水瓶
久しぶりすぎてホントに申し訳ないです。
翌朝、眠ったか眠らないか分からないまま朝を迎えた。くっきりとした色や匂いのある現実のような、それでいて漫然とした夢のような情景に襲われながら私はようやく視界の中に天蓋を認めた。じっとりとした寝汗の代わりに、寝台は思う様凍り付いている。ひんやりとした空気の中に暑さを迎え入れるように薄い布を避けてみれば、リリンが心配そうに近づいてくる。見れば、彼は白い息を吐いていた。
「リリン!ああ、ごめんなさい、ええと、」
「だ、だいじょ、ぶ、です。あ、あの、どうされました」
「き、昨日、ちょっと食べ慣れないものを食べて体を悪くしただけなので、その……」
「そ、でしたか。すみませんが、私、これで、し、失礼、します」
護衛の人間にちょっと聞けば、朝早くからあそこに立っていたようだ。私は申し訳なく思いながら窓をちょっと開けて暖かい空気を中に入れる。
「……あー」
部屋の中が一気に真っ白に染まったあたり、かなり冷え切っていたのだろう。私はちょっと頭をかくと、寝台を覆っていた天蓋もえい、と開ける。シーツはパリパリに凍っていて、私は苦笑いしながらベッドを叩いた。なかなか酷い凍り方である。代わりの侍従がすっと入れ違いに入ってきて温かな湯を差し出したが、「朝一番は水でなければ目覚めが悪い」と申し立てて護衛に目配せをする。彼は小さくうなずくと、侍従と共に去っていった。私の思い違いでなければ、きっと彼が侍従に私の体質についてそこそこは説明してくれるだろう。
加えて、アショグルカ家の人間を巻き込まないように配慮するつもりでもある。こんなに酷い状態になったのは初めてだからだ。
「おはようございます。すみません、先程は」
ちょっと恥じている様子ながら、ようやく部屋が暖まったあたりで入ってきたリリンだが正直あの空間に立ち入れるとしたら、私と同じか、寒さに強い種族だけだろう。現にリッカは私のそばに寄り添っていたにもかかわらず、いつもより艶々して見える。精神的な寝汗のようなものだろうが、ともかく周囲の人間が凍えるほどの状態であったようだ。
「いえ、こちらこそ……このような状態になったことがなかったものですから、動転してしまって」
「仕方がありません。私がそもそもハイル様にお仕えするに向かないのは、事実でありますから。従者たるもの、主人の赴く場所全てに行くことが出来ませんと、お世話一つ出来ませんから。触れられないなど言語道断です」
リリンがあまりにきりっとした様子でそう豪語するので、私はもう何も返せなくなってしまった。とにもかくにも、私の体調不良についてはまず間違いなく、あの老翁に伝わっていると考えてよいだろう。しかし、おそらく昨日の様子から見て、彼は手出しはしてこないだろう。表立ってしてくるとしたら、それはクリフォードの元部下などであって、あのオフェルスという老人は絶対に手出ししないはずだ。彼が『しない』と一言言えば、それは覆しようの無い事実である。
「閣下は一体、何を考えておられるのでしょうね」
私についていた一人の侍女が、ぽろりと口にした。そこにいたのは彼女とリリン、そして私だけだったが、彼女はどんよりとした空気を隠そうとせずにそのまま黙りこくった。私がこの家に揉め事を持ち込み、後継者の一人が殺された。そんな人間を歓待するよう言われている彼女からしたら、まるで納得できない気分なのだろう。たとい後援していた後継者筆頭が殺されようと、この家ではオフェルスが絶対的な法律そのものであり、逆らった瞬間に首が飛ぶ。私があえてこの位の軽口には何も言わないと思って口にしているに違いない。
「口を――」
リリンがそう言った瞬間、私は彼の袖をつまむ。
「それを口にして良いのは、私です。リリン、弁えてください」
「は、申し訳ございません」
私はす、と息を吸い込んで、「すみませんが」と口にする。
「紅茶を淹れてきてもらえませんか?それが終わりましたら、具合が悪くみえるようですからお部屋に戻っていただいて休んでくださいな。治るまでお休みになって構いませんよ」
にっこりと笑い、善意そのものから来るような遠まわしの追放宣言に彼女は目を見張った。そして唇を噛み締め、かしこまりました、と低く唸るように呟く。
扉が閉まると、私は少し張り詰めていた気持ちを解放する。
「よろしい対応でしたね。おそらく紅茶にも変な混ぜ物をするくらいで、殺そうとはしないでしょう。表立って敵対する勇気もないのですから」
