走れお布団
「私は悪くない。百年間の弟子どもが悪い。あと校長代理は鍛え直すから大丈夫」
授業終了後の阿鼻叫喚から逃げ出したアーシュラは、ダナの嫌味に堂々と反論する。
「そうおっしゃいますけれど、百年前もやり過ぎとか言われたことはなかったんですか? 校長先生」
わざとらしく「校長先生」を強調するダナに、アーシュラは反論せず視線を逸らしてマルクを手招きした。
「マルクはきちんと復習していて偉いな。今日は事前に教えていない範囲もあったがほとんど解けたし」
「まだまだです、僕は。グレタ先輩は全問正解ですから」
ダナは内心冷や汗をかいた。もちろん解いてみて全問正解できたが、自身がグレタと同い年のときなら確実に満点は無理だった。
(アーシュラの教育を別としても、この二人はやけに優秀なのよね。)
グレタより上級生の研究生たちは、おそらくグレタより基礎力は低い。そしてあの異様な計算地獄に耐えられるか分からない。
運命というものがあるのかもしれない。
実際、百年間封印されていたアーシュラが、薄い血縁のマルクの偶然で解放されるなど、運命としか思えない。
(間違っても本人には言わないけど。)
言ったが最後、マルクは運命の人だと長い妄想入りののろけ話が始まるのは目に見えている。
アーシュラはのびをして立ち上がると、わくわくした顔で言った。
「とにかく私のノルマは終わった。早く自由時間を楽しみたいぞ」
屋外実習の宿泊は二つのコースが選べる。一つは民宿への宿泊。もう一つは学園貸与のテント宿泊だ。騎士の家柄や将来の冒険者を目指す者は敢えてテント宿泊を選ぶことが多い。
また強さへの憧れもあるからか、男子はテント宿泊を選ぶ傾向にある。女子の上流階級は基本的に民宿だが、民宿より立派な巨大なテントというとんでもない大貴族や、女子会と称して集団でテントを選ぶ子もいる。
そしてマルクは宿泊費を浮かせるため、当然にテントを選んでいた。そうなればもちろん、アーシュラもテントだ。そして、あともう一人の皇女様は。
「キャァァァア! 魔物だわ魔物!」
細い木製の脚を数十本生やした天蓋付きベッドがウザウゾと脚を動かしてグレタの前に走り寄ってくる。
「私の自走寝台もやってきたので安心ですわ」
学生はもちろん教師もあぜんとする中、グレタは怪しげな天蓋付きベッドを呼びつけて撫でながらノートを広げて計算式と論理式を見せびらかした。
「先ほどの演習でも計算したではありませんか。強大な力を誇る魔法のゴーレムを、精細な命令をこなせる煉丹術の式神で制御すれば可能ですわ」
マルクはグレタの演算結果を読み進めたが、四分の一ほど確認して挫折し呟く。
「グレタ先輩には届かないよ」
アーシュラはくふふっと笑いつつ、自走寝台を興味深そうに眺めながらマルクを励ました。
「新入生に負けたらグレタの面目もなかろうが」
だが魔法学と煉丹学の学生たちはもはや数式を見る気すら起きていない。女子学生は、その蠢く虫のような脚を見て血の気がひいている。さらに煉丹学の数式化で挫折していた男子貴族は脚と数式を見比べて変な笑い声をあげてぶつぶつと呟く。
「統魔学コワイ統魔学コワイ統魔学コワイ統魔学コワイ」
そんな彼らを置いてきぼりに、アーシュラはグレタの論理式に手を加え、さらにそのとおりに自走寝台の脇に描かれていた魔法陣を書き換えた。とたんに脚が消え、代わりに沢山の球体が寝台裏に埋め込まれた構造に変わる。
「この球が各々動く。これなら方向転換も多少の凹凸も対応できるだろう。あと魔力消費も脚を動かすより小さい」
