第三章(上)|詩律の壁、その内側の裁き
[記録は、存在を保証しない。それはただ、声の骨を数えるだけ。]
[Records prove nothing. They only count the bones of voices.]
世界は、あまりにも明るすぎた。
封印の地にあった静寂と文法の崩壊を超えし今、ヴォクセイは、「過剰に定義された世界」だった。
彼は登録ホールの中央に立っていた。
頭上には環状スキャナが浮かび、呼吸の周波数や声の残響を解析する。
壁には語律データが浮かぶ——抑揚角、音軌波形、沈黙率、指名性。
その中にひとつ、赤く点滅する語句があった。
『自由』——語義危険等級:A
「語体、未記録。由来不明。」 「呼吸周波、異常な安定性。」 「所属語階なし、署名なし、名詞指標なし。」
彼は黙っていた。
それは、分解されていく感覚だった。
彼の存在が、階層ごとに分けられ、コードに訳されゆく。
彼には記録も、名も、称号もない。
——「無名者」というラベルさえ、他者によって貼られたものだ。
彼は、ある人物と面会させられる。
語律執行官、ヴェイン・サイクス。
彼は灰白の制服を纏い、その声には感情がなかった。
まるで凍てついた法典を朗読するかのように語った。
「君は語律の都への無断侵入者。名を持たず、語体未申告、語彙登録外。」
彼は答えなかった。
「では、私が仮の名を与える。U-V01。未登録語体標本・第一号。」
彼は、かすかに呟いた。
「……やめてくれ。」
「命名を拒否するのか?」
ヴェインの目が僅かに揺れる。
「命名拒否は危険身元の偽装と見做す。音声拘束を開始する。」
彼が腕の装置を押すと、壁から低周波が放たれた。
彼の声帯を封じようとする圧。
だが彼は、はじめて——明確な声で、
言った。
「君たちは、僕が“誰なのか”を尋ねてはいない。」
「君たちは、“定義できるか”を問うているだけだ。」
「これは語律社会だ。存在は記録されなければ——」
「僕は、君たちの記録じゃない。」
「僕は、君たちの言葉じゃない。」
空気が微かに震えた。
その言葉は、詩のように空間を揺らした。
壁の波紋が反転し、スクリーンにエラーが走る。
「識別失敗:文構不全」 「句首破損」 「語律ループ検出」
ヴェインの手が再び動こうとした——
その瞬間、低く、深い竜の咆哮が語律塔を貫きたり。
ラクリマが来た。
空気の低周波は、既に彼女の到来を告げていた。
すべての音が止まった。
残ったのは、彼女の残響だけだった。
彼は背を向け、歩き出した。
その背中が、最後に残したのは——
「僕は、君たちの“言葉”じゃない。」
その夜。語律塔の記録システムに、
削除不可能な断片が残された。
【U-V01:「僕は、君たちの言葉じゃない。」】
誰にも、解読できなかった。
なぜなら、それは
規則ではなく、声そのものの拒絶だったから。
【第三章(上)完】