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饗宴

書けたので上げます。

この後の話は第一稿からちょっと修正中ですのでしばらくお待ちください。人道にもとる描写がございますのでご注意ください。

「それではどうぞ、夜までご自由におくつろぎください」

頭を下げた男はそのまま立ち去っていく。部屋は実に広く、甘くすっきりとした匂いの香が焚かれている。床に敷かれている毛皮はとても美しいもので、窓に下りている緞帳はまだ艶のある織物だ。レースのカーテンもあしらわれており、使うにはひどく気がひける。


「……私でもかなり緊張するお部屋ですね」

リリンが固まっているが、その目線はやはり壁にかけられている絵や小物に向けられている。どうやらさまざまな場所に高額な品物が無造作に使われているらしい。分からなくてよかった、と思いながらまずは旅の汚れを落としたい、とあちこちを見る。すると、水場で壺に貯められた水が見つかった。


「あ、確か、そろそろ雨が昇る季節だとか言ってましたよね?迂闊に使いすぎると、きっと怒られますよね」

「ええ……できれば体を全て水で濡らしてしまいたいくらいですけれど、今日は濡らした布で全身を拭きましょうか」


散々に重ね着していたのを全て脱ぐと、リリンは壺を少し傾け、桶へと水を移した。それから丁寧に布を絞り、私の体を拭いていく。リッカは逃げようとしたが私が首根っこを捕まえ、冷やした布で丁寧に毛皮を拭っていく。なかなかに温室生活のようなものだったから体が鈍っていないか心配だが、訓練場などあったら借りたい。


「あいも変わらず、とても白くて綺麗な肌ですよね。私も色々と手入れをしているのですが、やはり子供の肌というものは、触り心地もいい。ひんやりしていてちょっと怖くなってしまいますが」

「ーー一度、私の目の前で死んだ人を見たことがあります。彼は何故か、その体が熱くなりました。それこそ普通の人間のように、雪に触れれば溶けてしまう、そんな体に」

「え?それは……一体、どういうことなんですか?」

「素体としては、私とあなたたちは変わりがないということです。以前大会で戦った荊棘のパルヴォ、彼女も骨牙人ですがまず間違いなくその体自体はまるで、人間と変わらない」


お湯に指をつければ、ひんやりとした空気が即座にそれを冷やして氷となっていく。よくよく考えてみれば、この速度で氷が生成することもあり得ないのだ。


「パム族はどうですか?死後、どのようになるか、聞いたことなどは?」

「い、いえ。パム族は何も残らないそうなのです」

死体も、その体一つでさえも。

「故に死期を悟った祭祀長などは、副葬品とともに光と闇に見える場所に入りその生涯を閉じるそうです。墓標を作ったりするのは、その名前や体が一切残らないためでしょう」

生前から生きた記録を残したりすることが多いらしく、そういう点でも歴史をたどりやすいという。


「ですが、むしろ不都合な記録を消すのにかなりちょうどいいのでしょう。死ねば何も残りません。いたことを証明するものは、何もない」

私の全身を拭き終え、布を丁寧に湯に浸す。滑りのいい滑らかなシャツに袖を通すと、リリンは丁寧に見た目を整えてくれる。こちらを客人としてもてなすと宣言したため、少し外して装った方が良いとの判断らしい。

「その辺りの判断力も養った方がいいのでしょうけど、やっぱりハイル様は圧倒的に経験が足りない中このような場所に放り込まれておりますからね」

「リリンは一体どこでこのように習ったのです?かなりのことを色々と聞いたのに、それでもあちこちの知識があるように見えますけれど」

「ああ、それはですね。従者というものになるには、実際厳しい試験が必要なんです。場合によっては主人を家を守る道具に仕立て上げることすらある、それが従者です。とはいえ、今回の件ではわたしは年齢によって選出されたに過ぎません」


