手段
実際に旅をする上で一人というのはなかなか気楽なものだと思っていたが、それはあくまで当人が強い戦闘力を持つ場合に限る、というのがよくわかるような集団だった。練度としてはかつて住んでいた村であれば機織りをしている女性くらいのものだが、実際集団として集まってみれば一気にその攻略難易度は上がる。例えていうなら蜜蜂だ。その毒性一つはとても弱いけれど、数が集まれば顔中、身体中を腫れ上がらせることだって不可能ではない。それに加えてその最も嫌なところは、その情報網にある。獣が安易に手を出したところでこういう獣がいた、という噂になればその地域から討伐隊が出されることもある。彼らは狙いの獣を狩り尽くすため、地域の環境を不安定にしがちにはなるものの、討伐は討伐だ。そういうことが続いていくと、獣も流石に脳がないわけでもない。
私が合流したレーベを主人とした集団はクィルドー車三台という大所帯のように見えるものの、実際に商人が移動する場合は10台以上にも及ぶことがあるそうだ。私が乗せてもらっているのは最後尾を務める部分のクィルドー車で、戦闘力というよりはその探査力を買われたようだった。あまり貴族が使うようではない、やや薄汚れた幌布のかかった車ではあるが魔獣車というのは恐ろしく維持費のかかるものであり、示威行為に用いるのだと以前に聞いた話がある。
「しかし、先日のフォジュヴィですが……襲いかかってきたのは不思議ですね。陣地からもそう遠く離れていませんでしたし、目撃証言もなかったのに」
ゼノンのやや独り言じみたそれに反応を返すと、ふっとその顔がこちらを向く。
「フォジュヴィ、というんですか。あれが」
「ええ、煮ても焼いても食えませんがね」
黒い獣であり、その巻きつくような舌というのか、牙というのかわからない部位を伸ばして攻撃してきたあれをフォジュヴィと呼ぶらしい。フォジュはねじれとか巻いている、または迷路のような、ヴィは舌という意味があるため見た目そのままに名付けられたのだろう。その舌でもって家畜の死体の肉を削り取るように食べて骨だけ綺麗に残していくこともあるようだから、腐肉のヤスリとも呼ばれているらしい。
「とにかく、彼らが単体で出てくることはほとんど稀なんです。実際目撃された時には別の、強い力を持つ存在が観測されていましたから」
「強い力を持つ存在、ですか?」
「ああ……まだ幼いから聞いたことがありませんよね。ルェ・コラキューラといいまして、古くは古のものと呼ばれていたものなんですが、それらは獲物を倒しはしても、食らうことはありません。そして、倒した獲物を食らった獣は狂うと言われています」
「古の……もの?それは……」
絶句している私を流石に直に戦ったことがないと思ったのか、彼はちょっと苦笑するとまた饒舌に喋り出す。
「ええ、観測されたことはほとんどないですよ。流石に聖なる土地、光のみもとにある都市であるシハーナ宗主国には現れたという記録はありません。不思議なことですがね、やはり他の土地にも現れることはありますよ。迷惑な存在ですよね、どうせなら世界を作る時にそれも一緒に消して欲しかったと思わない日はありませんよ」
「いえ、見たことはあります。シハーナ宗主国の聖水によって浄化された古のものの命石を使い、造られたのがこの剣です」
「お、おや、そうですか……ハハ、まあそういう剣だということにしておきましょう」
まあ、流石に信じてもらえないとは思っていたけれど、子供扱いされたようだ。私はその扱いに内心ちょっと溜息をつきたい気分になりつつも、彼の主人であるレーベに視線を向けた。彼の髭が生えているその顔は外の方へと向けられていたが、その雰囲気はやはりどこかポルヴォルに似ているようだった。いや、どちらかといえばあの脚を無くしてもなお高潔さを保っていたような、エスティを思わせる達観が見られる気もした。
「レーベさんは……」
そこまで言いかけて、私はやはりその後を口に出せないままに心の奥に仕舞い込む。
「ん?ああ、すまん聞いてなかった。で、なんだ坊主」
「その、坊主というのはやめていただけませんか?私、これでも十五は越えているのですが……」
「……何ィ!?嘘だろうその外見で!!」
「そんな馬鹿な!!」