「あと、見た目が良いね。グレタ先輩のは、ちょっと虫みたいだから」
マルクに褒められてアーシュラはでれんとした顔になって胸の前に腕を組みぴょいぴょいと飛び跳ねた。
「さすがですわ。私もまだまだ勉強が必要ですわね」
語り合う統魔学部生を遠巻きする他学部生たち。そしてさらに遠くでそれを見ていたダナは、また胃の辺りを抑えて投げやりに遠くへ視線を投げた。
「マルクの手料理……」
アーシュラは皿を手にして泣きそうである。テント組の夕食は各自が調理して食べることになっており、食材は学園が用意している。これもテント組の楽しみの一つだ。
そこで今回、マルクは学部の最下級生ということで料理を振る舞うことにしたのだ。ちなみにグレタは最初からマルクかアーシュラに作ってもらう気でいたという、やはりちゃっかり皇女様である。
「僕も大したものは作れないので」
言いつつ皿に鶏のローストと野菜炒めを盛り、さらに薄い汁をかける。その汁はほんのりとした褐色で、少しだけ臭みのある汁だった。グレタは少し眉をひそめて口に入れ、首を傾げる。だがそれでも何度か口に運ぶ。
アーシュラは汁を飲んで目を閉じた。鶏肉を食べて目を抑える。野菜を食べて空を仰ぐ。
「実家から持ってきた調味料だから、ちょっと慣れない味かもしれないけれど」
「慣れない、ものか。忘れるものか。もう、食べることはないかもしれないと思っていたのに」
アーシュラは言って、甘えた表情をマルクに向ける。ごめん、と呟いて額をマルクの肩に押しつけた。
「ジャポニナの魚醤だね。懐かしいよ。母や父はもちろん、マルケスもその子どもたちすらいなくなった、ジャポニナの郷土の味だ」
グレタは汁をそっと飲んで沈黙を守る。視線をマルクに向ける。マルクは少しだけ迷い、そっとアーシュラの頭を撫でた。アーシュラはぴくりと肩を震わせ、だがそのまま顔をあげずにいる。
「ねえアーシュラ。勇者マルケスはとっくにいないけれど、一応は血筋の僕はいるよ。他にもアーシュラの頃の人たちの子孫はきっといる。そしてアーシュラはジャポニナ諸島国の英雄以上の存在でしょ」
「英雄以上になんて、なりたかったわけじゃない」
ぽつりと言って少し顔をあげる。吸い込まれそうなほど黒い瞳には、大魔導師とは思えない幼い光が宿っていた。
「自分で言うのもなんだが、私は最も優秀な研究者だ」
マルクは黙ってうなずく。アーシュラは続けた。
「でも私は、なんというか、不器用なんだ」
マルクはゆっくりと首をかしげ、そっとアーシュラの頭を撫でた。
「違うな。私は不格好なんだ。いびつで視野が狭くて、でも何ていうか」
いやいやをするアーシュラの頭を、マルクはぎこちなくまた撫でた。
「すまん、百年ぶりのホームシックだ」
いきなりアーシュラは顔をあげ、満面の笑みを浮かべた。急な変化に二人とも戸惑う。アーシュラはてへへ、と笑うと涙を人差し指で拭って言った。
「私はもしかしたら、マルクと出会うために生まれた気がするよ」
「そんな、大げさですよ」
「大げさじゃないよ。マルクと会えた今、本当に幸せだ。魔法も煉丹術もなくて良いさ。今は」
言いかけてアーシュラは、あっ、と小さく叫んで真っ赤になる。ぐるりと二人に背を向けて早口で言った。
「マルクの料理が懐かしかったからだ。マルクの料理はおふくろの味というやつか」
「まさか、僕がお母さんだなんて」
ついにグレタがふきだす。そして残り二人も一緒になって笑った。
その日は夜に寝るまで、三人とも穏やかな気持ちでゆったりと何気ないことを語り合った。