ちょっと聞いてみたらとんでもない答えが返ってきた。つまり、私がどうあれ、従者がしっかりしてさえいればお役目が務まるようになっているらしい。


「語弊がありますが、かなり近いです。マナー、禁忌、そういうもの以外はほとんど身につけない貴族もいます。おおよその人はそういうことはありませんが、なかなか社交の場に出ない人であればそれで問題ありません。近所付き合いで多少の世間話ができさえすれば、貴族としての地位は安泰ですからね」

逆にいえば、それすらできない人間はまるで貴族の世界に入ることすらできない。


「そういう意味では、確実にそうでない場所で育ったにもかかわらず丁寧な物腰と言葉を使うハイル様は、かなり稀有な存在なんです。教育が行き届いているとか、そういう話ではなくて、むしろ性質の問題でもあるのです」

「性質?教育は、それを是正するためのものでしょう」

「ええ、その通りです。しかし、生まれ持った環境に一度馴染んで仕舞えばそれはまず間違いなく後々まで影響してきます。まるで、あなたは別の貴族として生まれ、幼少期が終わったところで山野に放り込まれたような人だ」


あながち間違いではない、けれどそれを性質と言い切ってしまうことはできない。生まれた瞬間を克明に覚えているのは私だけだろうし、加えて言うなら魂が近づいただけで情報がコピーされた生き物に過ぎない。ただ社会というものを知っている記憶がそれを許さないだけなのだ。


「ああ、でも、なかなか高位の王族などと違うところはありますね。彼らは我が儘をよく言いますから」

「今の状況だと水を死ぬほど用意して、かけ流して浴びたいとかでしょうか?」

「……言いそうですね」

苦笑するというよりは本当に起こりそうで引いた笑いに同情しつつ、ルフェトの言動を思い起こしてみる。


「随分と話が逸れましたね。とにかく、相手が客人として出迎えてくれている以上、そこそこの礼儀さえ抑えていればかなり良い持て成しを受けて帰れるはずです。今後取引をする相手でもありませんしね」

「芸術家の輩出をしているのでしょう?いいのですか?」

「プラスティアーゾは育成は行いますし、有望な画家であれば手数料を取って絵画の販売はしますが、音楽家や画家の引き抜きに関しては一切関知していないんです」

「そうなんですか?」

意外な話だとリリンをみれば、彼はちょっと肩をすくめた。


「難しい話ではありませんよ。私たちは芸術家がどのような人であれ、その居場所を制限したりすることを美しくないと思っているからです」

実に納得できる理由に、私はちょっと笑ってしまった。


夕方もすっかり過ぎて夜の色が濃くなってきた頃合いで、夕食です、と呼ばれた。どうやら部屋の外で食べるようだが、服は本当にこれで良いのだろうか、と思っていると、リリンにそのまま背中を押された。

「ええ、ただ今伺います」

すぐに白く塗られている壁に囲まれた廊下に出ると、侍女がスッと歩み寄ってきて一枚の紙を手渡してくれた。それを見ると、禁忌のマナーが書き連ねられている。

「少し、ゆっくり歩いてもよろしいでしょうか?お客様に、月光に照らされた庭をお見せしたく」


どうやら気遣いの類らしく、私は静かに笑って頷いた。


庭は見たこともない植物が多く植えられている。そのどれもが私の身長ほどの高さであり、茎というより葉の集合体のようなものが多い。時計草に似た花に顔を近づけてみれば、薔薇のような香りがして驚く。

「とても良い香りでしょう?こちらはクレンメに似た香りがあるのです」

「クレンメ、ですか?」

「クレンメは白く、小さな花を咲かせるのですが、普段は異臭を放つのです。しかし、雨が上り出す前の一晩に、とても良い匂いをさせるのですよ。あちらの方が少し華やかな香りになりますが、その時期を見計らって一晩だけ作られる香水はとてもこれに似ているのです」


