代償
私を傷つけることができないというのは、例の水に関する出来事だった。水が足りなくなればこの家での全てのことに支障が出る。水を潤沢に使えなくなるのは、この大貴族であるアショグルカ家からすればありえないことであるからだ。加えて私は他国の貴族の使者であり、アショグルカ家当主は私のことを客人として接遇するよう通達している。
しかし、アショグルカ家に怨恨を抱いている場合、それは全く異なる結果を生むのだと認識していなかった。
つまり、考えがひたすらに甘かった。アショグルカ家がいくら統制のきつい家だとしても、跡目を継ぐ者が突然消え、派閥が瓦解した段階でその前提は無効となる。次の世代に向けて動き出していた状況は、もう止まることがない。現当主といえど、他の候補がすることを止めることはできない。それはある種のアピールであり、有能さを示すためのものだからだ。
「……な……んで、リリン!?」
感情豊かな茶色の瞳は、今は紫色に腫れ上がった瞼によって覆い隠されている。しかしその見覚えのあるカラメルのような焦茶色の髪も、ずっと着ている侍従の服も、今朝に見たばかりだった。呆然としている間に私は背中に蹴りをくらい、同じ牢屋の中に倒れ込んだ。
「はっ、お貴族様には随分とショックだったろうな」
そう言い吐いて、衛兵の一人が立ち去っていく。それよりもリリンだ、と私はその体を抱き上げた。怪我の程度は決して軽くない。ちょうどよく私の着ている服は冷えていて、しかも大気中の湿気を吸って濡れている。あまり行儀良くはないが、クラバットのようなものを手に取って絞り、彼の目の上に乗せた。
よくみればあちこちの皮膚が腫れを作っている。骨折しているかも、という悪い予感さえしたが、一通り確認した段階で問題はなさそうだと一息つく。
それから、牢屋をようやく見回した。
「……石の牢……」
牢屋というのにふさわしく、格子状に鉄棒が嵌められて、ネズミの入る穴すらなさそうな壁だ。階段を降りてここへ来たから、まず間違いなく地下だろう。加えて言うなら……。
「貴人を入れるような牢屋ではないな」
すぐに露見するだろう作戦に、眩暈がした。ちょうどいい身分の低い他国の人間がいて、前々から仕込んでいたリュンスもいる。ちょっと姫様をそそのかせば、問題なく彼女はついていくだろう。そして他国の人間が姫を誘拐したことにしてしまえばいい。ーーそれを誰かが連れ戻せば、間違いなく、家督を継ぐ第一歩になるだろう、と。
浅はかだ。そんなこと、老人は見通しているに違いない。
そして大変に屈辱だ。あの老人は、リリンが傷ついても良いと考えている。
「リリン……大丈夫ですか?」
「う……は、いる、様?」
目が少しだけ開いて、それからゆっくりと閉じた。残念ながら、起き上がることもできないようだ。そういえば布地を買っていたのだが、とあたりを見回したところ、牢屋の中にリッカがいるのを見つけた。
「おいで」
氷を手の上に産むと、リッカはそれに飛びついて、カバンを口から離す。ちょうどいいとばかりに布をバッと敷いてリリンをその上に寝かせ、一枚布をかける。多少の汚れはついてしまうが、仕方あるまい。なるべく壁のほうに寄せて、刃物が届かないようにする。もちろんナイフなどを投げられて仕舞えば困るため、私は氷を食べ終えたリッカを抱き上げた。このモチモチの生き物、もちろん連れ歩いているだけではない。多少なら戦えるように仕込んでいる。ある程度の命令なら聞いてくれるが、複雑なことは理解できるか。
「リッカ、リリンを守ってあげなさい。……わかる?」
「きゅーい?」
私は何度かリリンを殴るふりをし、それからリリンの側に立ってその拳を防ぐ動作を繰り返す。すると、リッカはようやく理解したらしく、リリンを殴るふりをした拳に齧り付いてきた。無論甘噛みであるが。
「よしよし、よく覚えました。氷をどうぞ」
「んっきゅ」
むしゃむしゃとかじる姿は愛らしいが、リリンを守るくらいやってもらわねば困る。そこまでの信頼をおいているかと聞かれればちょっとノーであるが。そして私がとる手段はちょっと強引になる。牢の鍵の部分、そこをネジネジして開けられなくするだけの簡単なお仕事である。
