皇帝すらいむ
しばらく歩くと、次第に水音が聞こえてきた。空気も湿っぽくなり気温も上がってくる。
「そろそろ泉源が近づいたようだね」
アーシュラの言葉に二人も足取りが軽くなる。マルクは背負ってきたスコップを軽く振り上げて見せた。進むごとに蒸し風呂のようになり、流れる音と何か湧き上がる音も聞こえてきた。
そしてついに、広く開けた場所に出た。奥の石壁から熱湯が沸き、中心に向かって流れ込んでいる。中心には泉があり、そこから天井に向かって水柱が上っているのだ。流れる方はまだ自然な光景だが、上る水柱はいかにも魔法の効果だ。
「この水柱は魔法学部の魔泉へとつながっている。この泉は底に火の魔法を張ってあってね。煉丹術の火と水の反発力で上昇させているんだ。あと火力だから、普通に上昇熱でもあるしね」
「さらっとおっしゃいますけど、水中に炎の魔法を百年も据え置いているとか、魔法陣が理解できませんわ」
「煉丹術で地熱から火の気を抽出して、火の魔法に連絡している」
マルクとカイラは顔を見合わせて溜息をつく。何重にも魔法術と煉丹術を重ねていくことは頭がついていかない。ダナの言う非常識という言葉に、ようやく二人も納得した気分になる。
「さて、まずは門番に話を聞かねばな」
アーシュラは腰から魔法杖を取り出して素早く空中に球形の幻影を描いた。
「なん、ですのそれ」
「魔法陣だ。君らは普段、平面の円で描いているが、面倒臭いから三次元展開してひとまとめに描いただけ。なあに、関数の変数が一つ増えるだけだ。もう一次元増やすと異界や時間軸に入り込めるぞ」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」
さすがにマルクも弱々しい声を発する。だがアーシュラは気づかない様子で、そのまま魔法陣を起動した。すると中央の泉が盛り上がり、巨大な虹色のスライムが姿を現した。マルクとグレタが慌てて魔法杖を構えると、アーシュラは愉快そうに笑ってスライムに声をかけた。
「久しぶりだな。調子はどうだ」
「大魔導師殿かー。この湯はぬくくて気持ちが良いぞー」
スライムが体を震わせ、平板な声を発した。
「大丈夫だ。このスライムはエンペラースライム。人間並みの知能は備えておる。私が勉強を教えても、ちーとも覚えてくれないんだがな」
「アーシュラの教えた勉強に問題があったって可能性は?」
「それはないと思う。ないんじゃないかな。ないと希望しているよ」
アーシュラはマルクから視線を逸らして答える。最近、少しは自覚がでてきたようだ。
「気持ちは良いんだがー、どうも味が薄いんだなー」
エンペラースライムはまた体を震わせて声を発する。どうも体全体の振動で発声しているようだ。
「やはり魔力が薄まっているのか」
「食ごたえがないというかなー。昔お主が余したサラダを食ったことがあるじゃろ。あれが足りんのだー」
「木気のバランスが崩れたんだね」
グレタとマルクは、アーシュラたちの会話を聞いていて頭が痛くなってくる。スライムがしゃべるだなんて聞いたことがないし、魔力を煉丹術に分けて味で表現するとか、気分的にわかりたくない。
「彼ら魔獣や魔物は直接、魔力を摂取する。だから味覚のように捉えることはちっとも不思議ではないよ」
当然のように言って、アーシュラは少しだけ意地悪に笑った。ついでアーシュラは泉に手を入れ、何か呪文を唱えた。とたんに轟音が鳴り、噴き上がっていた湯がぴたりと止まった。次いで泉の水も排出されていき、ついに底が見えてきた。泉の底には、緑色の塗料で複雑な魔法陣が描かれたドーム状の岩があった。
アーシュラはそれを握り拳でこつこつと叩き、両手を当てると「砕」とつぶやいた。
ドームがいくつもにひび割れて瓦解する。グレタとマルクは青くなって叫んだ。
「君たち、焦るな。このドームは本来、ないはずのものなんだ」
「でも、魔法陣が描かれていたではありませんか!」
「それが問題なんだよ。よく見ろ」
アーシュラは二人に岩のかけらを放り投げる。グレタはそれを見て首をかしげる。マルクも首をかしげつつ、魔法陣の文字を指先で何気なくこすった。
「魔法陣が消えた!」
マルクは慌てて自分の指先を見る。指先には緑色の塗料がべっとりとついていた。いや、それは塗料ではなかった。
「グレタ先輩、これって塗料ではありませんよ」
言われてグレタも魔法陣の切れ端をこする。指にぬるっとした緑色のものがくっつく。
「これ、もしかして、藻類ではありませんの?」
するとアーシュラはぱちぱちと手を叩いた。
「そのとおり。ではどうして、藻が魔法陣を描く?」
「アーシュラがそういう品種改良をしたのではなくて?」
「そんな危ないことをやるように見えるのかね」
