狩猟
それから習ったことはあまり多くない。何しろ外の情報は長命種族ゆえに穴欠けの多いものであり、国境も国家も、時代が止まったままなのだ。また、人間の開拓領域がそこまで大きくないことも原因だろう。この世ならざる闇の眷属、古のものがいるため人間が世界全土のありとあらゆる場所に暮らしているわけではない、という。
十歳を迎えるこの日、私はむーん、と受け取ったナイフ二振りと、私の体には大分大きい仕込み杖を持って、雪の降りしきる外に立ちほうけていた。もちろん、狩衣装のクラスヴを着て。
オレンジ色に赤の帯を巻いているため、非常に目立つと言えば目立つが、これに赤だの緑だのいろいろな色が混じってくると壮観である。
クラスヴと、そこに丈夫な革が当てられた布靴はこの日のためにこのあたりの植物を湯がいた煎じ汁の中にしばらくほうりこみ、そして雪の中に三日三晩さらしてある。こうすることで綺麗に人間の匂いが取れるらしい。鼻を近づけてみても、ほのかな草の匂いがしたくらいだ。
「ハイル、今日はこのかたがたにお世話になるからね。くれぐれも、くれぐれも無事で帰ってくること。いいね」
「うん。はぐれたり、迷子にならないように気をつける。この人たちの指示は絶対聞くこと」
「分かってるなら大丈夫、いや、でも……」
うんうんと呻きながら、父はまだ私について行こうかどうしようか迷っているらしい。
十になると、狩りについていくことが許される。決してこれは戦いに慣れさせると言う目的ではなく、あくまで『歩き方』を教えるのみだ。
歩き方とは、音を立てないとかそういう狩り用のものから迷ったときの動き方、食料になるものの探し方。狩りの基本的なことでもあり、私にとっては外に出た後の、いざというときの助けとなるものだ。
父を何とか言いくるめて、私は今日引率してくれるグループを振り返る。解体場でよくお世話になったハロリオもいる。狩りはいくつかのグループに分かれて行われるが、そりを引いて運搬に体力を残す人や、他のグループへの連絡要員、戦闘担当者、放血などの始末を担当する人で構成される。ちなみに弓はこの地では風が強すぎて狙いが定まらないのと、空気が冷たすぎてひび割れを起こしたりもするため導入はされなかったらしい。目標とする獣の種類によって何人か人数が追加されることはあるが、基本は四人グループだ。
今回私が混ぜてもらったのは中堅の『無理をしないでそれなりの成果を挙げられる』グループだ。父はあれでも腕がいいため、上位のグループでひっぱりだこなんだそうだが、私がもしそちらにお邪魔すれば本当に邪魔だし、父をこちらに入れれば向こうのグループで不満が出そうだと思ったのだ。
このグループは基本的に深く潜ることはないし、小さな動物相手なら私の立ち回りを完璧にフォローできる。そして何よりごり押ししなくていいぶん、知識が豊富だ。
この雪だらけの中でも氷に根を張る植物、ヴィロフルテが存在しているので生態系はかなりめちゃくちゃではある。細く、小さな直線をつなぎ合わせたような、前衛アートのような姿かたちをしているが、夏の暑い晩にそれは見事な赤い花を咲かせるらしい。この赤い花は染料としては唯一ここで取ることのできるものであるから、比較的赤のテルシュは良く用いられる。
しかし、下ばえはこの一種しか存在しない。競争相手がいないけれども、実際育つことがかろうじてできる程度なので、村に生えまくったりなどはしていない。
この茎を切るとこの場所でさえめったに凍りつかないような濃度の液体が染み出してきて、そしてその汁はわずかに苦く、すごく甘い。ただこれを舐めすぎると腹を下すので、下剤として用いられることもあるという。
「ハロリオさん、これ、実をつけるとどうなるんですか?」
「実をつけると?ああ、実は甘いけど、結構毒だから、僕たちは食べないほうがいいよ。よっぽど困らないと、だけどね。死にはしないけど、最初はふわふわした幸福感があって、翌朝頭痛とめまいがひどい」
なんだか酒のような果実であるらしい。宴会ではあまりの楽しさにこれと酒をちゃんぽんする人間もいて、簡単に悪酔いさせるようだ。
「おっと。とまって」
わずかにかさかさと言う音がする。ヴィロフルテの茂みから、のそり、ととげとげしい獣が顔を出した。いや、獣と言うよりは、背中にびっしりと棘が生えている、平たい灰色のエイ。
「あれはゲッペというやつでね、邪魔者って意味さ。食べるところが少ないし、利用するところもない。それと、ヴィロフルテの実を食って生活してるから、下剤作用が全身にある。おいしくもない。そのくせ僕らを見つけたら積極的に近寄ってきたりして襲ってくる。まあ、狩りにおいてすんごく面倒くさい相手だね」