簡単とは言っても、常人にない膂力が求められる。と言うわけで、ここは私の持っている魔力を応用する。これ自体はいたってシンプルで、魔力を染み込ませた物質はその魔力の持ち主に限り、物質に対して有利に働く。これは私たちが普段、雪に対しても感じているのと同じことだ。特に親和性が雪に対して高い魔力を常時放出しているため、雪で沈まずに歩くことができるし、氷に対しても剣を簡単に突き立てることができる。
と言うわけで、鉄でできた牢を冷やし、そしてぐんにゃりと曲げる。鍵が壊れてしまったが、どっちに引っ張っても開かないことを確認してふう、と安堵した。
これで、私たちは外に出ることはできなくなったし、代わりに向こうもこちらに手出しはできなくなった。私は剣を鞘に入れたまま、いつでも抜けるように背中側に置く。
そこで、どやどやと人が入ってきた。どうやら尋問をするつもりだったようで、革のバラ鞭を持っている男、さまざまな武器その他生々しい拷問道具を持っていた。しかし、鉄格子を見て唖然とする。
「な……なんだこれは!?」
「わあ、恐ろしいものをお持ちですね。怖い怖い」
くすくすと牢屋の中で微笑めば、「調子に乗るな!」とガン!という大きな音が鳴る。私の見た目が幼いからと舐めているのだろうがーーあいにくそれしきでびっくりするような育てられ方はしていない。
「それで、ルフェト姫様の居場所ですか?目が良くない方が多いんですね、この館には。こっそり出て行った子供の行方すら誰一人把握していないなんて、私の故郷なら考えられないです。今頃別館でゆっくりお茶でも嗜んでいるに違いないのに」
無能と暗に罵って見せれば、額に青筋が浮き上がる。
「ヘッ、ちょっと棒でこづいてやりゃあーー」
スッと差し込まれた槍を勢いよく捻りながら引っ張り込む。男は手を離してしまい、こちらに長物の武器が一つできた。とはいえ使い勝手もよろしくないので、これは折らせてもらおう。膝に半分ほどの部分になったところを乗せ、エイッとへし折る。
「あっ!?俺の、アショグルカ金貨三枚が!?」
「おや、すみません。でもこんなの……寄越してくれたらいただくと思うんです、普通」
こっちは要りませんね、と残りの部分を手に取って、それから勢いよく彼らの頭上にぶん投げる。石の壁に木の軸ーーのはずだったが、うまく隙間にめり込んだらしく、突き刺さった。
「いッ……!?石の、壁だぞ!?な、なんで……木製の柄が刺さるんだァ!?」
「化け物だッ!!」
男たちはどやどやと去っていく。そしてなぜか鍵をかけられた。ーーうん、予想通り。
「ハイル、様……」
「起きたのですか?リリン。実はちょっと今面倒なことになっていまして、それを避けるためにちょっと実力行使させていただきました」
「……じ、つ、りょく……よろしいのですか、それは……」
「良くはないですが、正直なところできるだけ早くアショグルカ家を出て行きたい気分になりました。謂れのない罪を着せられて、リリンが顔を腫らし、私も投獄されるとは思っていませんでしたから。この家はもう懲り懲りですね」
「ふふ、そんな……言い方、ありませんよ、けほッ」
「大丈夫ですか?強く腹を殴られたり、胸や背中を殴られたりは……」
「顔が、ほとんどでしたので、喋りにくさはありますが」
はっきりと意識を取り戻してきたのか、ゆっくりと起き上がった。そして狭い視界でようやく自分が布の上に寝かされていることを知り、それから「この布は!?」と聞いてくる。買った物だと答えたらそんな上に寝られますか、と怒られる。
「仕方がないでしょう。あなたは怪我人ですし……何よりそこに寝るには、この状況は私にとって安心できる場所ではないんですから」
「し、しかし……主人を差し置いて私だけが眠るなど……」
「水は用立てできますが、数日間は食べるものもないと思ってくださいね」
「へ?……食べ物が、ない?」
