蹂躙
リスドカルトの足は速いが、私にとってそれなりに走りやすい場所を先導してくれているのが分かる。ゆえに私もある程度はついていけている。軽口に似合わず堅実な逃げ方をしているのも分かる。一方私の体は十歳とはいえ発育の悪い六、七歳程度にしか見えない。つまるところが、どう逃げたところで必ず追いつかれるのは目に見える。
「先に、合流できればそれに越したことはないのだけど」
「おいっまさか考えずに逃げてたのかよ」
「それなんだけど、もうちょっと怒らせるかもしれない。でも、確実に追ってくるかわりに動きは抑え込めるから」
「はあ、全く。旅人になろうってやつは変人が多いたぁ聞くが、お前さんは特にやばいぜ。全く、子供でこうなんだから大人になったらどうなることやら」
「あはは」
私はくるりと振り返って、そのまま氷の大地を踏みしめる。力を足に集めて、一気に踏みしめた。大地がみしみし、ぱきぱきと秋を追い抜き、冬を顕現させる。夏の今その気温は異常でもあったが、同時に化け物がその場所に気がつかずに踏み込むことを狙ってのことだった。
右手に雪を握りこみ、一気に押し込めて投擲する。化け物の額に当たって砕け、それから溶けて落ちる。予想通り、ある程度の熱を発してはいるがすぐに溶けるわけではない。
「よし。逃げるよリスドカルトさん!」
「あ、おぉ?もういいのか?」
「うん」
私たちの体が常に冷気を発しているからこそ起こらない現象。
つまりそれは――滑って、転ぶこと。
氷がすべるのは表面に溶けた水があるからであり、私たちは滑って転ぶことはないといっていい。この場所では温度の関係で雪が溶けるということはない。今怪物は走っていて、足元まで気を配る余裕がないはずだ。
咆哮が聞こえ、地面につるつるに凍った場所に彼が踏み込むと同時に、その体が綺麗に傾いで、次いでがつん、という衝撃音が聞こえた。綺麗にひっくり返り、その頭からはどす黒い液体が流れ出していた。地面は天然の凶器である。私はにやりと笑ってそれからまたリスドカルトとともに走り出す。
「ちょっ、今、何が起こったんだ!?」
「あとで!」
先ほどから連発している言い訳を使いながら、とりあえずと私は前置きして、いくつか見せ付けるように強く足を踏み込んだ。
すでに血も止まっているが、わずかにその足はもともとの速度より遅く、さらに警戒しているためにスピードも落ちている。もう転ばせるつもりはないのだが、私が足を踏み込むだけで走ってくるルートが限定されてかなり逃げやすくなった。
何かもう一手打てればそれに越したことはないのだけれど、私が持てるすべは少ない。リスドカルトも、荷物さえあればな、とこぼした。
「荷物の中に、獣が嫌がる成分が入った薬とか、いろいろあんだよ。誘引剤とかもあるから、そいつを木にぶちまければそこにしばらく齧り付いてくれるんじゃねぇかな、とかよ」
「でも、荷物があったら最初のほうで捕まってたかもね。今はとにかく、ポデルさんが向かったほうに行って救援の部隊と合流することが大事だと、思うよっ!」
足元を削り、蹴り上げた氷の塊を手で受け止めて背後に投擲する。夏の氷は冬のものよりもろいため、上手く割ればある程度武器になりうる。
顔面にぶち当たったのを見てにやりと隣を走る彼に笑って見せれば、彼もまた楽しそうに地面を手持ちの剣でたたき、つま先で欠片を蹴り上げてぱしりとつかむと後ろに向かってぶぉん、と放り投げる。
そうしてけん制を続け、ようやく見えてきた先には人の集団がいた。そして、なにやらもめている、というのもその服装が明らかに違うのだ。防寒具まみれの明らかにスニェーの民ではない男たちと、それからスニェーの男たち。
「警告!!古のものだ、揉めてねぇで助けろクソッタレェ!!」
「リスドカルト!?後ろのはっ……」
「いいから構えろ!奴さん怒り狂ってやがる、ハイルのせいで逃げ切れたがハイルのせいで怒ってんだからな!」
「な、何だアレは!?」
「ひっ!?」
おびえる人間と、戦いを始めるスニェーの民は非常に対照的だった。私はすぐさま父に報告に行く。
「父さん。あいつ、口から熱波を吐く。木の陰にいれば防げるけど、そうじゃないとたぶん即死だよ。息を大きく吸うように体をそらせるから、そしたらすぐに隠れて。たぶん、雪山程度じゃ防げないから」
「ああ、分かったよ。ハイルは大人しく村に帰りなさい、良く頑張ったね」
