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温泉に行こう

「魔泉が止まった、じゃと」

 ガンダル魔法学部長は事務官の急報に杖を取り落としかけた。

 魔法学園創立以来、絶えることなく湧き続けてきた温泉で、代々の魔法学部長が管理している。魔力を帯びているため煉丹学部や統魔学部も利用しているが、主に魔法学部の各種魔術実験に多用されており、魔法学部の生命線といって良い重要な泉だ。

 ガンダルは頭を抱えて状況を整理する。

 何より、この温泉は校長が初代学部長に管理委任した施設だ。先代や先々代のように校長がいない時代であれば色々と責任問題があっても政治力やら何やら、逃げ道はあった。だが今はなぜか校長が復活している。おまけに煉丹学部長の話によれば、襲撃した際に魂に何かを刻まれたらしく逆らえないようにされているらしい。

 何よりあの校長は化物としか言いようがない。ロマナ帝国皇太女も人外の域だし、魔法学部長といえば諸国からは人外と思われているようだ。

 だが、あれはそういう領域ですらない。邪龍を討伐した英雄だと言われているが、あれはそんな程度の存在ではない。そもそも世界の法則の埒外にある何かだ。自分や自分の部下の過失であれば何をされるかわからない。先日もちょっかいをかけた煉丹学部長が唐辛子を山盛り食わされて気絶したとか意味不明な話もあるほどだ。

「ガンダル学部長、校長代理から連絡が来ていますが」

 ガンダルは肩をふるわせて事務官を振り返る。ガンダルは事務官が捧げ持っている宝玉をおそるおそる覗き込んだ。するとそこにはダナ校長代理の姿があった。

「ガンダル学部長、すみませんがちょっと、魔泉の調整を行うことになりました。何か作業を初めているようです」

「調整、じゃと?」

「よくわかりませんが、校長が調整すると言っています。魔力の純度が下がっているとかで、何かやるみたいです」

「なんじゃその何かとは」

「面倒臭いので資料を見てください」

 宝玉から光の粒が柱状に広がり、文書が落ちてくる。ガンダルは受け止めて目を通しかけた。一頁目は魔力の由来や純度について厄介な議論が書かれていたが、さすがに魔法学部長なのでそこは読みこなす。だが、頁をめくると凄まじい数式の洪水に頭がぐらぐらする。

「なんじゃ、これは」

「校長先生曰く、魔泉の設計資料だそうですよ。私も解読しているところですが、魔法学の定義が厳密すぎてちょっと苦手です」

「わしは二頁目以降の論理演算が何をやっているのかさっぱりわからん。これは統魔学なのか? わしの学生時代には、こんな統魔学は習わなかったぞ。お前は今、こんな研究もやっとるのか」

「校長先生曰く、これが真の統魔学だそうですよ。まさか校長代理になってから莫大な勉強をする羽目になるとは思っておりませんでした」

 魔力のみならず頭のつくりも人外だと、ガンダルは独り愚痴を呟く。ただ、作業を開始しているということは。

「もしかして今、魔泉が止まったのは校長の仕業か?」

「そろそろ止まっている頃ですね。そちらでも把握されているのですか」

「それは当然、管理者じゃからな!」

 先ほど焦っていたことはおくびにも出さず胸を張って見せる。ダナはほう、と言って笑顔でうなずいた。

 ガンダルはダナを見つめながら、あの人外が復活した今はこいつと仲良くしておこうと考えていた。


 さて一方、アーシュラとマルク、グレタの三人は学園島の北部にある洞窟の前に立っていた。グレタは正規の魔術師のマントを羽織って編上靴を履いている。そしてアーシュラは動きやすいカジュアルパンツを履いてジャケットを羽織り、手には藤かごの弁当箱を提げていた。

 マルクは魔術師を基礎にした学校の制服を着て携帯型スコップを背中に背負い、手にはツルハシを握っていた。もちろん一本はアーシュラが持つと言ったのだが、これは僕の仕事だと一人で持ってきたところだ。

 マルク自身は男子だからという、大して細かいことを考えずにやっていることなのだが、こういう一つ一つで胸の想いが揺れてしまう辺り、アーシュラの恋患いは重症だ。そしてそんな二人を眺めるのが面白いと思っているグレタもまた、違う意味で重症だ。