見つけたら優先的に逃げること、と言われ私はこっくりとうなずいた。持ち帰られることはないので調べては見たいが、諦めざるをえない。もう少し実力がついたらにしよう。
「ゲッペは踏むと結構痛いから、足元は常に板をくくりつけたり革でしっかり保護してるかどうか確認して。あと、百年に一度くらいゲッペが全部綺麗なピンク色になって交尾する様子が見れるから、そのときは一緒に見に行こう」
「だめだめ、ハロリオさんはその日ユルロさんと約束があったんでしょう?」
「あ、そうだっけ。しょうがないなあ……」
ユルロはきりりとした、男の格好のほうが似合うのではないかと言うほどの綺麗な女性であり、きりりと引き締まった表情が一転笑みを浮かべると、固さやくっきりとした凛々しさの角が取れて、非常にかわいらしく見える。ユルロが一方的に思いを寄せているように見えるが、さっくりと断らない分ハロリオもまんざらでもなさそうなようだ。しかし長いあいだ付き合いがあるのもあって、どうにもうだうだとしているらしい。
千尋の谷に尻でも蹴り上げて突き落としてやりたいと思うくらいには、羨ましい。
「ハロリオさんは、ユルロさんのこと、嫌いなの?」
「や、そうじゃないっていうか……一緒にいるのは楽しいと思うし……」
「じゃあ好きなの?」
「すっ……!?」
面食らった顔に、私は溜飲を下げてそのまま前をしゅるしゅると滑っているそりの後ろを歩き続ける。
動物に引かせると言う手もあるらしいが、動物を飼育するコストと、それから私たちの種族の腕力を鑑みると、どうしても自分たちの手で引いたほうが得になる。私でさえ大人についていくのがやっとだが、この速度は前世であればほとんど走っていると言う速度に近い。にもかかわらず、ほとんど問題なく付いていけている。
歩き方は足指の付け根をまずつけ、それから下ろせるならばそっとかかとを下ろし、つま先で地面を蹴りだす。これは野外で音をなるたけ立てずに歩く方法だから、なりふり構わず走るときは足指の付け根と、つま先だけをつけて走る、と教えてもらった。歩き方はもう少し練習する必要がありそうだ。
やわらかく膝を使って歩いていく大人たちを追いかけていると、すっと頭の上から影がさした。
「っ、」
息を軽く吸い込み、振り返りながら防御体勢を取る。激しいうなり声とともにその豪腕が振るわれて、息を吐きながらそれと同時に足で飛んで衝撃を逃したため、雪の上にうまく転がって難を逃れる。
「ハイルよくやった!身の安全を第一に!」
「はい!」
背後から音もなく忍び寄ってきていたのは、見たこともない威容を携えた獣だった。いや、この場合『化け物』と言うほうが正しいだろう。なにせ、私が世界ではじめて見た『古のもの』だったからだ。
赤黒い毛には、妙な気配が漂っていて、その下にある筋肉は毛皮で隠れていいはずなのにごつごつと盛り上がって見える。頸は肩の筋肉に埋もれていて、弱さなどは微塵も感じられないほどの猛々しさだった。何よりも、顔は唾棄すべきとでも形容しようか、とにかく言葉では言い表せないほど醜悪ななりをしていた。
いや、これくらいならば本来は嫌悪の対象ではない。私が拒んでいるのは、『本能的に』だ。
古のものとは、ひとえに暴れる害獣をさすわけでは断じてない。この世界に、生きとし生けるものすべてに憎しみを持っているのだ。ただの獣であるなら分かり合えることもある。懐かせて、馴らすこともある。けれど、古のものは決して与することはない。
彼らの本質は悪であり、憎むことであり、そして殺すことである。
ハロリオは剣をすらりと抜き放ち、正眼に構えると一息に指示を出した。
「ポデル。お前は他の班に速やかに連絡。応援を要請してくれ。要請後は村までハイルをつれて走れ。ハイルは私たちから離れすぎない場所で身を守っているように」
最後の指示はおそらく、もう一体いたときのためだろう。私は力強くはい、と返答を返して、それから全方位に気を配りながら後退する。連絡係のポデルはそれを見て大丈夫そうだと判断を下し、一気に駆け出した。その姿が見えなくなると、私はまず全体の足元近くを舐める様に確認する。ゲッペのような生き物は見当たらない。ひとまず、フィールド上の不利はなさそうだ。
「リスドカルト、一旦そりは捨てておけ。荷物も後でいい、どうせまだ今日はたいしたものはない」
「はいよ、了解。んじゃまあ、いつものとおり」
