皇太女殿下は乙女
あとは雑談という名の腹の探り合いを再開しようとしたところ、部屋をノックする音が聞こえた。途端にダナが飛び跳ねるように扉へ向かい、相手を確認して扉を開けた。
開けた扉からは魔法学部長と、彼に従うように一人の男子学生が入ってくる。するとクリスティーナの目が大きく見開かれ、男子学生へ釘付けとなった。
「クリスティーナ皇太女殿下、ご機嫌麗しゅうございます。我が魔法学園魔法学部には格別のお取り計らい、まことにありがとうございます」
魔法学部長は慇懃に礼の言葉を発する。クリスティーナはようやく視線を学部長に向けて答えた。
「ガンダル先生、私も魔法学部の卒業生ですから、それほどかしこまらなくてもよろしいですわ。お久しぶりにお会いでき、こちらこそ光栄ですわ」
(皇太女殿下の卒業研究は学部長が一部指導していたそうで、彼女は魔法学部最大のスポンサーです。)
ダナの素早い耳打ちにアーシュラは小さくうなずく。しかし伴ってきた学生は何なのか。
「では殿下、このたびは各種支援のおかげで一つ、面白い研究成果を得ましたのでお目汚しをば」
学部長は言って背後の学生に合図を送る。すると学生は皇太女殿下の前に一枚のハンカチを広げた。そのハンカチには複雑な魔法陣が描かれている。次いで学生は胸ポケットから一本の小瓶を取り出し、その中身を数滴、魔法陣の中心に落とす。その滴からはほんのりとバラの香りが漂う。そして学生は両手を魔法陣に添えると小さな声で呪文を唱えた。
魔法陣から、緑色のガラス細工が伸び、枝葉をつけていく。その分かれた枝葉の先にはつぼみができ、そしてそれらが紅、桃、白と鮮やかなガラスのバラを咲かせた。そしてそのガラス細工のバラからは先ほどの滴よりはるかに強い香りが漂うのだ。
学生はそのうち、最も枝振りの良い一輪を手折って皇太女殿下に捧げた。
「まだ学生の身分ですので、このようなものしか贈れませんが」
「そんなことはありませんわ! こんな美しく気高い魔法の贈り物、このクリスティーナ、感嘆いたしました」
言って学生の手をぎゅっと握る。瞳はうるみ、ちょっと口元にもしまりがない。と、彼女ははっと我にかえって周囲を見回すと、慌てて姿勢を整えて贈られたガラスのバラを名残惜しそうに従者へ預ける。
「ガンダル先生はずるいですわ。前触れもなしにエミルを連れて来るだなんて」
「せっかくですから、お預かりした彼の成長を見ていただきたいと思いましてな」
皇太女殿下は優しく、だがちょっと緩みのある紅潮した顔で呼びかけた。
「エミル、しっかり勉強されているのですね。貴方は芸術の才能もありますし、こういう魔法が似合うのかしら」
「たしかにそうですが、私も殿下に少しでも追いつけるよう攻撃魔法も剣術も日々、鍛錬しております。万が一のときは、貴女をお守りできるように」
「万が一なんて私が起こさせませんわ! でもその言葉、とても喜ばしいですわ」
皇太女殿下は満面の笑みで答え、そして名残惜しそうに視線をまたガンダル学部長に戻した。
「実用性ばかりではなく、芸術を磨く魔法も素晴らしいと思いますので、出資金はそちらへもご使用なさって結構ですわよ。額も国に戻りましたら再検討しましょう」
「ありがたいお言葉、いたみいります」
ガンダル学部長は揉み手をしながら頭を下げ、そしてエミルを伴って部屋を出て行った。
扉が閉まると、再び皇太女殿下は氷の表情に戻ってアーシュラと向かい合う。
「ずいぶんと学生には優しいのだな、皇太女殿下は」
「それは、彼が私の婚約者だからですわ」
「君より年下に見えるが」
アーシュラの言葉に皇太女殿下は目を吊り上げた。
「恐れ多いとは思いますけれど、それ、貴女が言いますの? たしかに帝室の習わしの問題はありますけれど、貴女がそれを言いますの?」