二人分の絶叫が耳に突き刺さり、くわんくわんする視界を支えるように額を押さえると、肩ががっしりとした手に覆われた。
「こ、こんなにちっこいのに……ひとりぼっちで旅をしているなんて、しかもまだ十五だなんて」
「あんなに大人びた振る舞いで強くていらっしゃるのに……三十は越えていると、てっきり」
二人は真逆の感想を呟き、そしてお互いに顔を見合わせた。
「レーベ様、彼の種族をご存知ですか?」
「……うむ、まあ知らないわけがないだろう?えーと、その、あれだ……うん」
その言葉にゼノンはじっとりとした視線を向けたが、レーベの視線は全く合わずにただ単に右に左に彷徨うばかりである。
「ふふ、仕方がありませんよ。単に暑いのが苦手で引きこもっているだけの長命種族のことなど、皆普通は知りませんし」
「スニェー族が単なる長命種族ではないこと、ご存知でしょう。あなたのひいお爺さまが無礼打ちになさった種族の一人です。本来なら仇討ちに現れても、おかしくはないというのに……」
おやまあ、と私は目を見開いた。長老の兄を無礼打ちにしたのがこの人のひいお爺さまということは。
「やはり貴族だったのですね」
「……あっ」
引っ掛けるつもりもなかったのだが、レーベもゼノンもやや迂闊なたちであるらしい。だから言わなかったのにとぶうぶう文句を言っているレーベに対して単に思い出せなかっただけでしょうが、と毒を吐きつけるゼノンはやはり仲がよく見えた。
「その、仇を討たれようとは思わないのですか?」
「仇なんて、いませんよ。それに会ったことも無い人です、彼は無礼打ちされることも織り込み済みで旅をしていました。彼の望みは村で死ぬことではなかったのですから、これでよかったんですよ。それに、私自身ある程度礼儀的なことにも目を向けることができましたから、口調もこういうふうにしていることが多いんです。それに、旅の初めの方で幸運にもロスティリ家の方と会うことが出来まして……」
「……なるほど、確かに芸術家であればこの美貌をなんとかして後世に残したいと思うことは当然ですね。それにしても、ロスティリ家がシハーナに入国することができるような許可状を出せるとは思わなかったのですが……」
ああ、と私は書状を荷物の中から取り出す。
「実は、アショグルカ家の方に手紙を渡しに行った際、シューヤ家の方と知り合う機会がございまして、その時発行していただいたんです、入国許可証」
「……何と言ったのか、ちょっとよく聞こえなかったようだ……すまんがもう一度言ってもらえるか?」
「許可証をシューヤ家の方にいただいたんです」
「シューヤ家だと!?あの、頭カチカチの、ガッチガチの!?」
頭が固いことを強調したその言葉に上下に首を動かすと、彼は人って変わるもんだな……と大仰に溜息を吐いた。しかし、それでも納得がいかないらしくどうしてそうなった、とまだぼやいている。
「あの、シューヤ家はシューヤ家なのですが、私がその恩恵に与ったのはシューヤの姫様ーールフェト様です。実際にはその頭が固いとかいう印象はありませんでしたよ?」
「あ、ああ……びっくりした、姫様かあ。いやーしかし、子供ができたってところでもう驚きでしかねぇなあ」
レーベはそういいながら首元をボリボリと掻いている。私はやや苦笑いしながら、ふととあることに気がついた。森があまりにも静かだ。リッカを連れているからと言って、ここまで静かなことは……流石におかしい。耳元でふすふす、というリッカの鼻息を下の方へと移し、そして車の窓から顔を出す。笛に追い立てられるようにしてクィルドーは走り続けているものの、その動きはややいつもよりも素早く見える。何より体色が足元から茶色と黄緑色の縞模様である警戒色に変わりつつあるのも問題だ。御者は上から見下ろしているから気づいていないが、斜め後ろからであれば見える。
「すみませんが、クィルドーを一度止めていただくように伝えていただけますか」
「あ、ああ……構わんが、どうしたんだ急に」
「森が、静かです。あまりにも」
雪の降りしきる、あのどこまでも耳の痛くなるような静寂に包まれた故郷を思い出すような、そんな緊張感のある空気が辺りを包んでいる。御者はレーベの命令に慌てて笛の音を止めたが、クィルドーの脚は止まらないどころか、ウネウネと警戒色を強め、ついに背中までが奇妙な色に染まり始めた。