「ただ、警戒だけはしておくべきでしょう。煽る輩がいれば間違いなくのぼせ上がる性質に思えますから、できるだけ遠ざけるのが良いと思います。リリンに何かされた場合の方が私、たぶん閣下のご威光を頼ることにためらいがないでしょうから」
「それは、私が派遣されている侍従だから、と言う事ですか?」
「意地悪なことを言いますね。それはもちろんそうですが、私にとって今この瞬間、心から信頼できて、他愛ない言葉を交わすことができるのはあなただけなのですよ」
リリンがいなければ、とっくにどこかが破綻していたはずである。私はほう、と息を小さく吐くと、静かに笑った。リリンはそれを聞いてやれやれ、と唇を尖らせていたが、頬がやや赤みを帯びている。寒かったから、と言い訳をこぼすことはないが、きっと自分でも分かっているのだろう。視線をさっと逸らして可愛らしいものだ。
「ふふふ」
「笑わないでください」
もう、と肩を怒らせたが、すぐにふう、と呼吸をして感情を逃したようだ。
「ハイル様の様子から、恐らく閣下に関しては問題がないと判断なさったのでしょう。ですが、周囲はそうとは限りませんし、警戒は続けなければいけないようですね。こんな時に、人間は屋外へ出ることができなくなるなんて……」
「そういえば、今日か、明日あたりでしたか?」
外の様子が気になり、素足のまま石のぬるい床を歩いていく。重たい緞帳が除けられ、厚ぼったいガラスのはまった窓に手を触れてみれば、じわり、と地面がどんどんぬかるんでいく。不自然なその様子に私はじっと目を凝らした。
「外、ひどい雨が降った後のような……」
「ええ。雨が『上る』前兆でしょう」
移動をするにもひどく面倒なのだろう。この邸宅の中であの無邪気なお姫様が静かに、大人しく過ごすとは到底思えない。重要な情報を持ってきたのもなかなかに疑わしく思えるほどに彼女は放埒であった。きっと彼女も、雨が上る弊害を知っていて、静かにしているのだろう。
窓にピチャリ、と雨粒が当たる。空はやや暗く、薄い雲がかかっている。雨足はどんどんと強さを増して行き、やがて窓の外全てを覆い尽くすほどだ。あまりの光景にぼんやりしていると、いつの間にか運ばれてきたカートに乗った茶器が揃えられ、窓の見やすい位置に椅子や机がささっと用意されていく。ありがたくそれに座って茶を飲みながら、外の景色を楽しむことにした。
雨足はやがて弱くなっていき、外はじわじわと明るくなっていく。その瞬間が最も美しい光景だった。雨粒の一つ一つが陽光に照らされて輝き、虹色がうっすらと浮かび上がる中、空へと雨の粒は消えてゆく。とんでもなく綺麗な光景だが、その実それは人の命を奪うようなものであるというのはひどく恐ろしい。それでも、リリンと二人でじっと窓の外を凝視してしまうほどに美しかった。花の全てが枯れいき、地面はひび割れを残して、白く乾いている。大気中はあまりあるほどに水があるというのに、全てそれは人の生きとし生ける場所から奪われている。無情なその光景は美しいのに、どこか陰惨さが付き纏ってやまない。
「綺麗ですね……」
「この地を知る民衆からすれば、忌まわしい雨でしょう。これから一季節分の水を確保できる人間でなければ、死ぬことが確実と言えるのです」
「ええ、それはそうですね」
空気はいっそじめじめとしているのに、全くと言っていいほど地面には水分がない。一般的な人間は一日に水をかなりの量必要とする。すなわち、死活問題と言っても過言ではないだろう。
「きゃああああああああ!!」
女性の悲鳴が部屋の外から聞こえた。若干遠くから聞こえたが、何か逼迫した事態が起きたのだろうか。私は腰を瞬間的に浮かせて警戒体勢をとる。しかし、部屋にいた護衛がその私の様子を見て、一人が状況を見てきます、と言って駆け出していった。
「……何があったのでしょう?」
「警戒しておいてください。まだ、何があるかわかりません」
足音がたったった、と戻ってくる。私はドアに駆け出していく護衛の一人がリリンに駆け寄ったのを見て、また浮きかけた腰を椅子に戻す。しかし、リリンの逼迫したような表情に、私は何かまずい事態が起きたのだとはっきり認識した。
「お、落ち着いてお聞きください。その……兵士の数人が殺され、加えて……水瓶が割られ、どうやら今現在ある水の八割が使えなくなったようです」
「そうですか」
この邸宅全てを賄う水を八割。洗い物やら料理やら、ありとあらゆる物品に使うと仮定して、どれくらいの水が必要になるか。大体一人に仕えているメイドの数、彼らが外に出られないなどなど考えても途方もない量だ。それが八割?
