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大魔導師のレベル違い

「ぎりぎりになって申し訳ない」

 アーシュラは宿泊研修の原稿を脇に抱え、庶務課の印刷係に飛び込んだ。事務官は気軽な調子で受け取って中身を確認する。

「もうぎりぎりなんで、校正抜きで印刷しちゃいますよ? 誤植はちびっ子先生の責任ってことで」

 事務官はへらへらと笑って印刷用魔法陣を設定し始める。アーシュラはちびっ子先生という呼び方に少し感じるものがあったが、今回は流すことにした。

 統魔学部の中では最近、アーシュラのことを「ちびっ子先生」と呼ぶ職員が多い。天才研究者ながら新入生だという触れ込みで見た目と年齢は一致と言っていること、そして「大魔導師アーシュラ」と分けるためだ。統魔学部で大魔導師アーシュラは神格化され気味なので、区別の結果としてちびっ子先生が定着しつつあるのだ。

 印刷しながら、事務官はふと妙なことに気づいた。例年より魔法と煉丹術に関係ない記述が多いうえ、やけに数式が多いのだ。だがもう時間がないし、誤植はちびっ子先生の責任で了承を受けているしと、事務官は流すことにした。


 マルクが宿泊研修の集合場所に着くと、アーシュラはリュックを背負い、さらに二つカバンを提げていた。

「僕も持つよ、アーシュラ」

「いや、これは教材だから教師が持たないと」

「つまり授業をやるんでしょ? 大丈夫、僕は貴族さんたちと違って田舎育ちだから」

 言ってマルクは少し強引に大きい方のカバンを引き取った。アーシュラは暖かい気持ちになって甘えることにする。ただ、アーシュラ自身は煉丹術の鍛錬のおかげで見た目よりはるかに体力はあるし、いよいよとなれば術で強化もできるから平気なのだが。

「それにしても、ダナ先生ももう少し手伝いの人をくれても良いと思うんですけど」

「何なのだろうね、教材はそんなに多くならないから大丈夫でしょうとか言っていたぞ?」

「もしかしてアーシュラ、作りすぎたんじゃない? なんか他の学部の人と話すと、僕が受けているアーシュラからの個人授業、ちょっと難しいような気がしているんだけど」

「そうかな。無理させていたか?」

「そんなことありませんよ。僕もなるべく魔法も煉丹術も身に付けたいし」

 やる気のある学生は好きだ。その学生が初恋相手となれば眩しすぎてたまらない。手の荷物は重いけれど気持ちは羽根が生えそうな勢いで軽く浮かれてしまう。そんなことを思ってアーシュラはにへらっと笑った。

 仲良し二人は仲良しで、さらに孤立した統魔学部にいるせいで自分たちのずれに未だ気づいていなかった。


 一泊二日の午前中は三学部の概論だった。ただしこれまでの百年の力関係で、統魔学の時間は宿泊所の説明などと併せてほんの少しの時間だけだ。ダナの講義中、統魔学の三人は揃ってひそひそ話していた。

「やはり軽く扱われていてどうかと思うな」

「どうせ普段は専門を勉強するのですから、概論はなくても構わないですわ。ねえマルク?」

 頬杖をついて身も蓋もないことを言うグレタにマルクは苦笑して答える。

「たしかにそうかもしれませんけど。というかグレタ先輩はなんで一年生の授業に混じっているんですか」

「だって宿泊研修って楽しくありません? 人との交流は素晴らしいですわ。それに今日のアーシュラの演習がどうなるか楽しみですの」

「私の演習が?」

 アーシュラは眉をひそめて聞き返す。グレタはにまにましながら言った。

「アーシュラの授業って、これまでの一般的な統魔学の授業よりレベルは高めですから」

 言われてアーシュラは首を傾げ、百年前とあまり変えていないのにな、と呟いた。


 午後はアーシュラの統魔学基礎演習と統魔分析演習になった。アーシュラたちがお待ちかねの屋外活動は二日目に集中してやる予定だ。

 三学部の全学生にテキストを配布し、アーシュラは百年前と同じ感覚で教壇に立った。これまでは臨時講師や授業助手で出来合いの授業を一部請け負う程度で、まともな授業はマルクとグレタにやっていただけだ。今回は百年ぶりに、本格的な講義を自前でやるのでアーシュラも気合を入れていた。