「な、何なんですか急に……!!」
御者は憐れっぽい声音で嘆くように叫んだが、私はグッと唇を噛み締めて一歩遅かったか、と唸る。御者にはスピードをできるだけ上げるよう伝えると、幌の中からその上へと支え木を掴んで這い上る。風に流されないように体を縮めてあたりを見回すと、近い場所で例の気配がした。
こちらを、憎い、妬ましい、と睨みつけてくる、あの並々ならぬ憎悪と嫌悪を煮詰めたような視線の主。赤い瞳がこちらを射抜くような気さえしたほどのその恐ろしい気配が向けられている。私の背筋がぞおっと凍りつくような震えを呼び起こした。久しぶりの、勝つビジョンが湧かない相手。そして残されているのは……レーベとゼノン、この全く役に立たなさそうな二人。いや、それでもやるしか他に手立てはない。私はぎゅっと唇を噛み締めると、隣に駆け上がってきたリッカを抱き止めた。
「リッカ……どうしようか」
キュギュギュギュ、カカカッと警戒音を出しているあたり、私よりもやや探索網は鈍いらしくその姿にちょっとだけ笑いが漏れ出る。ふと下から、「ど、どうしたんだ!?」「何か、まずいことが起きているようで」という声が聞こえてきて、彼らを逃さねばという気持ちになる。ふとそこで気がついた。
「そうだね、確かに逃げられれば勝ちだ」
首を傾げるリッカを肩に乗せると、爪が柔らかく食い込む。
「まずは誘導。そして幌布も、ちょっと借りようか」
「お、おい〜!ハイル、どうなってるんだ今!?」
幌の下に向かって覗き込むと、私はとある提案を伝えた。荷物の中に、確か樹液が入っているはずだ。私も荷物をこの陽気の中、普通に置いていたためおそらく常温に戻っているはず。
「すみませんが、幌の布を半分ほどいてください!今切り裂きますから、そこから先を」
「いえ、切ったほうが早い!外すことはないので釘で打ち付けてあるんです!」
「わかりました。それでは切断してください、刃物くらい持っているでしょう」
「了解しました!」
私は一息に御者の方に詰めると、勢いよく剣でその幌布を切り落とし、端を掴んだまま中からその布が切り裂かれるのを待つ。切り裂き終えると、布ごと支え木の内側へと戻り、自分の荷物を手に取った。
「すいません、これの蓋をとって、それからこちらの荷物の中身ですが……確か辛草でしたよね。そこそこの値段がしますが……少し使わせてもらってもいいでしょうか」
「構いませんよ、命には変えられないですし、レーベ様が気に入ってわがままでもって帰ってきただけですからね」
バァザは刺激的な香辛料、すなわち唐辛子のような植物であり、その新芽は特に鮮やかな空色であり、不可思議な彩りに加えてあまりの辛さに当時それを口にした異国の王が毒だと勘違いした逸話まである植物だ。当然ながら目に入ったり、粘膜についたりすれば悶絶して何をすることもできなくなるだろう。
私が塗りつけると間違いなく固まってしまうため、二人が手をドロドロにしながら塗りつけているのを見届けると、その表面に辛草を撒いていく。綺麗な空色に染まっていったのを見届けると、瓶を転がしてその表面に手をさあっと翳していく。それが終わった瞬間、ミシミシ……と横の木立が音をたてた。
軽々と弾け飛んだ太い木に強く警戒した瞬間、突如として全ての動きが停止する。ゾッとするほど大きな四本指の手が車の支え木の一つをがっちりと掴んでいた。走るおもちゃの車をやすやすと掴んで止めるなんてーー何という力だ。
しかし、指なら切れる。
「疾ィッ」
一息のうちに抜き去った剣が車をつかむ指の一本を切り落とし、私の頬へ黒々とした血が点々と飛び移る。モゾモゾと動きを止めない指を車外へ蹴落とす間も無く、怪物に止められていたクィルドーが動き出す。
私は即座に布を投げられるように合図し、そして次の瞬間車内を覗き込むように現れた顔に向けてその布を押しつけるようにして投げつけたレーベの服の裾をはっしと掴む。滑り落ちかけた体を引きずり上げると、その表情は一気に五歳ほどは老け込んだような形相だった。
怪物は自らの顔にへばりついたそれがあまりに刺激の強いものが塗られていることに痛みを感じて暴れまわり、周辺をのたうち回りながら絶叫を繰り返す。
遠ざかるその音に安堵しながら、私はぐったりと車内に倒れ込んだ。




