第一章13.5 Whose baby's memory ?
血は歴史だ。
我々人間に流れる赤い血潮は父母のから受け継いでいる。
その父母もまた各々の父母のから引き継いでいるのは言わずもがな。
そうやって辿っていけば今の自分に流れている血が遙か昔の祖の血を継いでいることになり、つまり血は歴史を表していると言えるのだ。
皇族や華族、一部の民族にとってこの歴史という名の血は一族を繋ぐ輪であり共有財産。決して途絶えさせること無く、奪われること無く、また汚すこと無く、護り続けなければならない。
それらは目に映るが見えない血の戒禁とも言えるだろうか。
血が歴史なのであれば新たな生命が誕生することは新たな歴史が生まれる瞬間でもある。
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辺りが寝静まる丑三つ時。窓に目をやれば綿菓子のような雪がこんこんと降って落ちてきていた。
奥の部屋では何人もの従者達が、大きくお腹が張った女性を囲み、わたわたと忙しなく動き回っていた。
その音だけを扉の向こう側で聞く男も同じく落ち着きがなく、膝を震わせる。
「奥様しっかり! あともう少しですよ!」
「ううっ! うあああ!」
その叫びがどれほどの痛さなのか、男には経験が無いから分からない。ただ、必死に苦痛を訴える妻を思うと、男も同じく苦悶の表情を浮かべた。
雪が降り始めたのは何時からだったろうか。いつしか辺りは一面白で覆われていた。
張り詰めた空気と内から湧く情動に縛られ続けた男の疲労は限界を越えていた。
しかし男は待ち続ける。
これくらい何てこと無い、妻に比べればこんなのかすり傷程度だ。妻は身を焼かれるような激痛に耐え続けているのだから、男が根を上げる訳にはいかないのだ。そう己を鼓舞し待ち続けた。
しかしこの状況、余所から見たら一体どれほどの批難を浴びることになるのだろう?
ふと我に返ったように男は思い馳せる。
これから一国の王になる男が抱えている責務を全て投げ打ち、代わりに生まれてくる我が子を抱きかかえようとしていることを民はどう感じるだろうか。税泥棒とはやし立てられてもおかしくない。
ましてや現状やっていることと言えば愛する妻の苦痛の声を聞き、窓の外を眺め、うちひしがれたように膝を折って座るのみ。何の役にも立てていないのなら、いっそ全てを任せて己の業に戻るべきだと指摘されてもおかしくない。
ああ、そうだ、本来ならそうするべきだった。
国を捨て、己の身を案ずる王など誰も求めやしないだろう。
正論だ。文句の付けようが無い。
しかし、それでもこの王子は父になる日をこの上なく待ち望んでいた。
『この子は千年に一人の逸材になる』
妻がこの子を孕んだときに側近の占戦術師がそう告げた。
もともと妻は占いの名家であるアクアルーナの出身で、彼女自身も名の知れた占い師だった。そして王であるこの男も出身はフラムソール――こちらは占い師の血こそ流れてないが、王族の血が通っていた。
そんな生まれながらに命を背負った両者が子を授かった。このこと自体、大変素晴らしい事なのだが、さらにその子が神の子と称されたのだ。
それはそれは王としても、また親としても生まれてくる子が特別な存在なのは言うまでも無い。
だが、それ以上に彼はどうしてもこの場ですぐに確認しなければならないことがあった――――
「奥様、ようやく頭が見えてきましたよ! もう少しです、もう少しの辛抱です!」
中から側付の女性の声援が聞こえてきた。男もその声につられて立ち上がり、ゆらゆらと扉に近づいていく。
いつしか闇も薄らぎ、東の空には日の頭が見え始めていた。
その光はまるで今の胎児の状態を表わし、新たな生命の誕生を祝福するかのようだった。
そして遂に、その時が訪れる。
「いやああああ!」
しかし始めに聞こえてきたのは元気な赤子の産声――――ではなく母の悲鳴だった。父は頑なに開けるなと咎められていた扉を檻から開け放たれた猛獣の勢いで開け放った。
「どうだった!?」
男の目に飛び込んできたのは寝台の上で俯き沈む妻と従者達。そして母との繋がりを断たれ産婦に裸のまま抱きかかえられた我が子だった。
だが何故だろう。それらの面々の表情に嬉々の表情は一切見られない。妻に至っては両手で顔を覆う始末だった。
父は胸の奥から何か嫌なものが昇ってくるのを感じた。
裸の子を抱いた従者の一人が重い足で近づいて来る。
「旦那様・・・・・・・・・・・・・・・・・・男の子でした」
「そう・・・・・・か、男・・・・・・・・・・・・だったか」
普段は威勢の良い王子もこればかりは耐えられなかった。
肩を落とした父の表情は白く、両手で抱えた我が子を支えるので精一杯だった。
昇る朝日はその場を照らすこと無く、深い雲に身を潜めていた。
*****
寒い。冷たい。揺れている。浮いている?
