絵 ー進むべき道はー
淡い紫色に染まった絵筆を置き、細く息を吐きながら首を回した。続いて肩を上下させてみるが、頭は重いままだった。
(今日はここまでにするか…)
日差しは黄みを帯び、軽い銀色のアルミサッシを熱しているようだった。窓から少し視線をずらし、先生の背中を見る。教卓の上に置かれた静物を描いている。鉛筆を動かす乾いた摩擦音だけが響く、放課後の美術室。
「先生。今日は、帰ります。ありがとうございました。」
「はい。さようなら。」
「失礼します。」
蒸し暑い帰り道をひとり歩く。あの油絵は、授業内では完成させられそうにないのだ。凝りすぎた。でもまあいい。絵を描くのは好きだから。それに放課後は、クラスのうるさい男子どももいないので集中できる。このペースでいけば、提出期限には間に合う。
絵は提出できた。気に入らないところもあるが、そんなことを言っていたら永久に終わらない。完成した、ということにする。クラスの人たちには、すごいと言われた。他に、結構うまいなと思う人もいたけど、まあ、このクラスでは私のが一番よかったと思う。他の人より時間も掛けたし。
明後日から夏休みだ。廊下で先生に呼び止められた。先生はいつもくたっとした白いワイシャツに、黒いベストを着ている。グレーのスラックス。普通の銀縁眼鏡。声が小さいので、この職員室前の廊下では周りの騒がしさに負けて、何を言っているのか聞き取るのに苦労する。
「君、うまいから。美術科に進んだら。実技試験があるけど、ちょっと練習すれば受かるよ。」
「え、いやぁ、はぁ…。」
「ちょっと考えておいて。夏休み、美術室開いてるから。」
「はい…。」
確かに、この大学付属高校なら、成績順で好きな学科に行ける。でも私は理系クラスだ。美大に行こうというのではないのだから、進路変更は今からでも可能かも知れないが、普通に理系の学科に進む。それに、絵でなんか食っていけるわけがない。
(嫌だな。美術部、合わなくて辞めたし。あのときと先生は替わったけど。デッサン嫌いだし。)
夏休みのちょうど真ん中の日、私は汗だくになりながら学校へ行った。靴箱が既に涼しく感じ、奥に進むほど快適になっていく。美術室に着く頃には、新たな汗は出なくなった。
私は美術室の後ろの扉を少し開け、中を覗いた。先生は今日も、教卓の上に置かれた静物を描いていた。生徒はいない。先生ひとりだった。
(練習って、どんなことをするんだろう…。)
私は、しばらく立ったまま、先生の背中と、カンバスを見ていた。
中に入る勇気がなかった。
(…絵でなんか、食っていけるわけない…)
私は美術室に背を向けて、また蒸し暑い帰り道をひとり歩いた。
後期の課題も油絵だった。前期は写真を見ながら夕暮れの川を描いたが、後期は自由に描けということだった。私は二股に分かれる道を描いた。進路をイメージした。片方の道の先には、暗い森を描いた。しかしその入り口には、美しく魅力的な蝶が舞う。
絵は学校代表として地域のコンクールか何かに出されたらしい。そして前期の絵は、美術室に飾られた。
卒業式の後、先生に挨拶に行った。先生に、これからも絵を好きでいてください、と言われた。
先生。
私は化学メーカーに勤めています。研究開発部です。大学では美術サークルで、油絵やアクリル画を描きました。美術科の友人や先輩もいて、刺激になりました。美術科の友人は、美術館にアルバイトとして入って、正社員になれて、キュレーターをやっています。先輩のひとりは、自動車メーカーで車のデザインに携わっているそうです。もうひとりの先輩は、小さなデザイン事務所に入ったと聞きました。そういえば、私が3年生のときに来た美術の新任の先生は、うちの高校の美術部出身でしたね。
先生。
先生は、毎年「謹賀新年」という文字と干支の絵が刻まれた、版画の年賀状を送ってくれますね。今もあの高校にいらっしゃるんでしょうか。今もあの美術室で、入り口に背を向けて、教卓の上の静物を描いているんでしょうか。
先生。
あの日、美術室に入ればよかった。視野が狭かった。何も、みんながみんな、絵で食っていかなきゃいけないわけじゃない。いろんな道があった。私はそれが分からなかった。絵を好きでいてもよかったんだって。
先生。
無性に絵が描きたくなるときがあります。
先生。
私はあの頃確かに、絵が好きだった。
今も、絵が好きです。先生。