「そのことなんだけど、父さん――」
吹き付けるような咆哮が、びしびしと私を見据えてたたきつけられた。赫々とした眼がぎろり、とこちらににらみを利かせている。
よもや貴様、逃げるわけではあるまいな、と。
「怒らせすぎちゃったみたい」
そりゃあ転ばせて、まともな流血を負わせたのは間違いがないが、かといって私自身がそうたいした手を下したわけではない。だのにアレだけ怒っていると言うことは、私がやったことも喋ったことも完璧に理解していると言うことだ。わざとだ、と理解する頭がないことはちょっと悲しいことだったが。
「だから、たぶん、私が逃げたら追ってくると思うんだよね」
「ハイルぅうう!!」
なんてことだ、かわいいハイルがそんな事になっている間に俺は、とぐにゃぐにゃ呟きながら、父は剣をするりと抜き放った。あまり強くもない陽光の下でぎらりと強く輝いたように見えて、一歩後じさる。
父の表情は、ものすごい笑みを放っていた。だというのに目は焦点がなんとなく合っていないようで、恐ろしく見える。笑っているのに、ひどく怖い。
「殺す」
殺意をこめたその言葉の直後、父の姿が掻き消えた。雪の残滓だけがふわり、と舞い上がり、私がはっと視線を移した瞬間、化け物の悲鳴が上がった。
そう、悲鳴だった。
明らかに父の剣戟はダメージを与えていた。
「父さん……」
震えるほどに美しかった。殺すすべを極めれば、ここまで美しくなるのかと思うほどに私は魅せられていた。剣舞という考え方が生まれることもなるほど当然のことなのだとうなずける。
化け物は抵抗するように腕をばたばた振り回したが、それでも父は綺麗によけてしまう。ひらひらと舞う蝶を、棒切れでたたこうとするようなものだった。決して当たることはなく、また蝶は蜂にもなった。
剣がうなりをあげてひねりこまれるように突き、そしてすぐさま引き戻される。その体も血も、一滴たりとも父には付着していない。
まさしく蹂躙であり、殲滅であり、一方的ないたぶりだった。熱波を吐かせることすらなかった。
他の人はナイフをその足を支える腱につきたて、そして離脱していく。徐々に削られていくその姿は、死にかけの甲虫が蟻の大群にたかられて死を余儀なくされるような光景であった。
けれど、最後の最後まで、彼は憎み続けていた。その体からどす黒い液体が流れきったころに、ようやくその目は虚ろな光を甘受する。
私は知らず知らず自分が肩で息をしていたのに気がついた。震えてもいた。冷汗をかいてもいた。私自身がどうしたらいいのか分からないほど、ひどい体験だった。
「……はあ」
「ハイル、怪我はない?」
「……ハロリオさんの方がひどい怪我だよ。すぐに、迎えをやったほうがいいよ。足をやられているし……私はそりのはじっこに転がって引っ張ってもらいたい気分」
「そうか、そうか。うん、問題ないよ。そこに寝ておいで、父さんがついているからゆっくりお休み」
父の言葉を受けて、私は疲れている体をそりの上に投げ出した。逃げてくる途中頭を使いすぎたのもあって、私はほとんど気絶するような勢いで眠りに落ちた。
眼が覚めると、すでに昼もいい時刻だった。私はぐわっと口をあけてあくびをすると、母の元へとぺたぺた歩いてゆく。
「おひゃおう、お母さん」
「あらあら、まだあくびが出ているわよ。顔を洗っていらっしゃい」
「ん……」
冷たい水をぬるま湯のように感じながら顔を洗い終えると、がたり、と父もまた起き抜けだったらしい。同時に席について母が出してくれた食事を口に運ぶ。刃物の背でたたかれたやわらかい肉はべべリアのわずかな辛味が絡まっていて、それなりに潰されたニチェッカと良く合う。もぎゅもぎゅと口いっぱいに頬張っていると口の中の水分が容赦なく持っていかれるので、そこで叩き潰したカルポの実――ここいらでは香辛料として使われる肉桂のような独特な香りで、味はほろ苦く乾燥したもの――の入った水を流し込む。
そうすることで油のしつこさが覆い隠され、さらにこの実には虫歯を予防する効果もあるらしく、皆が皆ほとんど白い歯だ。
「ハイル、昨日はお疲れ様。初めての日にあんなものに会うなんて、災難だったわね」
「あんなものって、お母さん、見たことあるの?」
「ええ。もうちょっと若かったころね、お父さんに守ってもらったのよ」
「え、いや、アレは君がだな――」
「なにかしら」
