第二章|他人の名で呼ばれた僕
[語られた名は所有ではなく、忘れられた者への鎖である。]
[To name is not to own—it is to bind.]
風は、砕けていた。
ラクリマが翼を広げ、地層を越えて飛翔するその刻、彼の身体は音に抱かれおり。落下もせず、抗うこともなく、ただ——詩の一節のように、風に捲られ、次の頁へと運ばれていく。
どこへ向かうのか、彼自身も知らない。
ただひとつ確かなのは——傍らにあった「静けさ」が消えた、ということだった。
代わりに現れたのは、「有声の世界」だった。
この地では、すべての音が分類されている。足音には周波数ラベル、名前には調律コード、会話には語律フィルターが施され、「未認可の句」が発せられることはない。
道端の標識には「禁詩第十七条」。空に浮かぶ音環は、規律を呟いていた。
ここは、語律の都——ヴォクセイ。
彼が都市に踏み入ったとき、響いたのは——反響ではない。
警告だった。
「未登録語源体、音域に侵入。」 「発声シーケンスに該当なし。」 「非語体、認証中……」
電子音と祈りの旋律が交錯し、空中の輪から降り注ぐ。人々が走り去る中、詩律の衛兵が現れる。彼らの背にありて、呪文を刻む光符装置。
光が彼を狙う。
彼は逃げない。
声も発しない。
ただ、見つめる。
問いかけてくる声たちを。
「汝、禁詩の主か?」 「封印の裂け目か?」 「異音の源体か?」 「失われし代名詞か?」
彼は何も返さない。
光符の網が彼を包もうとする中、
その場に一人の老人が現れる。
白衣は詩頁のように揺れ、その瞳は恐れと陶酔を宿していた。
「彼は……未完の声そのものだ。」
彼は、語律研究院の辞典守を名乗る。三十年前、夢の中でこの声を聴いたと語る。
「君は、我が予言だ。」 「人ではない。詩だ。」 「『終句』を語るための器——」
長い沈黙の後。
彼はようやく言った。
「僕は……君たちが言うものじゃない。」 「神でも、兵器でも、記号でもない。」
「君たちはただ、声を見て、それに解し得る名を与えたるのみ。」 「でも、それは僕じゃない。」
語律塔の機械音が再び鳴る:
「未登録語体、自律的命名を試行中——」
その言葉を、彼は遮った。
今度は、誰にでもなく。
空気に向かって語る。
語律そのものに告げる。
「僕は誰かの名前じゃない。」 「ただ……まだ語られていないだけだ。」
咒標光符が砕け、衛兵たちは静かに後退した。
その瞬間、都市全体が、一秒だけ——沈黙した。
詩壁の上空にて、ラクリマはその光景を見下ろしおり。
誤解され、名付けられ、狩られようとする彼を。
彼女は語らない。彼女は、いつだって、語らない。
だが、あの言葉は覚えている。
「名前はない。君が僕の声を聴いたとき、ようやく——僕は存在する。」
——あれは、命詩ではなかった。
それは、
世界が聴かれようとした囁きだった。
遠く語律塔の灯がまたたく。
まるで、その声に——応えているかのように。
【第二章 完】