第一章12 不吉な雨
ノアに付き従うこと一時間あまり。無言で歩き続けた彼女はようやく立ち止まり、振り返る。その背には湖が広がっていた。
この湖の名前は三日月湖。上から見た形が三日月に似ていることから命名されている。
ノアがここで止まったということは目的地に着いたということなのだが、何故山を登るミッションのはずなのに湖に来たのか。
記憶していた地図と照らし合わせても、ノア最初からこの湖を目指していたことは明らかなのだがその理由は今もなお不明だ。
理解出来ないノアの行き先に不安を覚えたアビは途中何度もその理由を聞こうと試みた。しかし声にすることは叶わなかった。
ノアの後ろ姿が全てを拒否しているように思えてならなかったからだ。
今朝偶然見てしまった精霊のような美しさとは打って変わって、冷たい鉄の壁を目の前にしているかのようだった。
ダンも必死に自分を押さえ込もうとしていたのか絶えず顎と腕に力が入っていた。
「どうしてこの場所に来たのか。あなた達は見当もついていないでしょう」
アビ達の心中を見透かしたような一言が湖の前に立ちはだかるノアから送られてきた。普段のダンだったらここですぐに突っかかっていたことだろう。ただ、今は立場を弁えたうえで静観に務めていた。
「あなた達が最後に出した結論はこう――噴火は起きていない。だから山を登ろう――だったわよね?」
ノアの視線が一点に向けられる。
アビは間違いないと無言で首肯した。
「見鏡のタロットの仕様に気づき、隠された真実に辿り着いた。そこまでは悪くなかったわ。でも最後の最後で詰めが甘かったようね」
まるで教師が説教を講じるようにノアは評価を下す。その結論は及第点であると。
続けてその評価に至った理由をノアは述べるのだが、その内容は三人にとって目から鱗の衝撃的なものだった。
「仮に私が手出ししなくてもあなた達は合格に手が届いていたかもしれない。でも、それはあくまで可能性があるというだけで確実では無い。あなた方は知らないでしょうけど、この試験には正解が二つ用意されている。そして片方の道を選んだ場合、チームメンバーの内半分しか合格できないように設定されているわ。そんな危ない橋を一緒に渡ってあげられるほど私はお人好しじゃない」
「それってつまり・・・・・・僕達が選んだルートは二人しか合格出来ないルートだったってこと・・・・・・?」
アビの問いにノアは何も答えなかった。
でも、アビは自分の言ったことが真実だとすぐに理解した。
なぜならノアが否定をしなかったからだ。
「ちょ、ちょっとまて。そんなこと学校側は一言も言ってなかっただろ!?」
学校側から知らされていなかった試験のルールを知り動揺するダン。
ノアは最初からそう返答が来ると見越していたのか、即座にダンの甘い考えを一蹴する。
「確かに学校はそんなこと一言も言ってない。けど教える必要も無い。入学試験に二次試験があることだってあなた達は知らなかった。でもこうして文句一つ学校に言わずに従っているでしょう? それに学校側は正しいルートをきちんと提示してくれている。それに気付きさえすれば学校が仕組みを教えるか教えないかは問題にならない。違う?」
ぐうの音もでなかった。
白を白と判断しようと、黒と判断しようと、この場が学校の支配下にある以上全ての裁量は学校側にある。一介の生徒が抗う手立ては微塵も無い。
あまりの正論に誰ひとり、返す言葉が見当たらないでいた。
その状況を肯定的に捉えたノアが話を戻す。
「あなた達が見落としていたのは二つ。『真実の鏡に飛び込む』の解釈が甘かったことと、それを正しく解釈するために与えられた『不要な要素が無い』というヒントを考慮しなかったことよ。それら二つを組み合わせることで導かれる本当のゴール。それがこの湖」
そこまでを伝えてノアは湖へと振り返る。
ちょうど雲間から月が顔を出し、湖に月明かりが差す。
水面には黄金色に輝く三日月と風に靡く厚い雲、周辺の緑、そしてノアの姿が映っている。
それ以上に映っているものは無い。
「ここから先は霊力を身に纏い続けなければならない。けど未熟なあなた達はそう長くは保たないでしょう。それでもやって貰わなければ困るわ」
ノアはゆっくりと湖へと近づいていく。
その足先が水面を揺らすと同時に月が雲に隠れた。
月明かりが失せると視界は紺碧に沈んでいく。
かろうじて見えるノアのシルエットは半身でこちらを向いているようだった。
「――――死ぬ気でついてきなさい」
その瞬間、辺り一帯が蒼い光に包まれた。
それはアビが朝に見た神秘的な光景に匹敵するものだった。
月も太陽も街灯も、暗闇を照らすような存在は何一つ無い。
しかしそこには在る。自らが発光体となり淡く蒼い光を放つ湖の姿が。
きっとノアの霊力に反応しているのだろう。
ノアが一足動かす度にまるで命が宿ったかのように湖は明滅を繰り返していた。
呆気にとられるアビの腕をユミンが引っ張る。
気付けばノアはもう身体の半分以上を湖に沈めていた。
「アビ・・・・・・俺たち、頑張ったよな?」
ダンはアビには顔を向けず、冷徹な少女の背を見つめたまま聞いてきた。
自分の信じていたものが違っていた。ずっと牙を向けて反抗してきた相手が正しかったと知らされた。でもそんな自分を否定したくはない。――――肯定、して欲しい。
ダンにしては珍しいそんな想いを含んだ弱音だった。
一体誰が想像できただろうか?