「大丈夫、最初の1日は辛いでしょうが……割と我慢できますよ。二日目あたりからは楽になりますから」
にっこりと笑った私の言葉に、リリンは今度こそ絶望した顔をした。
予想外にも、すぐにその場に顔を出したのはクラウだった。ちょっと戸惑ったような表情をしながらも、彼は食事を差し入れてきた。無論、毒味など一切なしにいただくことにする。ここまできたら彼に毒を盛られるなどは考えなくとも良いだろう。
「お手洗いなどは難しいと思われます。ご了承ください。それから、食事に関してですが、食器なども残さないよう今食べていただきます」
「ええ、わかっていますとも。体裁の為なのでしょう?ですがその体裁、どれほどの価値がございますか?」
「……ルフェト様はもう、本館へとお戻りになっておられます」
「左様ですか。ですが、私の言いたいことがわからないと言うわけではありませんよね?ーー高々田舎のいち貴族如き、とお思いだから私を試金石としたのでしょうが……ロスティリからの使者が無碍に扱われていることを知れば、ポルヴォル様であれば間違いなくなんらかの対応をとられることでしょう」
あえて個人の名前を出したことに彼はひくん、と優雅な仮面を引き攣らせる。脆い仮面だと思いながら、私はニコニコとしながら「別に、双華であればその程度どうと言うこともありませんよね」と続ける。
「……当主様にはそのようにお伝えしておきます」
「ええ、そうしていただけると助かります。……次を担う当主の方には、私がクラウさんと気兼ねなく話すことを邪魔しないような方であることを個人的に望んでいますよ」
「ーーありえませんよ、双華が双華である限りは」
今度こそ剝げた仮面はしっかりと付け直されたようだ。微笑を浮かべたまま、簡易的な糧食を入れていた袋を片付けて彼は立ち去っていった。クラウがこの家に所属している限りは、彼はいち私人としての立場は一切与えられることがないのだろう。この先、一生。
しかしそれが健全なのかどうかーー外部の者が提言しない限り是正されない当主の歪み、どんなに優秀でも磨耗をいずれ人間は引き起こし、そしてその歪みはどこかに影響を大きく与える。
「ロスティリは、素晴らしい貴族の家ですね」
「芸術というものに対しての造詣が深くなければ、使用人にすらなることができませんから。そしてその芸術というものに、ロスティリは外部から是正を受けています。……アショグルカは不健全ですが、しかしながら大きく過ちを犯したことはありません」
それを過ちといえないほどには、大きな家であるからだろう。それは正しくない認識だった。
「いずれ、破滅が起こるでしょうね。それが何年先かはわかりませんがーー今の国の体系ですら、数百年のうちに変わって作り上げられたものです。不変なのは、シハーナ宗主国の聖堂関係くらいでしょう。アショグルカの栄華ですら、そんなに長い期間続いてきたわけではありませんし」
光と闇の信仰の、その総本山。人間というものはあまりに忘れてしまいがちになる。
「……人間のスパンで見て差し上げてくださいよ、そんなスケールの大きい話をされても今動こうとは思わないでしょうに」
ふふ、と私は笑う。それができないからこそ、人間は人間なのだ。今が大切で、今をよりよくしようと動く。しかしその先に待ち受けているのは、恐らくだが……。
零から始まり、零で終わる。しかし成し遂げたことがないわけではない。失ったものがないわけではない。いつか、夢現の中で聞いたような言葉が頭をさあっとよぎった。
脅しが効いたのかは定かではないが、牢屋からは三日後に出ることができた。私自身、襲撃者や暗殺者というものを予想して気を張っていたのだが、数人が牢をこじ開けようとしたりしただけで暗器の類を使ってくることもなかった。最終的に私が鍵の部分をねじねじして牢をまた開けられるようにしたのだが、どうも化け物を見るような顔をしていたのが印象に残っている。
「此度は申し訳ないことをいたしました。ひいては謝罪の品として、こちらを」
「……ッ」
