間章|引かれし声
[声は名を待たず、ただ記憶を揺らした。]
[ Voice awaits no name—it only stirs memory.]
彼女は、「飛んでいた」のではなかった。
彼女は、「引かれていた」のだ。
まるで遠くの音が反響して響き合うように、
彼女の内奥——彼女自身すら聴こえぬ層で、何かが鳴り響きたり。
その声は、消された歴史の深層から漂い来たるもの。
不意に意識の隙間へと流れ込み、彼女を貫きたり。
「名前はない。君が僕の声を聴いたとき、ようやく——僕は存在する。」
その一行は、針のように——
「すでに沈黙した」と信じていた領域を貫いた。
彼女は、己が何ゆえ飛び立ちしやを知らず。
なぜ彼を背に乗せたのかも、わからない。
ただ一つ——
「行かねばならぬ」とだけ知っていた。
その声——あの存在、いや、
未完の詩そのものが、
今、消えかけている。
彼女には、それが感じられた。
彼は、血肉ではない。
言葉と残句が織りなす「声の欠片」。
彼を「聴き取れる存在」——
つまり、「応え返す者」がなければ、
彼は一編の半端な詩のように:
紙に吸われ、 インクに溶け、
——そして、忘れられる。
でも、彼女は「覚えている」。
いや——
「その声を、覚えていた」。
その声は、かつてどこかで発せられたもの。
それは、彼女が近づかないようにしていた街——
語律の都・ヴォクセイ。
語律塔があり、命名者がいて、
詩を監禁する牢獄のような場所。
あの街は、
彼女が「言い終えられなかった契約者」と決別した場所。
そして、彼女が初めて「その一行」に返答することを拒んだ場所でもあった。
だが今——
その一行が鎖のように、
彼女を「逃げ出したその場所」へ引き戻している。
彼女は、破滅した山脈を越えた。
語律防壁の符文が輝きを放ち、彼女を止めようとするが、
その鱗光が全てを弾き飛ばす。
彼女は、沈黙の禁域を超えた。
地中の微かな残響が、
彼女の影に反応して揺れていた。
彼は、目を閉じていた。
静かに、彼女の背に伏していた。
だが彼女には「聞こえおりき」。
彼の内にある一行が、
呼吸のように、脈打っていた。
「僕はまだここにいる。君が、僕を聴いてくれる限り。」
彼の声は、背中で微かに震え、彼女に寄り添うように響いていた。
霧のように、消えてしまいそうなその声。
彼女は、飛び続ける。
——「声」と「声」が、
再び交わるその場所へ向かって。
語律の都・ヴォクセイ。
そこには、彼女が拒んだ「声への応え」が埋もれている。
そして、彼が語るべき最後の一行が——
未だ、待つ。
【間章 完】