アーシュラは慌てて口に手を当てる。皇太女殿下は言葉を続けた。
「彼は幼い頃、遊戯相手として紹介されましたの。そして縁あって婚約者ですが、私、もし皇帝陛下の反対があっても縁をつなぎましたわ。幼い頃からの想い人ですもの。どこかの目覚めて即惚れた魔導師とは違いますの」
「なんだと! 私だって彼が、私のことを守ろうとしてくれて、もうこの想いは本物だ!」
叫んでアーシュラは慌ててまた口をつぐむ。だが皇太女殿下は意地悪さのない優しい視線で答えた。
「ほら、大魔導師様でもお怒りになるでしょう。まして私、ロマナ帝国第一皇女と言っても、しょせんは世に言う『優秀なお姫様』止まりですわ。お互い、こういうことは小馬鹿にするものではありませんの」
「そ、そうだな。先ほどは口が滑った」
「よろしいですわ。むしろ私、大魔導師様と一つ、価値観を共有できそうなので安心しましたの。『人の恋を邪魔する奴は世界ごと滅ぼしてしまえ』そう思いませんこと?」
「なるほど良い言葉だ。全く同感だな」
二人は各々宙を見上げて想い人の笑顔を思い浮かべる。
「けけけけけ」「おほほほほほ」
最初に会ったときと同じように笑い合う。しかしその声には二人とも感情が込められた同志の笑い声だ。その、普通なら微笑ましい乙女二人の笑い声にその場の残り全員は背筋が寒くなった。
(この二人の想い人に何かしたら、世界が滅ぼされる。)
こうして、凶悪な非公式の恋愛同盟が、この場にできあがったのだった。
会談後、アーシュラは校長室で着替えるとそのまま学生談話室に向かった。そこではマルクが一人で課題を勉強しているところだった。アーシュラはマルクの向かいに座ってぐでん、と机に顔をつけて言った。
「つーかーれーたー」
「お疲れ様です。やはり第一皇女殿下となると、大変なんだね」
「グレタのように気軽に付き合える皇女なんて、封印前の記憶でも一人もおらんわ。あとグレタはまあ、在学継続が決定だ。むしろ帰省もできないようだぞ」
「僕たちには良い知らせですが、おめでとうございますと言ったら怒られそうだよね」
「むしろ本気でせいせいしたとか思っていそうで、それはそれで問題だがな。ただお灸も効いたようだぞ」
「何かあったんですか」
アーシュラは黙って首を振って答えない。さすがに婚約破棄の件は勝手に言える話ではない。さっきも人の恋路に、と皇太女殿下と言い合ったばかりなのだ。
あらためてマルクを見つめる。さっきの疲れた、の勢いで隣に座ればよかったかな。いやそれは不自然だし。
政治の交渉術よりずっとずっと、恋路の選択は難しい。
だって脅迫なんて効かないんだし。
嫌な気持ちになんてさせたくないし。
だって大切な人なんだから。
大切な人だから。
大切すぎて、この人差し指ほどの距離を縮められない。
このもどかしい想いをどうしてくれよう。
「ほんと、アーシュラお疲れ様」
マルクは言って、鞄から小さな包みを取り出した。
「母さんの真似をしてクッキーを焼いてみたんだけれど、ちょっと失敗したのも混じっていてごめんね」
「マルクの、手作り?」
「なんか今日は大変だって、グレタ先輩が言っていたから」
アーシュラは受け取ってそっと包みをほどく。中には干果物を使ったクッキーが入っており、いくつかは焦げていた。店で売れるものではない、つまり本当にマルクの手製だ。
一つつまんで口に入れる。さくり、とした食感と混ぜられたベリーの甘味が口に広がる。
幸せが口の中に広がる。
この小さな幸せは手放せない。
他の人になんて渡せない。
ふと、先ほどの皇太女殿下が、ガラスのバラを従者へ預けたときの気持ちが痛いほど理解できた。
「ねえマルク。君は本当に、私の救いだよ」
「大げさだよ。でも食べてもらえてよかった」
アーシュラはまた一つ、クッキーを大切に取り出してゆっくりと口に運んだ。