真実の鏡の正体がこの三日月湖であることを。
一体どれほどの受験生が気付いていただろうか?
この湖に飛び込むために衣服や道具など不要なものを最小限にさせられていたことを。
一体どれほどのチームが真のルートに辿り着くことができたのだろうか?
そんなものは知る由も無いし、いずれ知る。
ただ一つ言えることとしてアビ達は真のルートを進む。三人の力では無く、一人の天才の力で・・・・・・だ。
「――――――いこう」
アビは肯定も否定もすることなく、たった一言を残して動き出した。
この場の慰めなんて互いの顔に泥を塗り、傷口に塩を塗るような行為でしかない。そんなことをダンもそしてアビ自身も望んではいないから。
「おう」
「うん」
アビに続いてダンとユミンも湖へと身を投じる。
霊力を宿した湖には目指すべきセフィロス島の山がくっきりと映っていた。
*****
真実の鏡であるところの湖に身を投じたアビ達。最初こそ水の中に入っているような感覚だったが、いつの間にかそんな気配も薄れ、ただ一様な水色の風景の中を歩いているような感覚へと変わっていく。呼吸も問題無くできていた。
あるところでずっと下り坂だった道が登り坂へと変わった。そこから少し歩くと再び水の感触が肌を伝い、上の方の色が段々と濃くなりはじめた。外が近づいているようだ。
そして頭から水面を破るようにして上陸を果たす。
もしこの現場を他の人が見ていたら河童が現われたとか言って肝を冷やしていただろう。
幸い目撃者はおらず、アビ達は無事に水中歩行を終えた。
先に上がっていたノアは地面に突き刺さっている看板の前で空を見上げていた。看板には『この先、霊力を絶やすことなかれ』と書かれていた。
最後尾を務めていたダンが岸に着いたところでノアはアビ達に振り返る。
「あまり悠長にはしてられないわ。もう一度言っておくけれどここから先は私に黙ってついてくること。それと霊力は絶対に切らさない。いい?」
悠長にしていられないと言う割には至極冷静に、ノアは再度確認を執る。
相変わらずの命令口調ではあったがもう気に障ることは無い。三人は覚悟を決めている。
一人として躊躇うこと無く頷き返していた。
「あ、雨だ」
ポツポツと降り始めた雨をユミンは掌を天に向けて受け取る。
「ずっと降りそうだなーって思ってたけど、まさかこのタイミングで降ってくるなんてね」
「ああ、全くだぜ」
たしかに日が沈む前から雲は広がっておりその予兆はあった。しかしこの雨はアビ達が思っているよりもずっと深刻な、予期せぬトラブルの始まりであった。
学校側は毎年の二次試験の日程を天候が荒れない日に調整している。わざわざ有能な占戦術師にお願いしてまでだ。
それは慣れない無人島での生活をする生徒達に危険が及ばないようにするためである。
雨天時に山を登るなんて愚行、自然の怖さを知らなくても分かるだろう。
ましてや試験の構造上、深夜に登山を開始する生徒の方が多いのだから余計にだ。
しかし雨は降った。これが一体どういう意味を持つのか?