クレンメは基本、どの家庭でもあるらしい。育てやすくその価値もかなりあるが、日頃は臭い匂いを放つため大量に育てるのは香水業者だけだそうだ。

「雨の時期を知るには、クレンメが一番ですからね。どんな予言師でさえ、クレンメを覆したことはありませんから」

「雨が上る、でしたっけ。やっぱり大変なことなのですか?」

「ええ。雨が上る時期には、全ての収穫物を戸外に置いておくと水分が失われます。家の中ならば大丈夫なのは、おそらく光がその全てを操っているからなのでしょう。その時期になると蝋燭すらつけることはありません。家の中に全ての水を置き、その間は全く外出をしません。その雨は二週間ほどの期間が過ぎれば全て元通りになりますゆえ」

「そんなことが……」


災害のようなものなのだろうが、本人たちはいたってけろっとしている。

「なぜか家畜やそういったものには影響がありませんから、食べ物と飲み水にさえ注意していれば滅多に死人が出ることはありません。また人間以外の種族には影響がありませんから、割合にそういう人々が外に出て商売をすることもあります」

「え、人間だけがそうなるのですか?」

その言葉にギョッとしつつ、私は思考を巡らせる。肥大化する病、それから水を体から失い死ぬ天災。どう考えてみても、人間がかなりまずい立場に追いやられていることは確かだ。


「……一体、なぜこんなことが起こるのか、考えたことはないのですか?」

「ええ、ありますとも。しかし、全ては罰だと私たちは判断しています。テブルテ大王国がシハーナ宗主国に降ったのは、その罰ゆえだと」

「一体、人間は何をしたのですか?罰とはいったい何に対するものなのです?」

「存じておりません。ただ、現在のアショグルカ家ではそのことを知り得ない。そして、その罰を知るため、ようやく今回シハーナの重鎮のお嬢様を招かれたのです」


紙に書いてあることはとても単純な、純粋な注意のみだった。私はそれにさっと目を通す。

「基本的なことですね」

「ええ。ですが、それをできない者が多いのですよ」

挨拶ひとつまともにできぬ者が多過ぎる、と侍従は嘆いてみせた。


「その罰を知ることさえできれば、我々はまず間違いなくテブルテ王家に並び立つことができるのですから」

「……そういう、ことですか」

その罰を知らなければ、前に進めない、正しく国を導くことができないというのか。しかし、何にしても罰が重たすぎではなかろうか。それとも、デザアルは混血により、罰が薄くなったのだろうか。


「それでは、お食事の場にご案内いたします」

手にしていたぼんやりと光るランプを掲げて、侍従が歩き出した。私は慌ててその後についていく。


ギィ、という軋みとともに扉が開くと、随分とこぢんまりしたテーブルが置いてある。その上には繊細にレースで編み込まれたクロスがかけられており、大きめの皿とクッションが積まれた椅子がある。また、もう一つの椅子には金と黒で作られた杖が立てかけられている。あの杖には何か仕込まれている、と直感が囁いた。

「誠に失礼ながら、お体を改めさせていただきます」

リッカはまたもや腹を見せて部屋で安眠していたので、攻撃できるようなものは一切持ち込むことができない。私のメインの武器も、今はリリンが部屋に置いてきた。


ふと跪いて目線を下げた男と目が合った。

「クラウ……?」

どうして、こんなところに。そう思ってつぶやいたのだが、その男はそのまま全身を確認して表情一つ変えないままに立ち上がった。

「よく来てくれた、客人よ」

その声を聞いた瞬間、私の体は凍りついた。今まで目線を向けていた先をゆっくりと気配のする方に動かし、それから丁寧に跪く。しわがれた枯れ木のような老人、そのたった一人の発する重圧に震えながら。