ここは水の中?
いや、違う。水の中じゃない。
ここは外だ。
音が聞こえる。
ざくざくと何かを踏みならす音だ。
砂利では無い。この音はきっと雪だ。
さっきから顔に冷たいものが当たってきているから間違いない。
他に聞こえる音はなんだ?
・・・・・・鳴き声。鳴き声だ。
それは鳥や動物の鳴き声ではない。
ひっくひっくと喉を鳴らし、鼻水をすする人間の泣き声だ。
でも自分じゃない。
自分は今悲しくも無いし、心も痛くないから。
じゃあ誰が泣いているの?
「ごめんな。ごめんなぁ・・・・・・」
声が聞こえた。その声は上から降ってくるように聞こえた。
男の人の声だった。
どうして泣いているの?
何で謝っているの?
僕はその男の人が泣いている理由聞こうとして声を出した。
「ああう、あううぅあうあ!?」
しかしなぜだろう。口から出てきたのは自分の思っていたものではなかった。
言葉にならない声。うめき声。そんなところだった。
「あぁ、そうだよな、不安だよな。ごめんよ。これも全部お父さんが悪いんだ。お前は何一つ悪く、悪くない。・・・・・・・・・・・悪くないんだ!」
だから返ってきた言葉も全く見当違いなものだった。
すぐには理解できなかった。
でもようやく理解した。
身体が浮いているような、揺れているような感覚なのも。
言葉が話せないのも。
視界がずっと白いままなのも。
全部理解した。
泣いている男の人は自分のことをお父さんと称した。
お父さんの声は上から降ってくるように聞こえた。
冷たい雪が顔にかかった。
服は着ていなかった。
なんとなく身体全体を布で覆われているくらいだ。
だから寒いと感じた。
でも少し温かかった。
背中とか身体の横側はなんとなく温もりを感じた。
それら全ての情報を加味し、僕が得た理解。
――――僕は今、赤ん坊だった。
父親に抱きかかえられた僕は一体何処に向かっているのだろう。
目が開かない僕は確認のしようがなかった。
こんな雪の中を布きれ一枚だけで連れ回すなんて、どんな事情があればそうなるのか。
しかもお父さんはずっと自分を責めながら泣き続けている。
もし今の僕が臍の緒を切ったばかりの赤ん坊なのだとしたら、普通その涙は感動の涙なんじゃないだろうか? 待望の我が子に溢れる愛情が止まらないっ――――みたいな。
だが父からはそんな気配は一切感じ取れなかった。
そもそもどうして僕は赤ん坊になっているのだろう?
まさかとは思うが転生?
崖から落ちた僕は死んですぐにこの赤ん坊に転生・・・・・・、前世の記憶が残っているのは転生したから・・・・・・。
もしくは走馬燈の類いかもしれない。
死に直面したことで過去の記憶が引っ張り出され、現実のように思い返している・・・・・・。
そう考えるとなんだかしっくりくるような気がした。
なぜなら僕にはお父さんの記憶が一つも無いからだ。
物心ついた時から僕にはお母さんしかいなかった。
だから今のこの状況は僕の身体に染みついた過去の記憶なのかもしれない。
――――お父さん、一体どんな顔をしているのかな。
そんな妄想や考察をしていると身体の揺れが止まったのを感じた。
どうやら目的地に着いたみたいだ。
しかしそれから五分、十分と経っても何も起こらなかった。
僕は不思議に思うも、目が見えないので状況が分からない。
それからさらに数十分。同じ状況が続いた。
こう寒空の下で何もしないでいると身体は徐々に冷えていく。抱きかかえられているため凄く寒いわけではなかったが、指先や足先の感覚は既に無くなっていた。
僕ですらその状態なのだから父はもっと冷えているに違いなかった。
それでも父はその場から動かなかった。
何かに迷っているのだろうか?