 アーシュラは空中に魔法杖で扉を描いて開く動作を行う。すると空中にダナの姿が現れた。

「校長先生、ご依頼のとおりガンダル学部長に連絡いたしました」

「ご苦労。何と言っていた?」

「今、魔泉が止まったのはこちらの作業結果かと確認されました」

 アーシュラはダナの言葉に溜息をつくと、不機嫌に言葉を返した。

「ガンダルは戻ったらお尻ペンペンだな。こっちは先週から前準備で魔力純度や波形を調整し始めていたのに、今まで気づかないのか」

「たぶん普通、そこまで気付きませんよ。さすがに魔法学部長も忙しいですし齢ですし」

「そんなに高齢だったか」

「それは校長先生の年齢について今、お話」

 アーシュラはダナの台詞に慌てて割り込む。

「まあ年齢による影響など人それぞれだ! ただ監視業務がわからないというなら、今回ばかりは教育だけで済ましてやるよ。基礎から丁寧に教えてやろう」

「……そうですか。お疲れ様です」

 ダナはその「丁寧な教育」自体がお尻ペンペン並みの特別強化合宿講義になるんだろうと思いつつ、まあ魔法学部長も嫌いな奴だし知るか、ということで擁護することなく通信を切った。

 アーシュラは魔法の扉を閉じると二人に声をかけた。

「みんな、そういうことで調整開始するから、洞窟に入るよ」

「道具から変だなとは思っていましたが、本当にこの洞窟なんですね。何できちんとした施設ではないのですか」

 マルクの当然な質問に、アーシュラはうなずいて答える。

「まず『魔泉』という響きに奇妙さを感じないか? きちんとした施設に『泉』とつけないだろう」

 するとグレタが挙手して続ける。

「つまり完全な人工物ではなく、天然物だということでしょうか」

「半分正解かな。魔力を帯びた温泉がこの地下から湧いているんだ。ただ安定性が悪くて色々と変化するから、お手軽に使えるようにちょちょいと仕掛けをしているわけだ。だからその湧き口は天然ってことだよ」

 なるほど、とマルクは言いつつ首を傾げる。アーシュラは苦笑しつつ笑った。

「まあ、理屈はどうあれ今はまず、現場を見に行こう。中は半分天然の洞窟だから、ちょっとした冒険気分だぞ」

「冒険気分にしてはアーシュラの服装も持ち物も、ピクニックっぽいけれど」

「ここここれはほら、私ぐらいの大魔導師になれば龍の棲家でもない限りピクニックみたいなもんだということさ」

 アーシュラは言い訳してそっと汗を拭く。実は今日もちょっとしたデートに一人余計なオマケつきぐらいの気分なのだが、そんなことを直接口に出してしまう勇気はない。

 そして、そんなアーシュラの気持ちを見透かしている変人皇女は、児童並みの恋愛能力しかないこの二人を、生暖かい視線で見つめていたのだった。


 洞窟に入ると、マルクは光の魔法を唱える。青みがかった光が灯り、アーシュラは色の調整を助言した。

「どうしても僕、青に寄ってしまうんですよ」

「私は少し赤みに寄ってしまいますわ」

 二人の言葉にアーシュラはうなずいて答える。

「グレタは皇女として、子どもの頃はさすがに女の子らしく育てられたんだろうな」

「それが、何か関係ありまして?」

「女子というと赤色をよく使うだろう? 無意識に生活で馴染んだ色に寄ってしまうんだよ。これは誰もがだ」

 言ってアーシュラは目を閉じて光玉を浮かべる。その光はほぼ純白に見えるが、注意深く見ると青寄りだ。

「私でも若干の偏りがでてしまう。これはどうにもならないんだ。当然、私もマルクも同じ青になるのさ」

「当然、ですか」

 アーシュラは頰をかいて懐かしそうに答える。

「もうずっと、ジャポニナの潮の香りは嗅いでいないというのにね」

「この魔法学園島も海に囲まれておりますのに?」

 グレタの言葉に、アーシュラは苦笑してマルクに視線を向ける。

「ジャポニナは今でも荒々しい海なのかい? 冬には波の泡が凍るような。夏には生い茂る昆布で海が緑に変わるような、そんな海はまだ残っているかい?」

 アーシュラの言葉にマルクは大きくうなずいて微笑んだ。

「帰省するとき、アーシュラも一緒に国に来たらどうかな。その、アーシュラの、知っている人はもう、いないかもしれないけれど」

 マルクの言葉にアーシュラはずきりと胸が痛んだ。

 いつもなら、マルクのお誘いだとはしゃぐはずなのに。

 昔なら、離別した故郷だと顔を背けたはずなのに。

 こんな地中で、なぜこんなにあの海が懐かしいのだろう。

 弱くなったなと思う。

 論理的ではないと不安になる。

 でもその変化はきっと、マルクとのつながりのおかげで。きっと、大魔導師に至るために失っていた何かで。

「そうだね。私も久しぶりに見たくなったよ。ジャポニナの海岸に立ちたいさ」

 言ってアーシュラは自分の頰を叩くと咳払いして前を向いた。

「魔泉の調査に出発再開だ!」

 急に態度を変えたアーシュラに、二人は優しい笑い声で答えた。

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