「双華に永遠の栄光を」

「客人に跪かせる趣味はない。立て」

「左様でございましたか。それでは遠慮なく、立礼のみで挨拶をさせていただきます。私は此度ロスティリ家より派遣されましたハイル・クェンと申します」

「そうか。かけたまえーークリステアとは仲が良いのか?」

「エスティ様でしょうか?」

「エスティ?お前はそう呼ぶことを許されたのか?」


ギラリ、とその目が睨みつけてくる。私は静かに目を伏せたまま、交わした会話を思い起こす。


「恐れながら、彼女はすでに自らはただのエスティに過ぎない、と口にしておられました。彼女自身、村の人々にはエスティと呼ばれていましたので」

「そう、か。彼女の息子は、元気か?」

「はい。村で久々に生まれた子供だということですから、大事にされると思いますよ」

「しかし、村では危険だろう?すぐにこちらに呼び寄せた方がいいのではないか?」


そうすると言え、という目線に残念ながら応えることはできない。私はあちこちから注がれる圧力を跳ね除けるように、一度呼吸をした。

「恐れながら、それは不可能です。ここはとても暑い場所ですので、まず間違いなくフェイのようなまだ小さな赤子では死に至るでしょうから」

はっきりと死亡を口にした私に全員が色めきたつが、それを老人が片手で抑える。


「それは、どういうことかね?」

「極々簡単なことです。私たちスニェーの一族は、体から冷気を発し、人が到底住み得ない場所に住むことができる種族です。そして、そのかわりに熱への耐性をひどく失ってしまうのです。それこそ、温かい空気の中で生きることは難しいでしょう」

フェイはおそらく、人に触れることはできていたから熱への耐性もいささかあるだろうが、それでもテルシュ越しに触ることを徹底していた。お乳ですら冷ましてから与えたらしく、実際間違いなく体は熱に弱い。

「私が今ここで活動しているのは、ひとえに体から発する冷気を全て操り、体の周りに留めているからです」

厳密にはいささか異なるが、と思いながらそれを口にしてグラスの水に手を伸ばす。パキパキ、という音を立てて水がゆっくりと凍りついていく。

デモンストレーションとしては申し分ないだろう、と思いながら老人の顔を見る。


「そうか、ならば訓練を終えればお前のようにここへきても問題はないと?」

「ええ。ですが、この冷気を操ることができるのはひとえに才能によるところがありますので、即座に是とはし難いとお答えします。それから、スニェーの一族は基本的にその寿命が長いのです」

軽く見積もったところで、数百年は間違いなく生きるだろう。

「私の村長は、そうですね。そこにおられる方と同じ程度の年齢に見えますが、数千歳とおっしゃっていましたから、多少血が混じったところであなたよりも、はるかに長く生きるでしょう」

「……なるほど。すぐに、手配をさせよう」

「最後に、エスティ様は両足を失っていらっしゃいますが、どうやって動かすおつもりですか?」


沈黙の帳が落ちる。


今度こそ、はっきりと言うべきだろう。

「エスティからフェイを取り上げ、この家に連れてきて、一生をこの場所で過ごさせるおつもりですか?」

「……それの何が悪いことか?お前に指摘されるまでもなくわかっていることだ」

「悪いとは言いません。しかし、良いとも言えない。小さな子供で、その資質もわからぬ間に、アショグルカの名を植えつけて、家を託そうとしているのですか?エスティの子だからというだけで?」

「ふざけるな。お前はただの、理想を語る子供だ!!」

「子供が理想を忘れてしまったら、いったい何になるというのです」

ふん、と鼻で理屈めいた老人の妄言を笑い飛ばす。しかし、老人はグッとそこで奥歯を噛み締めるような顔になった。ここで会話を断ち切られるか。震えながら彼はうつむき、それから勢いよく口を開けて笑い出した。


「あっはっはっはっは!!」

「……え?」

まるで顔の全部が口になるかの如き勢いで呵呵大笑すると、ようやく収まったところで涙を拭って両手を叩いた。ずらりと出てきた人間が料理を並べていく。


「全く、エスティと同じことを言いおって。手紙を読んだわけでもなかろうに、愉快な糞餓鬼だ」

「お、お褒めいただき感謝します……?」

「ああ、良い良い。別にお前をどうこうしようというつもりはない。ただ、お前からエスティの残滓すら感じ取れれば、とここに呼んだだけだ。しかし、そうか……懐かしいことだ。お前も言った通り、人間の寿命は短く、その力も弱くて儚い。だからエスティが生きていて嬉しいと思うのだよ」