会話が途切れたところで、すんすんと匂いをかいでいたようなしぐさを見せていた化け物は、ぐちゃぐちゃの憎悪を載せて私たちを見た。
今しがた匂いをかいでいたのはどこまでも追って追って追って、殺すためだと言いたげににたりと嘲笑した。私の背筋がぞくりと震えた。たるんだ口端の皮から、ぽたりとよだれが零れ落ち、そして、その上体が、く、と後ろへそらされた。
前世の『私』の感覚が、まずい、と感じた。
「木の裏に隠れて!!」
「なっ、」
突然声をかけたが、皆がいっせいに躊躇せずに動く。たぶん訓練されきっているのだろう、皆が皆木の裏に隠れた瞬間に、熱風が吹きつけた。私は体内のありとあらゆる『力』を総動員させて体を保護すると、氷がすっかりと溶かされつくしたその場所を木の裏からちらりと見やる。
「……まずい、というか、やばい」
半円状に地面が削り溶かされていた。一息であそこまでひどいことになるのだから、正直に言って本体がどれほどのものだとか、考えたくはない。考えたくはないが、考えざるを得ない。
「皆さん生きてますか!?」
「ぶ、無事だ。よかった。ぎりぎり、生きている」
「俺もだ」
「僕も。となると、時間稼ぎに徹する。ハイル、助かった!絶対に、あいつから目を離さずに安全な場所にいてくれ」
「は、はい」
私は全員が全く何事もなかったことに安堵する。それから、緊張しながら木の陰よりそっと怪物と彼らの対峙を見守った。
戦法としてはまず、ちくちくとハロリオが攻撃し、彼を狙わせる。血が出るほどの大振りな一撃をもう一人のダルツォが食らわせて、リスドカルトはハロリオとダルツォがあの熱波攻撃から逃れられるよう木の影から引っ張り込む。ひとつタイミングが合わなければ即死であろうこの状況においてなお、彼らはぎりぎりの線を歩き続ける。
「く、せぉらぁ!!」
リスドカルトがハロリオを引っ張り込んだタイミングで、その掛け違えは起こった。もう少し早く起こっていても、もう少し遅く起こっていてもおかしくなかった。けれど、それは起きてしまった。
「ハロリオ!?」
「ぐ、ぁく……ッ」
ハロリオの右足が、こげた。少なくとも冷やすことはできそうだが、しかし彼はダルツォの攻撃を美味く当てさせる役割を果たしていたわけであり、これで逃走も、討伐も、絶望的となったわけだ。
「……頼みの綱は援軍だけかよ」
クソ、とダルツォが叫びながら、距離を稼ぐ戦法に切り替えた。ハロリオと私をこの場に残して、どうにか怪物をこの場所から引き離そうと言う魂胆だったようだ。しかし、怪物はあくまでヒトならざるものだというだけで、頭が悪いわけではない。
当然、弱い者がいることを知って、私たちを狙うためにこの場から全く動くことはない。
呼吸を整える。不運をのろう前に、この状況をとんとんに持ち込むために考える。まずハロリオは動かせない。足をやられている。一方私はどうだ、何事もなくぴんぴんしている。動いてもいなかったから、十分な休息を取れている。
最も警戒されているのはダルツォだが、ハロリオが負傷したからと言っても未だに警戒していることには間違いない。リスドカルトはまず、殺せるはずだった『獲物』を奪ったと言う点で憎まれている。そして、足が速い。
決めた。
私と、リスドカルトだ。
「リスドカルトさん!僕を連れて、走って逃げてください。それならいけます。ハロリオさんは足、何とかしてから来てください」
「は!?ちょ、ちょっと待って、ハイルくんそれは――!」
身長ほどもありそうな背中にしょっていた仕込杖を鞘ごと引っこ抜く。固く抜けにくい鞘だから、あまり気にしないでもいいだろうが、布切れをぐるりと巻いて固定する。それからリスドカルトの手を走り抜けざまにとって、怪物の目の前に躍り出た。
「のろま」
そう言い吐いて、森のさらに奥のほうへ、救援を呼びに言った方角へと走り出す。
「ハイル、お前な!」
リスドカルトが起こったように口調を強めたが、ズン、という地響きが、後から追ってくる。予想通り、腹を立てたらしい。
「後です、後にしてください。走ります!」
「っ、ああ、しょうがねぇなもう!分かったよ、何とかうまくやんぞ」
リスドカルトはそうツンケンしながらも、背後にいた二人が逃げられそうなことを安堵した表情になっていた。今来ている方角から救援が来ているのが確実だからこそ、自分たちにはまだ余裕があると思えたのだろう。私たちはとにかく、化け物の視界から消えないように、だが追いつかれないよう速度を調整しながらただただ走り続けた。