柿が眺めた時間
扉が開くと、天井は漆黒なのに、ガラスのように平滑な半円のトンネルになっている。床も継目なく平らだが、滑らないよう規則的な凹凸があった。そしてその床はほんのりと青い光を発しているのだ。
「ようこそ、統魔学第二研究室へ」
先頭に立ったアーシュラが、反転して二人に向き直って両手を広げた。グレタは体を小さく震わせる。
「本当に、第二研究室が、あった」
「何か有名なんですか?」
マルクの問いに、グレタは眉をひそめて答えた。
「ロマナ帝国の禁書に残っているのですが、魔法学園には秘匿された研究施設がいくつもあると言われています。そのうち、魔法学部については当然、帝国が支援しておりますので把握しておりますし、煉丹学部の方もほぼ、帝国諜報員が把握しておりますわ。でも」
言葉を切ってアーシュラをじっと見つめる。だがアーシュラは愉快そうに微笑んだままだ。
「統魔学部の機密研究室はその数も存在も、帝国では一つも実態は把握できておりません。ただ、第二研究室は煉魔法学のエネルギー抽出と関係が深い、ということのみ伝わっていたのです」
アーシュラはにまあ、とまた怪しい笑みを浮かべる。
「第二研究室以降は何人かの弟子にしか存在を教えなかったからな。そして魔泉の関係上、ここは初代魔法学部長に預けたんだが、あいつは結局、煉丹術が苦手でね」
アーシュラは少し寂しそうに天井を仰ぐ。
「ガンダルよりは優秀だった」
「ガンダル学部長は、魔法陣の効率化などでご高名ですわ」
「初代は効率無視で力任せにぶん回す奴だったよ。あと、少し姑息なところはガンダルに似ている」
アーシュラの言葉にグレタは再び声をかけようとしたが、マルクがそっとアーシュラの肩に手を置いた。そしてアーシュラの籠を引っ張って明るい声で言う。
「アーシュラ、ちょっとお腹空いたよ。僕には煉丹術を使いすぎだよ」
アーシュラは慌てて背中を向けて答える。
「そうだ、私もお腹が空いたと思ったんだ。お昼にしようか」
このときようやく、アーシュラの声が小さく震え、床に小さく水滴が落ちていることにグレタは気づいた。
「サーモンサンドマフィン、なのだっ!」
三人は床に腰を下ろし、アーシュラから紙包みを受け取る。包装紙は薄桃色の水玉模様が描かれており、紙をほどくと、中には湯気を立てたマフィンがあった。マフィンはスモークサーモンとレタスをサンドしており、黄色味の強いマヨネーズも入っている。
「アーシュラ、まだ熱々ですよ」
「まだ、ではなく今、熱々なんだよ」
アーシュラが胸を張り、グレタは包み紙を子細に確認した。
「この包装紙にある模様、魔法陣ではありませんか?」
「ほう? 読めるか?」
グレタは懐からレンズを取り出して水玉を拡大して読み、うなる。
「水を召喚する初歩の魔法陣と、炎を召喚する初歩の魔法陣がたくさんあって、それらが連なって新たな魔法陣になっておりますわね。封印の魔法陣、ですわ」
「ほう、そこまで読んだか?」
次いでアーシュラは紙を指先でちぎり、その繊維をレンズで拡大して観察する。
「紙だと思っておりましたけれど、織物ですわね。紙のように見える布ですわ。織目が妙に複雑、いえ、一定方向を示している?」
「ほう、そこも気づいたか?」
マルクとグレタは顔を見合わせる。そしてグレタは胸を張って言った。
「魔法陣でごくごく小さな魔法を召喚して、それを布に封印。織物の織目は煉丹術の相生相剋のベクトル。つまり封印された魔力がベクトルのとおりに循環して、保熱と保水を同時に成立させる?」
「グレタ、小テスト二問目正解」
今さらながらグレタはぐたっと座り込み、マルクは目を丸くして包装紙を見つめ、だがすぐに諦めたように手放した。
