泉は踊る
アーシュラの歌声が唐突に止んだ。
湖底全体に、マルクやグレタはもちろん、ダナすら全く理解できない、虹色をした球体の魔法陣が浮かび上がった。
三次元魔法陣。魔術と煉丹術、そしてそれらを統合する統魔術特有の呪文が構築された、現代ではアーシュラのみが描ける魔法陣だ。
魔法陣は発光しながら湖底へと落ちていき、岩が水面であるかのように沈み込んでいく。そして魔法陣が全て見えなくなったとたん、湖底に一陣の風が吹いた。
ついで湖底の岩が、ぶゆり、とスライムのように揺れて中心に穴が開く。そして穴からゆっくりと金色の光が湧き出した。光はぐるりぐるりと湖底を巡りつつ、次第に金色の霧へと変わっていく。
霧は水滴をつくり、水滴は湖底を湿らせていき、小さな流れを作り出す。
その流れは湖底に金色の水溜りとなり、次第に泉を満たしていく。
「よし、これでほぼ修理完了。少し改善もしたから、魔力の純度も上がったかな」
アーシュラは満足そうに笑うと、空中に浮かび上がってグレタとマルクの頭をぐりぐりと撫でた。そして最後にエンペラースライムに声をかけた。
「これで先ほど以上の泉ができるはずだ。申し訳ないが、またしばらく守ってもらえるかな」
『もーちろんだー。これだーけの魔力があるなら歓迎だのー』
アーシュラはくすりと笑い、スライムをぎゅっと抱きしめる。スライムはアーシュラの抱きしめたとおりに変形し、まるで柔らかいクッションのようだ。
それどころか、アーシュラはあおむけになってスライムの上を転がり、そのままふかふかの羽毛布団に飛び込んだように沈み込む。
「グレタ、マルクもおいでよ」
二人は顔を見合わせ、おそるおそるエンペラースライムに乗る。ふんわりと二人とも包まれるように沈み込む。
「うわ、これは気持ち良いね」
「実家のベッドが、負けておりますわ」
『人間のベッドには負けないよー。なんだっけー、最近できた国でしょー』
「お言葉を返して申し訳ありませんが、私、こう見えてもロマナ帝国第三皇女ですわ。留学前は我が帝国の産業振興政策も見ておりましたのよ」
『だーかーらー、ロマナの皇帝ってあれだろー。ちょっと五百年ぐらい前に槍が大好きだった小僧だろー』
「……あの、建国帝はたしかに、槍の名手、ではあります、けど」
グレタは慌てて立ち上がりかけ、ふわふわの足場に転んでしまう。だが全く怪我もしないようにエンペラースライムはクッションになって守ってやる。
「グレタ。スライムの生死は我々と全く異なるから、時間の話は頭が痛くなるぞ」
アーシュラはにやにやしながらグレタに呼びかけ、次いでマルクに向かって言った。
「さて問題。スライムは無限と見えるほど殖えるが、どうやって殖える」
マルクは少し考えてつぶやくように言った。
「スライムには雄雌って、ありますっけ」
『雄とか雌とか、めーんどくさいよなー。そういえばー、マルクは子を産めないがー、グレタとアーシュラはマルクの子を産めるのかー』
「なななななななにを言うのかなこのボケスライムは!」
アーシュラは真っ赤になって叫ぶ。グレタはにやにやと笑って言う。
「マルク君と婚姻となりますと、まずは家柄と儀礼を覚えていただくのに大変ですわね」
「こら百年以上の逸材、婚約破棄皇女。お前なんかにマルクはもったいないぞ」
「痛いですわ! 一応これでも傷心なのですわ!」
マルクも頬を赤くして二人を見比べ、最後にアーシュラをじっと見つめてしまう。
(二人とも、僕の手の届く人じゃないけれど。でもグレタ先輩は「先輩」だよね。)
それならアーシュラについては。
(僕も、アーシュラをどう思っているかわかんない。だってアーシュラは、伝説の大魔導師様だから)
両頬に手を当ててちらちらとマルクを見るアーシュラは、マルクには同い年の女子にしか見えない。
(それに、あの人は僕の、命の恩人だから)
マルクはわからない自分の気持ちに蓋をして、あらためて言った。
「スライムの生態ですが、たしか主に分裂ですよね」
「そうだ正解!」
ようやくアーシュラはいつも調子を取り戻し、説明を続けた。