「じゃあ始めるよ。徹底的に基礎から鍛えていこう」

 言ってテキストを開かせる。マルクとグレタ以外の全員が息を呑んでうめき声をあげた。妙な反応に、後ろで休んでいたダナも一緒にテキストを開いて青くなる。最初の一ページは文で定義が書かれているが、そのあと五ページにわたってずっと数式で証明が書かれているのだ。

「いいか、統魔学は、魔法学と煉丹学を統合し運用する学問だ。その統合は、各学問を共通言語化することにある。すなわち両学問を全て数学に解体し、そして統合することが基礎だ」

 うんうんと素直にうなずくマルク。苦笑しながら他学部の反応を楽しむグレタ。

(ちょっと待って。これ四年生以上のレベルが混じっている……。)

 ダナは背筋が寒くなる。おかしな兆候はあった。ダナの研究について欠陥を指摘する際、師匠たちと異なって異様に数式にこだわる点。最近も助言と言ってさらさらと複雑な数式をもらっている。棚上げしてしまっていたが。

(まさか、百年前の統魔学って私たちの知っている合成術じゃ、ない?)

 ダナが慌ててテキストを読み進める間に、アーシュラの授業が進んでいく。まずは煉丹術を解説しているらしいが。

「全ての物質は原子、分子で構成されている。それらの結合力は分子間力等で計算でき……さらに時間軸を加え、人間の意思力、すなわち魂魄における魂と魄の結合力は統計熱力学に近似の……変数が多いので多変量解析になるが……」

 既に学生の三割が脱落しつつある。一応はエリート学園だけあってしがみついているが、勝手の違いに泣きそうになっている。

「さあて、ここまではごく簡単な煉丹術系の数式化だ。一回休憩して魔法学側も数式化するからな。魔法学はエネルギー論だから少し面倒くさいぞー」

 アーシュラはへらへらと笑って教壇を降りるとマルクの席に走っていこうとする。

「先生、ちょっと今の授業……」

 他学部の学生が捕まえようとしたが、上手くすり抜けてマルクの前に到着した。

「マルク、あっちで休憩しよう。今日はおさらいだから大丈夫だろ?」

「そうですね。お疲れ様です」

 二人は仲良く教室を後にする。やる気のある学生たちが教室の背後に目を向けた。そこに呆然として立つダナ。

「ダナ先生! 休憩中になんとか補講を!」

 ダナは泣きそうになりながらアーシュラのテキストを詳しく教える羽目になった。


 休憩後はさらに魔法学の数式化だ。これでさらにまた三割が脱落した。生き残った四割すらどこまで理解できているのか不安な表情だ。それなのにアーシュラはこれらの理論的結合に入る。また脱落者が出るだろう。

(統魔学が社会的な力を喪失した理由が今、わかった)

 ダナは独り呟く。これは無理だ。エリート校のこの学園ですら上位四割、いや下手をすると二割しかアーシュラの言う「基礎」すら修められない。そしてさらに複雑な魔法学と煉丹学の学問体系を全て数式化し統合し新たな体系を生み出せという。それがあの、初めて見た理解不能な黒龍なのだろうけれど、これは人外の学問だ。

 もちろん、ダナはこれまでの研究で読んだ研究書の蓄積でアーシュラの授業を普通に理解できるし、さらに上もできる自信はある。だが、これは到底半日で理解できる内容ではない。半年でも短いかもしれない。

 いやに最近、グレタの学力の伸びが凄まじいと思っていたが、この講義を叩き込まれていたとは。

「よーし、一通り具体的な計算はできるようになったはずだ。休憩後の分析学は、この基礎論をもとに、両学問の術を分析する手法をやるぞ」

 気づいていないのかそのまま休憩に入ろうとするアーシュラに、グレタが手を挙げた。

「アーシュラ先生、他学部の学生さんはうちの特別講義を受けていないので、きついと思いますわ。分析学は今回割愛して、基礎論の演習問題をもっとやってはいかがでしょう」

「おい、せっかく用意してきたのに」

「グレタ皇女、さすがです!」「変人皇女と言ってごめんなさい! 聖女様だ」「助かる! それなら頑張れる! 」

 口々に声をあげる学生たち。アーシュラは口を開けっぱなしにして全体を見回す。そしてマルクと目があった。マルクは苦笑しつつうなずく。ダナはここぞとアーシュラのそばに駆け寄って言った。

「分析学抜きでも、大魔導師様のレベルが高いので十分です」

 久々に聞いた大魔導師様という呼び方。アーシュラは溜息をつくと、学生たちの要求を受け入れた。この日以降、変人皇女の評判が「聖女成分入り」というさらに怪しげな評価になった。

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