「まだマルクには無理だな。これから色々と基礎を勉強しないと」
「そうですわ。こんなのマルクに読み解かれたら、留学前に勉強の虫だった私がかわいそうですわ」
「勉強の、虫? 蝗害のような虫ではないのかね」
「アーシュラは私に何か恨みでもありますの?」
ぷうっと膨れたグレタに、アーシュラは苦笑して籠からもう一つ何かを取り出す。
「悪かった。これはテストなしのデザートだから勘弁してくれ」
取り出した果実は角ばった形の柿だった、
「見慣れないフルーツですわね」
グレタは首をかしげたが、マルクは微笑んで受け取る。
「これは柿と言って、ジャポニナ諸島国の名産なんですよ」
「ロマナでは見たことがありませんわ」
「ちょっと特有の食べ心地なので、ほとんど国内でしか食べられていないはずなんですよ」
言ってマルクはアーシュラに視線を向けた。アーシュラは自慢げに胸を張って答える。
「実は魔法学園内にあるんだよ。私が学園を開いたとき、諸島国から取り寄せて植えたんだ。ただ、諸島国出身者がほとんどいないから、ちょっと珍しい木とだけされていたようだ」
アーシュラは、いったん渡した果実をグレタから取り戻して皿に置き、指先で弾く。するとアーシュラの指先から細い水流が出て八つ切りに割れた。
「柔らかい実だから切りやすい。上品には皮をむいて食べるのだが」
「「体に良いから皮もたべなさい」」
アーシュラとマルクの言葉が重なり、二人は笑い合う。
「今も諸島国では、私のときと同じことを言っているんだね」
「よく母に言われて食べていました。貴族様は食べないようですけれど、僕は庶民ですから」
「それは私も同じだよ」
アーシュラの微笑みに、グレタはふと寂しさをおぼえる。だから少しむきになって問いかけた。
「今のアーシュラは魔法学園校長、つまり我がロマナ帝国皇帝、紫電王国国王とも並ぶ重要人物ですわ。それも初代、すなわち伝説級ではありませんか」
「そうだね。そう位置付けられているね。そう振る舞えと言われたし、今もダナには言われるね」
だがアーシュラは、半端な答えを返す。そしてマルクとグレタの二人を見比べながら答えた。
「でも私はね、結局は庶民の生まれなんだ。君たち生粋の貴族のようには振る舞えない。そして莫大な魔力で、普通の庶民とも言えない。さらにこの年齢と頭脳だから、ね」
「アーシュラは」
マルクの言葉にアーシュラは目を泳がせる。
「百年を生きれば百歳の心を持つはずだ。だが肉体は心にも影響を与えるようでね。私は」
ここでアーシュラは咳払いをして両手を打った。
「グレタもマルクも、ここでの話は、その、ダナたちには秘密だぞ」
二人はうなずくと、柿を頬張った。グレタはは首を傾げ、そしてゆったりと微笑む。
「果汁感があまりないのに、なんでしょうこの甘さ。いえアーシュラ、余計な分析は不要ですわ。こういうものは味わうもの、感じるものでしてよ」
解説しようとしたアーシュラをグレタは押し留めた。そしてアーシュラの手の甲を優しく撫でて言った。
「アーシュラは、頭が良すぎますの。考えないようにしてみると、また世界が違いますわ」
「君、考えないで生きるとか」
「考えないことも幸せですわ」
言っていきなりアーシュラの背中を強く押す。急に押されたアーシュラはマルクの胸につんのめった。
「マルクさん!」
マルクは慌ててアーシュラを受け止めつつ、グレタに抗議の声を発する。だがアーシュラはマルクの腕の中で固まったままだ。
(私、今、考えていないや)
内心思い、マルクの顔を仰ぎ見る。何か考えようとしたけれど頭に何かブレーキがかかって動かない。しびれた感覚がどこか心地いい。
アーシュラはこっそり笑って、そのままマルクが慌てて引き離すまで、彼の胸に頭を預けていた。




