セクハラ乳残VSあんこ
己の未熟さに悔し涙を流す、若き菓子職人・ナマクリーム……。
そんな誇り高き料理人の姿を見て、乳残はガッツポーズを決める。
「よっしゃぁ! それみたことかっ。やったぞ、切り抜けたわい!!」
「こ、こんな、ぐぬぬっ」
「おや~、どうしたのかな司会? そんなに歯を噛み締めて~? 何か、悔しいことでも?」
「は? は? は? 何言っているのか、意味わかんないですね?」
「そうか、意味がわからないか~。く・や・し・す・ぎ・てっ」
「く~、いい歳したじいさんがキモい喋り方をっ」
「そいつはすまんのぅすまんのぅ」
「くっ……いいでしょう。料理人が料理を放棄したのであれば、こちらとしても何も言えません。ですが、まだあんこ選手がいる!」
ババーンとエフェクトを産み出す勢いで、司会はあんこに大きく手を振る。
あんこは両手に土鍋を抱え、乳残の心を射抜くような目で見つめていた。
だが、乳残は軽く鼻から息を飛ばし、彼女の視線を吹き飛ばす。
(小娘とは思えぬ気迫。普段ならどのような料理が出るかと楽しみだが……今回は毒だからな。まぁ、ナマクリーム君と同様にこの舌先で打ち払ってくれるわっ)
あんこは鍋をテーブルまで運び、乳残の前に置いた。
乳残はフッ化水素が肌に触れないように、そっと鍋の蓋を開く。
「な、なんだと!?」
鍋からは芳しい蒸気が立ち昇る。その旨味を伴う香りは乳残のみならず、司会と観客たちの舌をも唾液で溺れさせた。
乳残は漏れ出す唾液を必死に抑え、蒸気の靄に隠れた鍋を覗き込む。
「これは……」
透き通るような黄金色のスープの中では、内臓も卵巣も一緒に煮込まれた河豚と色とりどりの毒草が煮込まれている。
毒草たちは自身が纏う赤や緑といったおどろおどろしい色合いに、黄金のスープの衣を巧みに着こなす。
光沢に包まれる毒草たちは、とても濃く、鮮やかな色を見せていた。
もし、毒草と知らなければ、乳残とて無意識に箸を使い、手を伸ばしていたかもしれない。
「ど、どういうことだ? フッ化水素に処理がいい加減な河豚や毒草が煮込まれているというのに、この芳香……マグロ節に合わさる複雑な香り。野性味あふれながらも上品な貴婦人を表すような……実に不思議なものだ」
乳残は半ば放心状態で鍋を見つめ続ける。
そこにはあってはならぬ大きな隙が生まれた。
それを見逃すほど司会は甘くはない!
「にゅ~ざんさ~ん」
「うっ!?」
「その様子だと、この鍋をお認めになられているご様子ですねぇ~」
「いや、待て。これはだなっ」
「あんこ選手! 乳残先生はあなたの料理を認めましたよ! おめでとうございます!」
「……ですっ」
「心なしかいつもより強めの返事、ありがとうございます。さぁ、先生。審査をどうぞ」
「く、く、なんたる油断。しかし、しかしだなっ」
「往生際が悪いですよ、先生~。そうでしょう、会場の皆さん」
「そうだそうだ! 立派な鍋料理として認めたんだろ」
「ここで逃げたら美食家の名折れだぞっ」
『ほら、たっべっろ! たっべっろ! たっべっろ! たっべっろ! たっべっろ! たっべっろ!』
会場を木霊する、乳残への声援……彼はテーブルに爪を立てながら呪いを吐く。
「何がたっべっろ、だ! パジェロみたいな言い方しおってからに」
「先生、その例え古すぎて若い子はわかりませんよ」
「古い言うな!」
「まぁまぁ、落ち着いてください。さぁ、先生……にひひっ、もう逃げられませんよ」
「くっ!」
司会はニチャリとした笑顔を見せる。
腐臭漂う笑顔の後ろからは大勢の人々の食べろコール。
乳残は舌を動かし何とか切り抜けようとしたが、数の暴力に屈し、箸を握った。
「わ、わかった。よかろう。ワシも美食家。無意識に料理として認めてしまった以上、逃げるわけにはいかぬっ。この神の舌に誓って!!」
「おおっと、ついに腹を括ったかっ! さぁ、皆さん、最後の一押しです。乳残先生の死出の旅路の後押しをしましょう!」
「死出っていうなぁ、死出って!」
乳残は声に棘を付けて大粒の唾を飛ばすが、会場の食べろコールの前では虫の呼吸ほどの音もない。
彼はいよいよと腹を括り、箸を手に取って、箸の先を鍋につけたのだが……。
――ジュッ!