ノアは額に皺を寄せ、もの凄い剣幕で空を睨んでいた。さっき空を見上げていたのも、時間が無いと言っていたのもこの雨が原因だったのだ。
「急ぐわよ」
ノアは苛立ちをぶつけるように言って、足早に山道を登り始めた。
三人も見失わないようにとノアに続く。
*****
それから数時間が経過した。雨は止むどころか余計に強さを増しており、加えて風も強くなってきたため横降りの激しい雨になっていた。時折雲の合間には稲妻が走っていた。
月や星も雲に隠れているため視界は真っ暗。かろうじて見鏡のタロットの液晶から漏れる光をライト代わりにすることでしか周囲の状況を確認することができなかった。
「ユミン大丈夫? ほら、僕の手に掴まって」
「はぁ、はぁ、ありがとう、アビ君」
一度も休憩を挟まずに足下の悪い山道を登り続けてきたが、流石にユミンは限界が近いようだ。かなり歩くペースが落ちている。差し出した手を握る力も弱く、こちらがちゃんと握っていないとすぐに離れてしまいそうだった。
「俺も力貸すぜ。後ろは任せておきな」
ダンは後ろから背を押すようにユミンを支えてサポートをしてくれた。ただ、農家育ちで自然での体の使い方が身についているダンでさえこの雨による足下の悪さはキツいようで、何度も足を滑らせ転びそうになっていた。それなのに――――
「ちょっとノア待ってよ。流石にこの暗さでそんなに前に行かれたら見失っちゃうよ」
アビ達は三人束になってなんとか保っているというのに、前を行く少女はひとりでグングンと進んでいた。まるで昼も夜も、晴れも雨も関係無いと言わんばかりに。
「まだ半分は残ってるのよ。試験に受かりたいなら死に物狂いでついてきなさい」
少し離れた所から鬼のような台詞が飛んでくる。そんな脅しに背を無理矢理押されるくらいなら、人参をぶら下げられた馬の方がまだマシだったろう。
ただ、いくら脅されても消耗しきった身体が再起することは無い。
「試験には受かりたいけど、見失ったら元も子もないよ。少しでいいから休憩にしてくれないかな?」
アビはユミンを想ってノアに休息を求める。
「はぁ・・・・・・・。五分だけよ。その後は山頂に着くまで休み無しで行くから」
チーム全員が揃っていることが合格の条件でもある。ノアは溜息を付きつつもそれを承諾した。
座って休めそうな安定した岩にダンとユミンが腰を下ろし、ノアもその位置まで戻ろうと来た道を引き返し始めた。――――その時。
アビは不吉にも見てしまったのだ。ノアの頭上、遙か上空の雲間を泳ぐ金色の龍の姿を――――
「ノア危ない!!」
「おい、アビ何を――」
その危険に気付いたときには既にアビはノアの元に向かって走り出していた。
アビの急発進にダンが声をかけようとするが、次に視界に入ってきた光景に開いた口が固まった。
暗闇に突如放たれた輝き。それは一瞬にして視界を白で埋め尽くした。それに少し遅れてやって来たのは龍の咆哮に似た轟。重圧な音に負けない振動が地を通して足裏にまで響いていた。
それら全ての天災を引き起こした正体は誰の目から見ても明らかだった。
ここに来るまでも幾度として目と耳にした金色の稲妻が落撃したのだ。
「アビ君!! ノアちゃん!!」
雷によって奪われた視界と音が戻る。驚きのあまり声を失っていたユミンが雷に遅れて叫び声を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・・・・・・・」
アビは呼吸荒くその場に立ち竦む。
この時に起きた奇跡は二つ。
一つはノアが生きていたこと。直撃かと思われた閃光は寸でのところで軌道を変え、ノアのすぐ横にあった木へと落ちていた。ノアより背の高い木が避雷針になってくれたのだろう。その証拠に木は無残に焼き割かれていた。
そして二つめの奇跡は、誰ひとりとして身に纏う霊力を絶やさなかったことだ。ただこれに関しては寧ろこれまで以上に敏感に、さらには繊細になっていた。死を間近に感じることで逆に霊力を強く意識させたのだ。
「さ、流石の私も、今のは死を覚悟したわ」
雷の衝撃が過ぎ去った後もまだ生の実感が湧かないのか、ノアは胸に手を当てたまま深呼吸を繰り返していた。
「――――――良かった、無事で」
アビはポツリと、半分無意識に近い状態でそう呟いた。心からホッとしたかのような、そんな一言だった。
ノアはアビから向けられた言葉はもちろんのこと、その慈しむような優しい瞳にさっきとはまた違った動揺を見せていた。
この時の二人の感情を表現するのは難しい。なぜならそれは魂レベルの会話に等しいものだったからだ。
周囲にある物体、風景、さらには互いの姿さえも真っ新に溶け込んで見えなくなった異空間。しかし互いの存在だけは、いや互いの存在だけを認識できている。そんな二人だけの世界を二人だけが感じていたのだ。
物語的に言えばこれは『始まり』なのだろう。この『始まり』をきっかけにして二つの物語は接点を持ち始め、交わり、そして互いの物語を結い始める。
――――そう、思っていた。
物語が交わるには二つ以上の物語が必要だ。
もし仮に片方の物語が途中で消滅したとしたらどうなるか?
