第四章|沈黙者たちの地
[語らぬことは、恐れではなく、選択である。]
[To remain silent is not fear—it is choice.]
彼らは夜明け前にヴォクセイを去りぬ。
ラクリマは語らず、彼も道を尋ねなかった。風だけが二人を運ぶ。
それは——詩律を逆行する逃走。
語律塔は追ってこない。
彼の声は「解析不能な句」として記録され、語律社会は彼を「無視」することを選んだ。
まるで——読解不能な廃文のように。
二人は地図に記されていない地へと飛び込んだ。
語律国家の辺境、紙のように剥がれた谷。岩は破れたページのように砕け、風の音は紙擦れのように低く鳴った。
そこにはこう呼ばれる者たちが住まうと伝えられ。
命詩を知りながら、沈黙を選んだ者たち。
彼らは、自らを「沈黙者」と呼ぶ。
彼とラクリマが降り立ちしとき、迎えはなかった。
ただ、ひとりの老人が谷底に立ち、手の動きで詩を描くようにして彼を導いた。
詩に覆われた空間、石碑には欠けた音節が刻まれている。
それは語律に剥奪された抵抗の痕。
音はない。
しかし、そこには「文法の残響」が微かに空気を震わせていた。
沈黙者は語らず、書かず。
彼らは呼吸と手の動き、韻律に満ちた身振りで意思を交わす。
彼は、初めて見るその表現に戸惑いながらも、不思議と安らぎを覚えた。
ひとりの若き沈黙者が近づいてきて、指先で数度動かした。
意味はわからなかった。
だが、突然——
脳内に声が届いた。
それは彼女の声でも、機械の音でもない。
神経に直接触れるような語感。
「君は、何を言った? 世界が君を、聴こうとしたのは。」
彼は言葉を返せず、ただ、驚きに沈んだ。
夜。
彼は失われた詩碑に囲まれた石の空洞で眠った。
夢を見た。
夢の中——砕けた声たちが詩となって並び、まるで子供が水面で誤って歌った歌詞のよう。
彼はそれらの詩句を踏み、進む。
足元には、次の句が浮かぶ。
「運命、裂け、声いまだ平らかならず。」
その句は不完全だった。
語律に適わず、存在を許されない構造。
だが、彼は知っていた。
——それは、かつて確かに存在した音。
ただ、誰も記憶しようとしなかっただけ。
夢の果てに、囁きが聞こえた。
「すべての詩が、語られるべきとは限らない。」
彼が目を覚ましたとき、ラクリマは谷の入口で、ひとつの石碑を見つめおり。
その鱗が淡く光る。まるで、何かに応えているかのように。
彼は彼女の隣に立った。
石碑には——何も刻まれていなかった。
だが、彼はそれを「読めた」。
それは、刻まれなかった詩だった。
彼は指を伸ばし、空気に一行の見えない句を書いた。
「僕はまだ、ここにいる。君が聴いてくれるなら——」
ラクリマは語らなかった。
けれど、その呼吸が、
静かに、深く——返していた。
谷のどこかで、沈黙者の一人が呟くように断句を噛みしめ、囁いた。
「私たちが沈黙を選ぶのは、間違えるのが怖いのではない。語られ方を、恐れているのだ。」
彼は、目を伏せた。
そして、理解しはじめた。
存在とは——
名を語ることではなく、
語らない瞬間を、選ぶことかもしれない。
遠く、風の中から微かな低音が響く。
語律塔の影が、静かに忍び寄っていた。
【第四章 完】