩律を逆行する逃走。

 語律塔は追ってこない。


 彼の声は「解析不能な句」として記録され、語律社会は彼を「無視」することを選んだ。

 まるで——読解不能な廃文のように。


 二人は地図に記されていない地へと飛び込んだ。

 語律国家の辺境、紙のように剥がれた谷。岩は破れたページのように砕け、風の音は紙擦れのように低く鳴った。


 そこにはこう呼ばれる者たちが住まうと伝えられ。

 命詩を知りながら、沈黙を選んだ者たち。


 彼らは、自らを「沈黙者(サイレンス)」と呼ぶ。

 彼とラクリマが降り立ちしとき、迎えはなかった。


 ただ、ひとりの老人が谷底に立ち、手の動きで詩を描くようにして彼を導いた。


 詩に覆われた空間、石碑には欠けた音節が刻まれている。

 それは語律に剥奪された抵抗の痕。


 音はない。


 しかし、そこには「文法の残響」が微かに空気を震わせていた。

 沈黙者は語らず、書かず。


 彼らは呼吸と手の動き、韻律に満ちた身振りで意思を交わす。


 彼は、初めて見るその表現に戸惑いながらも、不思議と安らぎを覚えた。


 ひとりの若き沈黙者が近づいてきて、指先で数度動かした。

 意味はわからなかった。


 だが、突然——


 脳内に声が届いた。

 それは彼女の声でも、機械の音でもない。

 神経に直接触れるような語感。


「君は、何を言った? 世界が君を、聴こうとしたのは。」


 彼は言葉を返せず、ただ、驚きに沈んだ。


 夜。


 彼は失われた詩碑に囲まれた石の空洞で眠った。


 夢を見た。


 夢の中——砕けた声たちが詩となって並び、まるで子供が水面で誤って歌った歌詞のよう。


 彼はそれらの詩句を踏み、進む。

 足元には、次の句が浮かぶ。


「運命、裂け、声いまだ平らかならず。」


 その句は不完全だった。

 語律に適わず、存在を許されない構造。


 だが、彼は知っていた。

 ——それは、かつて確かに存在した音。


 ただ、誰も記憶しようとしなかっただけ。

 夢の果てに、囁きが聞こえた。


「すべての詩が、語られるべきとは限らない。」

 彼が目を覚ましたとき、ラクリマは谷の入口で、ひとつの石碑を見つめおり。


 その鱗が淡く光る。まるで、何かに応えているかのように。


 彼は彼女の隣に立った。

 石碑には——何も刻まれていなかった。


 だが、彼はそれを「読めた」。


 それは、刻まれなかった詩だった。

 彼は指を伸ばし、空気に一行の見えない句を書いた。


「僕はまだ、ここにいる。君が聴いてくれるなら——」


 ラクリマは語らなかった。

 けれど、その呼吸が、

 静かに、深く——返していた。

 谷のどこかで、沈黙者の一人が呟くように断句を噛みしめ、囁いた。


「私たちが沈黙を選ぶのは、間違えるのが怖いのではない。語られ方を、恐れているのだ。」


 彼は、目を伏せた。

 そして、理解しはじめた。


 存在とは——

 名を語ることではなく、

 語らない瞬間を、選ぶことかもしれない。

 遠く、風の中から微かな低音が響く。


 語律塔の影が、静かに忍び寄っていた。


【第四章 完】

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