「いつ、賊はその水に手をつけたのですか?」
「申し訳ありません、そこまではなんとも……」
「まあ、そうですよね。リリンはそこまで知るわけもないですし、頼めば水は持ってきていただけますから。ううん……」
私は少し首を捻る。
確かに今の時点では水は大切だ。恐らく、蒸発を避けるために丈夫で、安定した水がめに入れられ、蓋をされていたのだろう。水瓶を割る、というのは重労働だ。まず間違いなく、音をたてることなく叩き割ることは難しい。
水は、汚されたのではないだろうか。汚すだけならば、それこそいくらでも可能である。水を取りに行く侍女を買収することで混ぜ物をさせたり、汚染源だって毒だけではなく、単に糞尿を混ぜてしまえばもう使えない。水だって、川からの汲み置きになる。きれいな水というのは存外少ない。それを使うことができるということ自体、大変なステータスなのだから。
湿気でベタついた額をぬぐうと、水の雫が滴り落ちる。この陽気だ、正直こんなムッとする空間であれば氷としていくらでも水は出せる。もちろん、邸宅全ての生活用水をなんとかできるわけではないが、たくさんの水を生み出せることは確かだ。まあ、私の手を経た純水ではあるので多少各種イオンが足らないだろうが。
「リリン、もし可能でしたら、私も状況を見たいのですが、連れていっていただけますか?邸内を歩くのに不足がない格好が良いのですが」
「わ、わかりました。すぐに……いえ、少々お待ちください。そのままの格好では、不埒なことを考えないやからが現れかねませんので」
彼の言葉に袖を見てみれば、夜着はしとどに濡れて肌が透けている。確かにこの顔であれば、ちょっと困った事態になるだろう。
「色が濃く、艶のある服であればごまかせるかと存じます。ご不快でしょうが、少々湿らせた服を着ていただけますか?」
「ええ、もちろん。私が着ている限り乾きはしないでしょうから」
「そうですね」
リリンが苦笑して一礼し、部屋を去っていく。おそらく衣類を調達するために出ただけなのだろう。長期の滞在となると、衣装に困る。ポルヴォルが仕立ててくれた服も、組み合わせて足し引きできるような服だった。
「あの、護衛の方……ええと、名前はなんと言いましたか?」
「はっ。イグリンと申します」
「では、イグリン。外の様子を、はっきりと報告してください」
「い、いえ、あなたのようなお綺麗な、なおかつ貴族の方に聞かせるようなものでは……」
「これでも来歴自体は武闘派ですから、多少の血なまぐさい話や汚い話も構いません。外で何があったのか、はっきりと聞かせていただければ嬉しいです」
「は、はあ……そういうことであれば」
彼は躊躇いつつ口を開いた。
「水場を守っていた人が一人死んでおりました。水を手に入れようとした侍女が発見したようで、水瓶は叩き割られていたのです。あれだけの瓶を叩き割ろうとすればおそらくかなりの音がしたはずなのに……」
割れていた?
水場を守っていた者の死体は、バラバラにされて水瓶の中にぶちこまれたり、中身をぶちまけられたりしていたらしい。想像したくもないがどうやら酸鼻を極める状況のようだ。
「シハーナの姫君に死体の入った水を供することなどできません。おそらく、残り二割をあの方々にお使いいただくことになるでしょう」
「……さようですか。なるほど……」
私は寝台から立ち上がると、衝立の中に入る。リリンの足音が聞こえたためだ。帯は水分をすいかけ、凍り始めている。無理やり結び目に指をねじこむと、それをほどいて床におとした。肩からなかなか布が滑り落ちなくて面倒だと思いながら、凍りかけのシャリシャリした布をはがしていく。
衝立は隠れる場所がないよう、非常に軽く、また何人いるかわかるよう足の部分が見えるようになっている。だから警備上、それは仕方がないことだけれども。
リリンが急いで扉を開けたくらいでがたつき、あまりの軽さに支えようとした私が衝立に倒れこんでしまうほど軽いとは思わなかったのだ。
「うわっと!?」
イグリンは護衛らしく私にだっと駆け寄ろうとして、真っ赤に赤面した。
「す、すみませ、いや、申し訳、えーと……」
何を言っているのだろうかとキョトンと首をかしげる。正直謝られることはない。助けられなかったことを言っているのだろうか、責任感が強いと感心していると、イグリンのとなりから大きなため息が聞こえてきた。
「ハイル様、隠してください」
「すみませんでした!」
イグリンの再度の謝罪に、私は男同士だしいいのでは、とあとからリリンに婉曲的に伝えたところ、さらに婉曲的な表現で、この国では子供ができたりすることを防ぐのに、男が男娼を買うこともあるらしい。ゆえに素肌はみだりに異性にも、同性にも見せないらしい。
イグリンが最初にもだもだしていたのはそういうことか、となんだか納得がいった。
ストックがあるので、とりあえず毎日一話ずつ更新を考えてますが、後で変更があればストップします。
以前の記述と矛盾する部分がありましたのでちょっとだけ修正しましたが、おおよそ変わりません。