一つだけになった物語はそれ以上にもそれ以下にもならない。
雷はノアを避けた。ノアは雷を躱した。
だから悲劇は去った。惨劇は訪れなかった。難事は起きなかった。
しかし避けたのは雷であって、神の裁きそのものを逃れたわけではなかった。
雨で泥濘んだ土壌。身体ごと吹き飛ばしてしまいそうなほどの暴風。雷による衝撃。暗闇は視覚の殆どを奪っている。
学校が事前に根回ししているため本来なら訪れないはずの不吉な悪天候。
それらがもたらした今の状況を誰が予想できただろうか?
もしかしたら、今悲劇の渦中に居る本人はある程度の予測を得ていたのかもしれない。雨雲が広がる空を怪訝に見つめ、時間に余裕があるはずなのに急かすような発言をしていた彼女なら、この事態を予め危惧していたのかもしれない。
いや違う。きっと彼女も具体的に何が起きるか、その詳細までは知らなかったのだろう。
もし知っていたのなら、『雨で泥濘んだ地面が雷の衝撃で亀裂が生じ地滑りを起こす』なんていう自然災害にノアが巻き込まれることは無かったはずだからだ。
ノアは目を疑った。天地が上下ではなく左右に存在していることを。
ノアは信じられなかった。自分の居た場所が急に陥没して無くなり、ふわっと宙に浮遊するような感覚を得ていたことを。
そしてそれらの信じがたい事柄が紛れもない事実であることを理解すると、今度は一気に恐怖が全身を襲ってきた。
その恐怖の正体は死。
ノア死ぬことを恐怖に感じたのだ。
全身が強ばり、震え出す。
ノアはなんとかしてこの恐怖から抜け出す方法を考えた。死なない方法を熟考した。
そしてその方法が目に映り込んできた。
ひとりの少年が無我夢中で駆け寄ってきて、手を差し伸べてくれている姿が。
この手を掴むことが出来ればノアは死そのものから逃れることができただろう。
ところが、ノアはすぐにその手を掴むことができなかった。
本当は喉から手が出るほど欲しいはずの救いの手。この状況を唯一ひっくり返せるとしたらその手しかもうないのに、ノアはアビの手を握ることを躊躇ってしまった。
『いっそ本当に喉から手が出てくれればいいのに』とノアは思ったかもしれない。そのくらい欲しいものなのに素直に受け取れない理由がノアにはあった。
――――『助けて』なんて死んでも言えない。
試験が始まってから今に至るまでずっと唯我独尊を貫いてきたノア。自分以外の存在を見下し、チームへの貢献どころかチームの輪を乱すような真似ばかりしてきた。
そんな非情な人間が今更どうして助けてなんて言えようか。
相手を卑下して、貶して、劣等感を煽って、仲間を仲間だと思ってこなかった人間が、いざ自分の身に危険が及んだ時にだけ仲間に助けを求める。
そんな自分勝手で惨めなことがどうしてできようか。
もし仮に助けを求めて相手に拒否されたとしたら?