にっこり、と擬音がつきそうなほど口角を綺麗に引き上げて、三日月のように目を細め、大変綺麗であるのに恐ろしい笑みである。
「い、いや、なんでもないよ。ははは」
「そうよ。お父さんってばかわいいくせに、すっごく強いんだから、もぅ」
惚気ではない惚気のような何かを聞かされながら、私は兎にも角にも日常が戻ってきたことを安堵し、同時に恐ろしいほど自分が逃げていた時笑っていたことを思い出した。
何故だろうか、あまりの出来事に狂人になってしまったのではないかと思って、少しだけ母の服の裾をつらまえてそれとなく尋ねてみる。
「ねぇ、母さんはさ、強い敵から逃げて来る時、笑っていたりした?」
「どういうことかしら?」
せっかく迂遠に聞いたのに、先ほどの問いを再燃させてしまったらしい、綺麗な笑みが戻ってきた。迂闊であった。
「あのそうじゃなくって。私、逃げてきてる時に今思い出すと笑ってたみたいで、あんなに怖かったのに、なんでか……父さんがあの化け物を倒す時に、ああいう風に戦いたい、と思ったんだよ。でも、あんなに怖かったのに……変、だよね?」
「あら、ちっとも?」
呆気からんと言い放たれて、私は困惑した。オロオロとしているとその様子にくすりと笑みを浮かべてみせた。
「スニェーの民は、根っこから、戦うことが好きで、戦うのが上手い人を好きになるの。フィローもそうだったでしょう?あの人はバケモノ見たく強いし、バケモノみたく戦いが好きだけど、ハイルはあの人のことは嫌いかしら?」
「うん、……うん。そう言われてみれば、すごくよくわかるよ」
この極地で戦闘を行って生きているからこその生存本能かもしれない。強いものに従えば食料が手に入る。強いものになれば慕われ、群れることでより大きな敵を殺すことができる。
母は私の心配など軽く吹き飛ばしてくれた。
午後からは私はネーナ様の家に来ていた。最近は狩りに出るための準備に勤しんでいたこともあってあまり顔を出していなかったが、「あらぁ、ハイルちゃん」と迎えてくれた。
「お久しぶりです、ネーナ様」
「う、ん?あぁ、そうね。そう言われてみればあまり来ていなかったような?」
どうやら長命種族はその辺の感覚が曖昧になるらしい、ちょっとしたカルチャーショックというものを受けていると、ネーナ様が中へと招き入れてくれた。
昨日例の狩りに携わった人が集められていた。いつものようなにおいが漂っていると思ったが、ピリピリとした辛いにおいが混じっている。
「ネーナ様、この匂い……」
「気がついた?ええ、そう。昨日あなた達が狩ってきた『古のもの』。ハイル、あなたも血を流させた。そうね?」
「え、あ、はい」
「つまりは、ハイルのはじめての獲物ということになるのよ。ハロリオたちには悪いことかもしれないけれど……」
本来ならば、瀕死の小動物にとどめを刺してこれをはじめての獲物とするものだという、それはまあ、これまた面倒な代物を捕まえて「はじめてのえもの」などと言ってしまったものだと思う。
「あの……そうだと、何かあるんでしょうか?」
「全身を炎で焼いて光に捧げるのよ。ほら、炎は明るいし、上に登っていくでしょう?そうすると光へと獲物が届くの。ハイルは一晩その灰の上で眠って、光からの啓示を待つの」
なるほど問題はあれほど苦労して倒した『古のもの』全てを焼いてしまうことらしい。
「ハイルは良い啓示を受けられそうなのだけど、それでもね。ハロリオが怪我をしてしまったから……」
「ああ、そうでしょうね。あの足だと三十日ほど戻ってくるにはかかるでしょうし」
「そう。それも貴重な膏薬を使って、ね」
しかし、私が獲物を焼いて届けなければやはり啓示は受けられない。それにこれは私が狩猟に携わることになったのを知らせる意味もある。
「だから、ハロリオの薬の代金をみんなで折半しようと思うの、どう?」
もちろんこれは決まりきったポーズのようなものである。皆は賛成意見を述べる。ハロリオはいい人だし、ユルロもまた彼を心配している。何よりスニェーの民は仲間を大事にする。
父もまたその薬の代金を提供することに積極的であり、私がハロリオを心配するとさらに額をちょっと上乗せしてくれた。
「みんな、ありがとう。ハロリオもきっと脚を治して良くなるわ。それじゃあハイルの儀式を取り行うために、広場に向かいましょう」
ネーナ様はポンと両手を合わせて、可愛らしく微笑んだ。