雪が降る中、わざわざこの場所に足を運んだのだから何かしら目的はある。
でも躊躇っている。そう予想した。
しかしいくら考えても答えは分からない。
だって僕はこの男の人のことを何一つ知らないから。
そんなことを考えていると急にほっぺたに水滴が落ちてきた。
それも一滴二滴ではなくボロボロと。
僕の柔らかい頬に落ちて当たった。
「あぁ。あぁどうして、どうしてこんなことをっ! 俺は・・・・・・・・・・・・。どうして生まれたばかりの君を! 僕の子を! 俺は捨てなきゃいけないんだ――――」
男ははち切れんばかりの声量で叫んだ。
ずっと、ずっと我慢していた思いを爆発させた。
男の胸に抱きかかえられている僕の耳はキーンと耳鳴りがした。
「何が仕来りだ、何がルールだ歴史だ! 俺もそうだったから? みんなそうしてきたから諦めろって? ふざけるなっ! 俺はこの国の王になるんだぞ? 王なんだから俺の言うことが全てだろ。俺が法で、俺がルールだろう! ――――っなんで!? なんで生まれてきた子が男だからって、女じゃないってだけで殺さなきゃいけないんだよ!」
男の激情は収まらない。
さっきまでの沈黙が嘘のように騒がしかった。
耳鳴りが止まらない僕は内容をハッキリと聞き取ることができなかった。
でも男の、父の胸の鼓動でなんとなく伝わった。父がどんな想いで叫んでいるのかが僕には分かった。
今、父の心は泣いている。怒りを通り越して泣いていたのだ。
その悲しみは絶望から生まれていた。
どうしようもない現実が、運命が、父の心を絶望の淵に立たせていた。
――――我が子捨てなければならない。
そんなこと実際にあるものなのかと疑ってしまうくらいのことだが、事実男はその選択を迫られ、そして受け入れられずに足掻いているのだ。
いや違う。迫られているのではない。
既に決まっているのだ。
だからきっとこれが父にできる最後の抵抗だったのだろう。
何度叫んでも足りない。
が、この気持ちが収まることも無ければ、何かが変わることもあり得ない。
ひとしきり叫んだ後、父は再び静かになった。
現実を受け入れる準備に入ったのだ。
父の胸の音がだんだんと小さくなっていく。
これが気持ちが落ち着いてきたからなら良かったかもしれない。
けど実際は落ち着くなんて出来やしない。
この鼓動は全てを諦め、無気力になった時のものだった。
身体が持ち上がった。
父は覚悟を決めたらしい。
ゆっくりと背中が地に近づいているのを感じた。
ぴりっとした刺激が背中を走った。
きっと雪のせいだ。
頬に温もりを感じた。
きっと父が手を添えているんだ。
その手が僕の眉毛に触れた。
目に触れた。
鼻に触れた。
そして口に触れた後、そっと離れた。
ザク、ザクと雪を踏みならす音が聞こえる。
その音はどんどん遠くなっていく。
心臓がきゅっと締め付けられたように痛んだ。
この赤ん坊は僕かもしれないし、僕じゃない誰かかもしれない。僕が勝手に想像してるだけの夢かもしれない。
でもこの胸の痛みだけは本物だった。
「うう、うあっ、うあああ、うああああぁぁん!!」
気付いたら赤ん坊はでっかい声で泣いていた。
小さな手を懸命に伸ばして泣いていた。
行かないでと泣いていた。
置いてかないでと泣いていた。
そうして僕の意識は赤ん坊の意識と共に遠くなっていった。
「また、こうして尊き命が運ばれてきた・・・・・・」
最後にそんな言葉が耳元で聞こえてきたような気がした。