それこそ死んでしまいたくなるだろう。なんなら死んだ方がマシとまで思えてくるはずだ。
ノアは危機的状況に陥ってもなお冷静に過去の自分を省みてしまった。そして死の恐怖とプライドが傷つく恐怖とを天秤にかけた結果、プライドが死を勝ってしまったのだ。
ノアの中での答えは決まった。
死ぬのは怖い。けどそれも全てこれまでの自分の行いが招いた災いだと思えば少しは楽に受け入れられる気がした。
「――――汚れた血に最初から生きる資格なんて無かったってことよね」
薄らと口元に笑みを浮かべて自嘲するノア。
これまでの自分の行いが招いた始末。人はそれを自業自得と言って笑うのだ。
だからノアはこの状況において、助けてなんて死んでも言わないと決めた。死という恐怖よりも惨めな自分を曝け出すことのほうがよっぽど怖かったから。
――――それなのに。
「掴まって!!」
諦め、閉じた瞳を、閉ざした心を、その無垢な叫び声が開かせる。
今までがどうとか、プライドがどうとかそんなものは関係無い。ただ目の前の人を助けたい。困っている人は助けなければならない。
そんな自分勝手で義務めいた善意を。
ノアとは正反対の、他人を勝手に巻き込んでいく無配慮な優しさを。
アビはノアに差し出してくる。
なんて愚かなんだろう。
試験の途中で知ったアビのお人好しすぎる性格をノアはそう評価した。
基本的に人間という生き物は損得勘定でしか動かない。何か自分に得があるから行動するのであって、何も得るものがないのに行動しようだなんて思わない。それが普通で当たり前のこと。
だがこの少年は違う。
その普通で当たり前の感情を持ち合わせていない。
だから周りがどうとか、世間一般がどうとかっていうのは彼の行動原理に殆ど影響を与えない。彼にとって正しいと思うことが正しくて、彼にとって悪いことが悪いもの。そんな自分だけの物差し、天秤で測られた判断基準でアビは生きている。
悪く言えばもの凄く非常識だ。
だからノアはもう一度同じ評価をアビに下す。
「あなたって本当に――――愚か者ね」
その言葉にこれまでのとげとげしさは欠片もなかった。
ノアの瞳にはじんわりと雨が溜っていた。
アビはノアの手をがっちりと掴む。掴んだ瞬間に全身が持って行かれそうになった。
アビはダンみたいに筋肉があるわけではない。腕の力だけでは到底ひとりの人間を支えきれないので全身の力を使ってなんとか踏ん張りを効かせる。
後はノアを引っ張り上げることが出来れば救出は成功だ。
そう思った矢先、またしても不運が訪れる。
「やばっ――――!」
夕方から降り続ける雨によって足場はひどく滑りやすくなっていた。自分ひとりだけなら重心を維持することで転ばずにいられただろう。しかし今のアビは片腕でノアを支えている。途端にバランスを崩して足を滑らせてしまってもおかしくは無い。
再び訪れる転落の危機。せっかくノアを助けたのにこのままでは二人とも崖から落ちてしまう。
「アビ! もう少しだけ耐えてくれ!」
落雷からアビがノアの手を掴むまで、あまりの衝撃に一歩出遅れてはいたがダンも助けに駆けつけてはいた。ただアビほど俊敏な反応ではなかったため、まだ距離が空いている。これでは到底間に合わない。
もう神とか天使とかが現われない限りは助けを望むことはできない状況だった。
窮地に追いやられたアビ。しかしここで彼は思いもよらぬ行動を取る。
「ちょっとあなた一体何を――――っきゃああ!」
アビの理解出来ない行動に驚き、そして悲鳴を上げたノア。
なんとアビは落ちることに逆らうのを止め、敢えて崖に向かって飛び込んだのだ。そしてその反動を使って入れ替わるようにしてノアを引っ張り上げたのだった。
考えるより先に体が動いていた。そんな火事場の馬鹿力にも似たアビの奇行により、ノアは雑に地面に投げられはしたが無事に危機から脱することに成功した。
だが、当然ながらアビの体はノアと入れ替わる形となっている。
「アビ君!!」
「アビィ!!!」
「うあああああああぁぁぁぁぁぁ!」
アビは深い闇の底へと転がり落ちていった。
「そ、そんな、アビ君が・・・・・・・・・・・アビ君がぁぁ!!」
顔を濡らすのは友を失った悲しみによるものなのか、それとも容赦なく降り続ける雨によるものなのか。ユミンの絶叫が空っぽになったノアの身体の中にまで反響していた。