アーシュラの言葉に二人ともうなずき、スライムも身を震わせて「思う」と声を発する。
「君たち、私がそんな非常識で特殊な人間に見えるのか?」
「アーシュラのことはすごい大魔導師だと思っているよ」
マルクが生暖かい視線で答える。アーシュラはぷるっと肩をふるわせて言う。
「あの、マルク。私のこと、その、尊敬を抜くと、なんというか。一緒にいると迷惑とか」
「常識は足りないけれど、アーシュラと一緒にいるのは楽しいよ」
アーシュラは青い顔になったのに、すぐにでれんとした表情になる。するとスライムが笑い声をあげた。
「大魔導師殿も、我々のように青くなったり赤くなったりするのだな」
「一緒にするな!」
アーシュラも散々である。ついで取り繕うように咳払いする。するとマルクは泉の底をじっと見つめ、声をあげた。
「藻の魔法陣って、さっき散々ファイアスライム相手に訓練した炎の魔法陣に似ているね。あと、アーシュラが昔に仕込んだ炎の魔法陣、難しくて読めないけれど、それを歪めたような」
「はい、正解。温泉の成分が固まってドームができた。さらに藻が魔法陣の熱源に沿って生えて魔法陣を形づくったんだ。ただ、直接の魔法陣上だと暑すぎるから歪んで生えたというわけだ」
アーシュラはぱちぱちと手をたたいた。マルクはほめられて照れた顔をする。だが、ここでアーシュラは悪い笑みを浮かべた。
「そこでみんなに申し訳ないんだが、藻の魔法陣を徹底的に消したあと、同じことにならんように煉丹術でつくった除草剤を塗っていってもらう。魔術や煉丹術の影響を受けると困るので、魔法抜きで人力でやるぞ」
「……そこで、このスコップたちの活躍ってこと?」
「そういうこと」
アーシュラは腕まくりをして、ボトムスも膝までまくりあげる。マルクは苦笑しつつ、率先してスコップを手にした。グレタはげんなりとした顔をしてスコップをじっと見つめている。
するとエンペラースライムが小さく笑った。
「そこの娘にやらせるのは難しいんじゃないかのー。同族の匂いがするのん」
「……親戚にスライムはおりませんわよ?」
「いやー、わしと同じ立場というか強さというかだなー」
「さすがエンペラー。グレタがロマナ帝国皇女だとわかるものか」
「なんとなーくわかるのー。わしほら、威厳もあるし育ちも良いからの」
ぷるるん、とスライムが体を揺すってみせる。
マルクはそれを見て小さく笑い、アーシュラに耳打ちした。アーシュラはすぐにふきだす。
「何ですの? いったい何をおっしゃいましたの?」
「いや、君の頰はスライムのようにぷるぷるすべすべだなと」
「失礼ですわ! マルク貴方、アーシュラの影響を受け過ぎですわ!」
「こら何で私の影響になるんだ!」
二人の女性に挟まれて小さくなるマルクと、それをまた笑うエンペラースライム。
なかなか、彼らの清掃開始は始まらない。
三人とスライムが笑い飽きたのち、グレタも含めた三人で地味な清掃活動が完了した。はがした汚れは全てきれいにエンペラースライムが食べてしまった。
完全に清掃が終わったあと、アーシュラは泉の底全体に除草剤を振りまいた。続けてエンペラースライムが底全体に薄く広がったり転がり回ったりして、丹念に除草剤を塗り込んでいく。
「スライムは召喚獣にも使えるものですの?」
「あのスライムは特殊だぞ。エンペラーを名乗っているだけあって自尊心も高いからな。仔竜ぐらいには勝てる奴だが、君がそれ以上の実力があれば従えることも無理ではないぞ」
「……小さいスライム狩りで満足しておきますわ」
最近、無理を理解し始めたグレタである。アーシュラは全員に陸へ上がるよう指示し、一人だけ泉の中心に残った。
アーシュラは右足のみで立ち、くいっとあごをひくと高い声で歌い始めた。
その調べは、浜辺に寄せる波のようで。
その言葉は、二人の聞いたこともない言語で。
その声音は、甘えてしまいたくなるのに、どこか寂しい音で。
「神樹……」
マルクはぽつりと呟き、泉に向かおうとした。グレタはあわててマルクの腕を引き留めた。
「マルク、どうしたのですか?」
マルクは目を泳がせ、唇を噛んで答えた。
「僕の国には、神樹があるんです。神樹が一本だけある孤島があって、神々しいんですけど」
「素敵そうですわね」
うん、とマルクはうなずいてアーシュラをじっと見つめる。
「でも、寂しそうなんです。それに、アーシュラが似ている気がして。木になって帰って来なかったらって」
グレタは優しく笑って答えた。
「それなら、ここで貴方は待っているべきですわ。貴方がいれば彼女は絶対に帰って来ますもの」
「そう、でしょうか」
グレタはまた小さく笑い、二人の道のりの長さに優しいため息をついた。