箸の先っぽが溶けてなくなった。
乳残は声にならぬ声を生む
「ほぁぁぁぁわゎぁぁぁ! は、は、は、はしが、はしが溶けてなくなったぞ、司会!?」
「え? いや、手に持っているじゃないですか?」
「その部分じゃないっ! 鍋に付けた部分っ。箸先が音の聞こえるレベルで、ジュッて! ジュッて!」
「あ~、たしかに短くなってますねぇ。手品?」
「手品なんかするかっ! あんこ君!? 君には悪いが、箸が溶けるような料理は食べられんぞっ!」
乳残は菓子職人あんこが不慣れながらも精魂込めて作り上げた鍋にケチをつけた。
しかし、彼女は一切動じる気配を見せない。
あんこは一歩前に出て、鍋を指差した。
「大丈夫。見て、入れ物の鍋は溶けてない」
「なに?」
乳残は鍋を見る。
たしかにあんこの指摘通り、鍋は毒、もといスープに溶かされる事もなく健在している。
「これはどういうことだ、あんこ君?」
「そのスープは人の体液に反応して中和される」
「体液? 中和?」
「スープを注ぐ前に、鍋には私の体液を塗布しておいた。だから、鍋は溶けない。同時にそれは、体液でスープが中和されている証明」
「いや、証明はいいとして……体液? 君の? なんの? 一体、何を塗ったんだ?」
「それは……ちょっと……はずかしい……」
「はずかしいって? これ、何を塗ったっ!?」
あんこは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
だが、乳残はそんなことお構いなしで追及の手を緩めない。
その度に、あんこは顔を赤く染め上げて、首をふるふると横に振っている
そんな乳残の非道っぷりを見かねた司会が二人の間に入る。
「乳残先生。何を言っているんですか? 女性相手に体液、体液って……セクハラどころの話じゃありませんよ?」
「セクハラとかそういう話ではないだろう! 本人が体液を使ったと言っておるのだからな」
「本人が言うのと、誰かに言われるのは別物ですよ。それがセクハラの定義の一つです」
「だから、セクハラなんぞしとらん!」
「はぁ~、往々にしてセクハラを行っている本人は気づかないものですからねぇ。あんこ選手、大丈夫ですか?」
「…………です」
「わかりますわかります。辛いですよね」
「いやいや、ですって言っただけ、言っただけ」
「乳残先生。もう、わかりましたから。今回はあんこ選手も許すそうです。私も聞かなかったこと見なかったことにしますから、とっとと審査に移ってください」
「いや、だからっ。どの場所のなんの液かは知らんが、人間の体液が入ってるんだぞ。そんなもん、気持ち悪くて食えるか!」
乳残のこの一言に――会場は凍りつく。
司会は目を見開き、観客は僅かに口先を震わすのみ。
音が完全になくなった世界で、唯一響き渡ったのは……あんこのすすり泣く声。
「ひっく、そんな……気持ち悪いって……ひっく、ひっく」
彼女は宝石のように綺麗な瞳から、キラキラと涙を零し続ける。
ひたすらに涙を流し続けるあんこの姿に、乳残は慌てふためき、何かの言葉を生もうとした。
だが、司会の言葉が乳残の言葉をゆったりと締め付ける。
「あ、あんこ君。ワシは……」
「先生。さすがに、いまの、ないです」
「いや、別にワシはあんこ君を悲しませたいとか、泣かせたいとかはなく……ほら、常識的に考えて、あまり他人の体液を口にしたいとは。ほら、気持ちというか、気分が悪いというか」
「あ、先生、その一言は」
司会は慌ててあんこへ振り返る。乳残の視線もあとを追う。
そこには……。
「気分が、わるい……そんな、一生懸命に頑張ったの……先生怖かったけど、先生のためを思って作ったのに……ひっく、ひっく、ぐす……わ~んわ~ん」
乳残のデリカシーの欠片もない一言に、あんこはとうとう子どものように泣き声を上げてしまった。
「あ~あ、先生……」
「いや、違う。ワシは……ひっ!?」
司会の冷めた目。その向こう側にいる観客もまた、冷たい怒りを宿した瞳を乳残に向けている。
乳残は思った。こりゃ、逃げられないな、と……
「く、く、わかった。食べる! 食べてやる! それでいいんじゃろ!?」
「はい、言質取りましたぁ~。会場の皆さんも聞きましたよねぇ?」
「聞いた聞いた」
「ほらほら、ちゃんと食えよ、乳残!」
さっきまでの凍りつくような空気はどこへ行ったのか?
司会と観客は乳残から食べるという言葉を引き出したことに、やんややんやと大盛り上がり。
彼らとは真逆に、次は乳残の瞳が殺気に満ち溢れて凍りついている。
「この、クソども……」
「先生、言葉遣い悪いですよ~」
「糞司会……覚えてろっ。ワシは必ず、お前や観客共に復讐してやるからな!」
「きゃ~、こわ~い。そうですね、今後そんな機会があればご勝手に」
「言うたな、小僧。この開腹乳残! 一度、舌先から生んだことは必ずや完遂する男。この神の舌に誓って、必ずなっ!」
「そうですか? では、その神の舌の誓いに従って、食べると宣言したんだから食べてくださいね」
「ああ~、食べてやるわ。この神の舌が毒如きに負けるはずなかろう!!」
乳残は半ば、いや、完全にやけっぱちで鍋の両縁を掴み、あんこが丹精込めてこの世に生み出した、鍋という名の毒を景気よくあおった。そして……。
「んぐんぐ、くはぁ!? ぼほぉぉぉっ…………キュ~」
開腹乳残は口から大量の煙を吐き出し、テーブルの上に突っ伏して……死んだ。