「スライムは分裂だ。じゃあ二つに分裂した、どちらが親だ? 区別がつくか? つかない」
『分裂する前も僕だしー、分裂した後も僕だしー、分裂した先の分裂もーぜーんぶ僕だよー』
エンペラースライムの言葉に、マルクとグレタは一緒に首をかしげた。
「スライムは分裂後、親子じゃなく本人が二人になる。小さいうちは記憶なんてものははっきりしないが、エンペラースライムまで育った個体は、その記憶が始まって以後は全滅するまで記憶を連綿とつなぐんだ」
『むずかしいことはわからないけどねー。僕は大きくなって千年は経ってるからねー』
「それ、ドラゴン族を超える長命ではありませんの?」
『僕ら、分裂したどれか一つでも生きていれば、そもそも死んでないのよー』
「何、ですかそれ」
グレタは両肩を自分の腕で抱きしめる。アーシュラはくくっと笑って言った。
「私たちも、肉体は小さい単位でできている。その一つ一つは毎日死んでいるが、私たちは生きている。スライムはそれに近いのだよ」
「魔生物最弱って言われていますけど、実は最強じゃないですか」
マルクの言葉に、アーシュラは満足そうにうなずく。再び全身をエンペラースライムに沈み込ませて二人に呼びかける。
「スライムごとき、と思っていただろう? むしろスライムがこの世界の主かもしれんよ。私もたった百年経って不老でいて、色々と思うからね」
色々って、とマルクは訊こうとして、だが言葉を飲み込んだ。
その色々の時間に自分はいない。
その長い時間に、アーシュラが囚われてほしくない。
自分と一緒の、今の時間に生きてほしい。
(なんか僕、わがままな子どもだな)
アーシュラが知ったら飛び上がって喜びそうな想いを、マルクは知らずに恥ずかしく思っていた。
『一つ、泉を守る代償を追加して良いかなー』
校舎へ戻ろうとする三人に、エンペラースライムがのんびりとした声をかけた。アーシュラは面倒くさそうに顔をしかめたが、マルクはエンペラースライムに近寄ってうなずいた。
『なあに、簡単なことだーよ。君たちたまにー、気が向いたら遊びにおいでよー』
「それなら、私も帝国の始まりのお話を聞いてみたいですし。本当にたまにかもしれませんけど」
『そんなに急がないよー。まあ十年に一回ぐらいでも全然構わないよー』
「……僕たちにとって十年って、すごく未来なんですけど」
『百年なんてあっという間、なあんにも変わらないよー』
「変わる!」
いきなりアーシュラが叫んだ。目に涙をためて全員を見回す。
「変わる。全部変わるんだ人間は。百年もの間眠っていて、この学園に残っていたのは、君だけじゃ、ないか!」
『そうかー。でも、僕とアーシュラはいたしー、マルクは君の仲良しの子から分裂したみたいじゃないかー』
スライムの言葉に、アーシュラはマルクを見つめる。マルクに、遠い日の親友の姿が重なる。
それはもう、ここにはいない人で。
マルクにその記憶があるはずもなくて。
アーシュラは決壊した。
「人間は、分裂しない! 死ぬんだ! 死んで誰もいなく、私だけ残して! 不老でじわじわと見送るのもつらいかもしれないけれど、見送ることもできなかった! 私は、独りぼっち」
言い募るアーシュラは、急に背中が暖かくなった。
耳元に呼吸が聞こえる。
振り返りたくて、振り替えられなくて。
「アーシュラだけ残っちゃったかもしれないけれど。僕が今の貴女を、独りぼっちにはしませんよ」
後ろから抱きすくめられる形で、アーシュラは呼吸が止まりそうになる。
(なんでマルクは、私を助けてくれるんだろう)
天才の頭脳に魔法陣と数式が意味なく巡る。首筋を上げ、マルクの胸に後頭部をすりつける。
向き合って、おずおずと彼の胸にしがみつく。
恋とかどうでもいい。
ほんの一瞬の孤独すら、否定してくれる人。
ああ、だから好きなんだ。
「ごめんマルク。あと五分だけ、大魔導師をおやすみさせて、くれ。ただ寂しいんだ」
「寂しくしないから。僕が寂しくしないから」
グレタはスライムに目配せすると、スライムの陰に隠れて二人から距離をとった。
二人だけの、優しい時間が流れる。