シハーナへの入国に必要な書状一式、そしてルフェトからの中央聖堂への立ち入り許可状だ。滅多なことがなければ発行されないそれを、どうやってーー私の驚きが伝わってしまったのか、クラウは口を開いた。
「こちらの書状ですが、ルフェト姫様直々に本国へ、早耳をお使いになり要請されたとのことです」
早耳とは、訓練された鳥のような生き物であり、遠方から手紙を送るのに使われる。鳥のようではあるが、鱗が多く生えており、牙も持っている。羽の先には鉤爪もあり、結構子供が襲われれば怪我をしてしまうくらいだそうだ。建物ではなく人を目標とするよう躾けられており、しばしば窓ガラスにぶつかって地面に落ちているのが目撃されたりもするが、比較的頑丈な生き物らしくたいていは問題なく飛び去っていくようだ。
「そして、姫様の護衛のリュンスの穴埋めとして、我々から一人、さらにあなたを追加で指名したいとのことです」
「ーーそれは」
願ってもないことだ、と思いつつも、侍女たちの冷ややかな視線を思い出して辟易とした気分になる。ただ、この先を思えば短い旅路だと私は少し息を吸い、それから私の侍従であるリリンの処遇や、兵士たちの扱いについて問うた。
「リリン様からはこの先の旅路について、テブルテ大王国を抜けそのままシハーナ宗主国へと向かい、そして戻るようにしてニーへへと向かわれる、と伺っております。ですのでーー兵士及びリリン様に関してはこちらの街でお待ちいただくのがよろしいかと思われます」
「……リリンを置いていくとのことですが……私、少々物知らずなところがございますので、貴族社会にある程度精通した彼を連れて行きたいのですが……」
「難しいかと。ロスティリ家は確かに、どこの貴族でも聞いたことがある名の通った貴族家ではありますが、そしてあなた自身だけがこの書状によって二重に保証されております。そしてルフェト姫様を護衛する関係上、リリンという従僕を連れていくのは……」
仕方がないか、と私は息を吐いた。
「わかりました。ーーですが、一箇所だけ変更点を。リリンたちは、デザアルへと帰国してもらいます。ここだけは譲れません」
「帰国、ですか?しかしそうなると、ニーへへ行った際にも従僕がいない関係上、パトロンになることが難しくなると思いますが……」
訝しむ顔に一瞬ぽかんとして、それから私はああ、と得心がいって、思わず噴き出した。貴族という立場に囚われているのだ、彼はその思考を間違ったものだと思っていない。普通であれば、金があるロスティリからの使いがニーへにいくとなれば、人材を選びにいくのだと思うだろう。
「違いますよ。私はそこへ、学びにいくのです」
「ま、なびに……?」
「ええ」
ありえないものを見るような目で見られるが、私はそれに構わず「ですから、彼らの待機は必要ございませんよ」と言い切った。クラウはそれを聞いて今度こそ頷き、であればと帰還のためにいくつか手配をしてくれるようだ。こちらの人員が減った分、何人か護衛をつけてくれること、加えてロスティリまで家紋がついた車を手配してくれるらしい。この家紋さえついていれば、ここいらの人間に関しては襲ってくることは一切ないそうだ。
「これで、投獄の件に関しては何卒よろしくお願いいたします」
「……はぁ」
まだ気にしていたのか、と思いつつも、生返事ながら了承にとれる返答をすると、彼は少しだけ表情を緩めた。
「では、手配の方をーー」
「遅いわよ、ハイル!さっさと準備なさい!」
「姫様!明後日にならねば出立できないと申し上げたばかりではありませんか!」
「知らないわよぉ!もううんざりなの!」
上った雨は、今朝からずっと止むことなく降り注いでいた。ゲリラ豪雨のような勢いで降り注ぐそれは全てを流しており、庭の植物は一切が全て枯れていたというのに、昼頃には芽をすっかり出していた。緑に覆われるぐちゃぐちゃの泥を見ながら、私は少しだけ息を吐いた。
次の話でリュンス視点になると思います。
ちょっと視点移動するので混乱するかもしれませんが、よろしくお願いします。




