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第三章(下)|沈黙に満ちた対話

[言葉がなくても、聞き合うことはできる。]

[Even without words, we may still listen.]




 夜は、軽かった。

 薄く削がれた声のように、世界の縁に落ちる語調。


 ヴォクセイの外縁には、かつて古詩律学派の詠唱場だった廃詩壇があり。今は荒れ果て、語義崩壊域として封鎖されている。


 壊れた石碑には未完の音節が刻まれており、風が吹くたび、破片のような残響が低く囁いた。

 彼は、そこに独りで立っていた。


 逃げるつもりなどなかった。

 ただ——定義されることを拒んでいた。


 身体は軽かった。飢えでも疲労でもない。

 まるで文から抜かれた言葉のように、筆がまだ届かぬ透明な存在。

 文法から剥がされ、存在そのものが忘れられていくようだった。


 そのとき——彼女が現れた。


 ラクリマ。


 詩壇の反対側に静かに降り立ちたり、音を立てることなく、ただ佇む。


 彼女は語らなかった。


 彼を見ていた。まるで、彼が先に語るのを待っているように。


 だが、彼も語らなかった。


 ただ、見つめ返した。

 やがて彼は、そっと座り込んだ。

 子供のように。


 ラクリマは首を垂れ、翼を静かに畳みたり。


 夜の帳のように、音もなく。

 ふたりは、何も語らなかった。


 なぜ彼女が来たのか。なぜ救ったのか。

 あの言葉を、彼女が理解しているのか。


 彼は問わなかった。


 ラクリマも、咆哮せず、歌わず、何一つ返さなかった。

 ただ、沈黙がそこにあった。


 だがその沈黙は、やがて空気にリズムを生んだ。

 まるで、音を持たぬ詩句がお互いの存在によって調和しはじめるように。


 彼は初めて、彼女をよく見た。

 その身体は銀の羽で構成されおり、ひとつひとつの鱗が、まだ書かれていない語素のように光を放つ。


 彼女は竜ではなかった。

 声が生まれる前の、形だった。


 ラクリマの瞳が彼を見つめ返す。

 彼の瞳には、破れた詩型が映る。


 心臓の鼓動は、まるで断章のリズムのように不安定で、けれど確かなものだった。

 風が砂塵を巻き上げ、石碑が低く鳴る。


 彼は顔を上げない。


 ラクリマが一歩、近づいた。

 音もなく、気配もなく。


 たった一歩。

 だがその一歩が、


 彼にとっては「聴かれた」実感だった。

 言葉を発さなくても、そのままで——存在を見られていた。


 それが、彼が初めて感じた「完全な存在感」だった。

 定義もなく。解釈もなく。ただ、聴かれるという純粋さ。

 彼は目を閉じた。胸の奥から、静かに放たれる安堵。


 ラクリマは、それ以上近づかなかった。

 風が止んだ。


 そして——

 音が、来た。


 廃墟の奥底から、微かな囁き。

 まだ語られていない詩句が、

 そっと、目覚めようとしていた。


【第三章(下)完】

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