さあ、食べてくれ、と並べられたそれには、肉料理が多く見える。


「私は最近内臓を悪くしていて、野菜を多く食べなければならないと叱られたのでね。さあ、早く」

私は言われるがままに、その肉にナイフを通す。言われた通りのマナーで、言われるがままに、その肉を口にする。


ぐにゅ、と口の中で気味の悪い食感を放った肉は、酸味とえぐみを残したままだった。飲み込みたくはない。この肉を飲み込めば、私は何かを間違える気がする。あの紙には、料理を残さず食べると書いてあった。

「食べなさい。噛んで、飲み込むんだ」

クラウが顔を伏せて、震えているのが見えた。それを見た瞬間に、ああ、と私は表情をなくして、無理だと悟った。


ナプキンに吐き出した肉の中には、まだ血が濃くはっきりと残っていた。死後硬直もまだ終わっていないその肉に、私は口の中のものを全て、唾液の一滴、かけらの一片に至るまで全てを吐き出した。


「ーークリフォード様を、どうされたのですか」

「君に応える義理はない。この料理は、やるせ無い思いを込めた、それだけの料理だ。全てを手に入れるために、私は準備してきた。後継も見定めた。そこに余計な色気を見せるようなものを持ち込んだ者に対して、それを責めるつもりはない。後継の見定めが甘かったのだ。しかし、どうして我が血族を亡くした恨みを晴らせようか」


静かに口の中に未だ残っているえぐみが、全身をぐるぐると巡っては責め苛む。

「私は、あなたに両手をあげて歓迎されているとは思っていませんでした。しかし」

これはあまりにも。


「寿命の話も、フェイをここによこすわけにいかないことも、全てエスティの手紙に書いてあった。母親の妄言であればよかった。しかしそうでないのなら、私はいったいどうすれば良い?」

一枚だけ自分の前に置いてある肉の皿を手に取り、彼は静かに笑った。焼かれもしていないその臓器の形は、楕円であり、そして太い血管と思われるものが見えた。心臓に刃を入れながら、老人は唇を一度引き結び、それから端を切り落とした。

一度それを天井にあるシャンデリアの光へかざす。ポトリ、と皿へ赤い雫が落ちる。


「ただ、出しただけだ。血の一欠片でもお前に受け継がれればと、そう考えただけだ。数千年も生きるならば、我が血族も浮かばれるだろう?」

二股のフォークの先につけた肉片を、杖をつきつつよろめきながら私に差し出す。私は静かに、呆然とした表情で彼を見つめた。手元が定まらなかったのか、私の唇の上へと肉はくっつく。

すう、と落ちた血液が、口の中に垂れて落ちる。もはや、抵抗すらできなかった。


それを見届けた老人は、その黄金色の瞳からすう、とひとつだけ雫を落とし、それから静かに憑き物が落ちたかのように前のめりだった姿勢を元に戻して席につき、それから胡乱げな眼差しで元あった場所に戻そうとしたのか、皿の上にフォークを取り落とした。二又のそれは激しく音をたて、肉は白いかけらの中に落ちて私の目からは見えなくなった。


「私がこのようなことをしたのを、どうか許して欲しい。君の望みをいいたまえ。できうる限り、叶えよう」

「ーーあなたは」

いや、私は。


それでも、欲望のためには、膝を折ることができない。

もはや欲望というよりは、妄執に近いそれを、この惨事の前ですら捨てることができなかった。今すぐ帰してくれだとか、こんなことするのは間違っているだとか、否定の言葉一つ吐くことすらできなかった。


「わ、私は……私は、知りたいことが、あるのです」

それを口にした私は、いったいどんな表情をしていたのだろうか。私がようやく部屋に帰って、翌日になるまでまるであのひどい記憶からはまるではっきりしないままだった。ただ、あの鮮烈な黄金から流れた涙と、心臓の色、それの味はべっとりと脳裏からはがれることはなかった。

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