第一章|封じられし声、まだ語られず
[詩は語句から始まらない。聞かれることで初めて、始まる。]
[ A poem does not begin with words. It begins when someone hears it.]
空は静かだった。
風が止んでいたわけでも、音が消えたわけでもない。ここでは「語」が拒まれている。 空気は、語を閉ざす膜の如く、語られそうなすべてを地層の底へ沈めていた。息づかい、嘆き、骨が擦れる音でさえ、黒へと吸い込まれていく。
音は死なず、 ただ、圧縮されている。
この遺跡に、名はない。
世界に忘れられ、帝国に封じられた地。 七重の反詩結界が施され、「語られなかった言葉」たちは地の底で眠っている。
その結界は、死んでいない。
まるで、言い淀んだ言葉のように——今なお、続きを待っている。
そして彼は、沈黙の中に落ちた。
目を開けたとき、身体の半分は砕けた石碑に埋もれていた。 石碑には、乱れた古語が刻まれていた。 呪いのようでもあり、溜息のようでもあり、何よりも——
「詩だ。」
声に出してはいない。けれど、その言葉は、頭の中で、目に見えない波紋が広がるように鳴った。
彼は、自分が誰かを知らない。 誰からも問われたことはなかった。
声の外に生き、名も持たず、本にも記されない。
——いや。 彼自身が、「名なき空白」そのものだった。
彼は顔を上げる。
封印の中心には、円形の空白領域があった。 世界の一頁が削り取られたような、歪んだ空間。 空気の流れが止まりかけ、何かを「待っている」かのようだった。
彼は、一歩踏み出す。
石碑が震え、割れ目から低く囁くような音が漏れた。
もう一歩。
空気がひび割れたガラスのように、軋み始めた。
さらに一歩。
なぜ歩いているのか、なぜ止まらないのか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥に声がある。 言葉ではない。
リズムだった。
語の始まり、あるいは 語る直前、息を吸う一瞬の静けさのような。
中心に立った。
何も起きなかった。
そして、彼は口を開いた。
語りたかったわけじゃない。
——ただ、「何を言うべきか」を知っていた。
それは文章じゃなかった。
それは、存在の宣言だった。
彼は呟いた。
「名前はない。君が僕の声を聴いたとき、ようやく——僕は存在する。」
彼女は静かに答えた。
「我が名は ▭ 。汝、我が声を聴くその刻まで、我は未だ在らず。」
その瞬間、封印領域全体が震えた。
空気が砕けるように音を立て、石碑の断文が外に広がる。 語法が再構築され、声紋が浮かび、地の底から残響が這い出してくる。
天が裂け、塵が渦となって舞い上がった。。
その虚空に、現れたのは——
銀白の音を纏った影。
彼女。
眠ってなどいなかった竜。
「詩の終章」と呼ばれし存在。
深層の声より、ゆっくりと浮かび上がる。鱗は砕けた言葉のように光を放ち、瞳はまるで、残響そのもの。
彼女は何も言わなかった。 けれど、その沈黙に世界が震えた。
彼女は、彼を見下ろす。
まるで、聴いているように。
彼はただ、立っていた。
まるで、彼女を遠き時から待ち続けていたかのように。
——存在すらなかった時から、 ——この、最初の声になるために。
契約は、まだ成っていない。
詩は、まだ始まっていない。
けれど、
音は、すでに始まっていた。
【第一章 完】