迷アドバイザーの恋放火
正常性バイアスという言葉を知っているだろうか。想定外の事態に対し、起きていることを正常な範囲だと思い込む心理だ。さて、ここで考えてみよう。
百年前に行方不明になった大魔導師アーシュラと瓜二つの外見をした、名前もアーシュラで出身地も同じ人物が入学試験を受け、ありえない好成績で入学したのちにアーシュラの興した不人気学部へ進学した。この人物を見たとき、彼女こそが大魔導師アーシュラであると認識できるだろうか。
堂々と本名を名乗って入学した成績優秀者のアーシュラを、本物の大魔導師アーシュラだと認識した者は事情を知っているダナ、グレタ、マルク、そして二人の学部長のみだった。さすがに記念館の方は騒ぎを避けるため、偽物の彫像を置いてごまかしてはあるが。
なお、入学試験はまともに受験した。アーシュラ自身が不正を嫌ったのと、もしかしたら百年のずれで試験を落ちてくれるかもしれないというダナのわずかな望みのせいだ。
結局は魔法学と統魔学は満点で通過、煉丹学は一問を除いて正答という結果になった。しかしこの一問は、百三十年前に提示されたアーシュラ予想という数学の難問が証明されると別解が得られるという弱点があり、アーシュラはこのアーシュラ予想の証明式を書いたうえで別解を書いたというとんでもないものだった。
本人曰く「そう言えば論文にするの忘れていた」とのこと。答案をいきなり論文化するという話になっており、煉丹学部長はここ数日、数時間おきに胃薬を煉丹術で生成しては飲んでいるらしい。まあ、抹殺を狙って返り討ちに遭ったくせに元の椅子に座っていられるだけでも御の字だ。
ちなみに統魔学部はアーシュラが両学部長を脅迫して予算を分捕ったおかげで、現在はかなり研究も進められるようになり、ダナもかなりの恩恵を受けている。とはいえ、アーシュラの危なっかしいトラブルの後始末は全てダナがやっているうえ授業内容をちくちくと修正され、さらに数日に一回は乙女の妄想を聞く羽目になるという罰ゲームつきだ。
「ダナ校長代理、胃薬仲間ですな」
「陰謀煉丹道士に仲間とか言われると、ちょっと無いよねと思うんですよね」
ダナは煉丹学部長に声をかけられ、気のない返事を返す。今は魔法学部長も煉丹学部長も信用はできないものの大人しいもので、ダナにとってはこういう点も少しは楽になっているのにと思う。
そういえば最近、どうもあの変人皇女の動きが怪しい気がする。今までは学問と社交界関係で変人ぶりを発揮していただけなのだが、アーシュラに何やら変なことを吹き込んだりしている気がして気味が悪い。
とりあえずマルクさえ何とか手懐けておけば一応は安泰だと、ダナはぼんやりと汚い大人の思考で逃避していた。
「ほんっとアーシュラって奥手すぎますわ。あとマルクももう少し肉食系男子なら簡単ですのに」
「そこが彼の良いところなんだよ」
あばたもえくぼ、恋は盲目。そんな言葉がぴったりの台詞を吐くアーシュラに、グレタは溜息をつきつつ胸がわくわくしている。人工呼吸すらしたくせにいまだ初デートすら未達成のアーシュラに、グレタは呆れた想いを抱きつつも、あたふたするアーシュラを見るのが楽しい。
入学を機に、アーシュラはダナ、グレタ、マルクに敬称を止めるよう言った。一学生に不自然だというのが表向きの理由だが、マルクとお互い呼び捨てがいいなという甘ったるい願いが本音だ。
今日はマルクを昼食に誘い損ねたアーシュラが、グレタと一緒にカフェでガレットを食べていた。ちなみにアーシュラは校長に返り咲いたのでお財布の心配はない。もっとも、仕事はほとんどダナに押しつけているので実際には新人教師の給与しかもらっていないが。
「それで、今週末は煉丹フェアが中央広場で開催されるんですの」
「それは何かね? 百年前はなかったと思う」
「今の煉丹学部長が十年ほど前から始めたイベントですわ。煉丹学部生たちが、煉丹術による付与煉丹術品や煉丹薬を市民一般に販売しますの。学生も市民も楽しく、そして煉丹学部は参加費徴収で一儲けのイベントですわ」
「何か最後の台詞が唐突に下卑た感じはしたが、あの学部長ならそんなものか」
「参加費を払えば私たち統魔学部も販売できますの。私が出店しますと身分の関係で面倒臭い人が寄ってきますので、お買い物にしますけれど」
「それなら私も未完成だった煉丹術品があるから、あれを完成させて売ってみるか」
アーシュラの言葉に、グレタはちっちっと人差し指を振ってみせる。
「アーシュラ、それは甘いのですわ。煉丹フェアは男子好みの付与煉丹術品やかわいい小物もありますし、射的などの出店も楽しいんですの」
「なるほど、一度は買う側をやっておくべきか」
「ほんと駄目駄目ですわアーシュラ。そういったものをお目当ての異性と見て歩きたいと、どれほどの学生が頭を悩ませていると思っているんですの? それに去年は二人共同で手をつないで内丹の鍛錬を行う教室などもありましたわ」
「まだ私、バカ学部長の襲撃以来、彼とは指先も触れていないぞ! そんな教室を作るなんて煉丹学部長は良い奴だ」
「いえどう見てもあの先生は悪い人ですけれど」
グレタは辛辣な言葉も交えつつ、学部長たちの胃薬量が増えそうなことをアーシュラに吹き込んで満面の笑みを浮かべた。
「しかし待て、学生たちが悩んでいるというのはつまり、どう誘うかということか」
「そういう初々しい話もありますけれど、人気の方には色々と殺到しますわ。私も色々と寄ってきて面倒ですの」
「もてて面倒とは、なかなか君もすごいことを言うね」
アーシュラの言葉にグレタはは肩をすくめた。
「私の人気は肩書に集まっているだけですわ。少し会話をすれば、本当は統魔学に興味がないこともすぐにわかりますし、私のことも家柄の話しかしない殿方ばかりですの。まあ国元に婚約者がいますので構いませんけれど」
最後の言葉はどこかとってつけたような印象があったが、あえてアーシュラもそこには触れない。
「それはそうと、私もマルクを取られないよう気をつけないといけないかな。そうだフェアまで彼を校長室に誘っておこう」
「フェアまで校長室で二人きりで何日も過ごすなんて、情熱的ですわね!」
「ふふふふふふ二人きりで、何日も? 無理に決まっている! いやそうだ、校長室を私用で濫用するなどあってはならんことだ。そうだ他の方法で監禁じゃなく洗脳じゃなく保護じゃなく」
「次々と不穏なことを仰っておられますけれど、安心して構いませんわよ? 統魔学部の新入生はアーシュラとマルクの二人だけですし、不人気学部で奨学金頼りの平民でとくに高身長といったこともない彼が人気になるはずがありませんわ」
「何か今、マルクを思い切り悪く言っていた気がしたが」
手の中に暴風を生み出しつつあるアーシュラに、グレタは慌てて両手を振ってごまかそうとした。
「そんなことありませんわ! 私のおもしろかわいい後輩ですもの!」
「かわいい……?」
アーシュラは疑いの視線を向けたが、グレタはころころと上品に笑ってごまかす。ようやくアーシュラが魔法を収めたのを確認し、グレタはほっと溜息をついた。




