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無音の世界

クラウ視点になります。ちょっと迷ったので荒いですが掲載します。

クラウローレン・フォーレ・エスファという名を親から賜ったときには、既に私は私という存在以外として認められなかった。


テブルテの人間は、幼少期には名前がない。人としてようやく認められるようになった段階で、初めて名前を呼ばれる。庶民であればこのような慣わしはないし、おそらくこのようなまともではない因習を受け継いでいるのは王侯貴族だけだ。


私は見慣れた長い廊下を仕事終わりの報告のために歩く。白くて長く、埃ひとつ見かけることのないその場所はひどく無機質で、数日ハイルと過ごしたあの小さな車内の方が居心地よく感じてしまうほどだ。ほんの数週間一緒にいただけなのに心をなかなか開いているのは、今胸にしまっている手紙のせいだろう。クリステア様のことをエスティと呼んでいたこともある。


チェンブロ・エスティ・クリステアは、この家において非常に異質な存在だった。私が初めて彼女を目にしたのは、クリフォード様に引き合わされるという段になってクリフォード様がいらっしゃらない、という時だった。


「お前がクリフォードの従者筆頭だね?」

まるで男のような格好をして、髪を後ろで一つに括っている。はしばみ色の目のみがはっきりとしたアショグルカ家の家系であることを示してはいたが、正直に言えばその顔立ちはクリフォードの絵姿とは似ても似つかなかった。


「あなたは一体、どちら様なのですか?」

幼さゆえの無知には寛容だったのだろう、周りの者が冷や冷やした表情で自分たちを見つめたが、私に構わず彼女は何、と微笑んで首を傾げただけさ。

「クリフォードは無難に育てられる。そうあれと育てられているからな。性質も多くを望むが、おそらく足枷をつけるつもりなのだろう。今はよくわからないだろうが、覚えておきなさい。『お祖父様には従うこと』だ」

「お祖父様……もしや、あなた様は」

「聡い人間は好まれる。しかし、あまり賢くなってはならないよ。上の人に嫌われる」


にこやかに言ってのけた少女はケタケタと笑うと私の頭をぐりぐりと力強く撫でて、「用事は以上だ。クリフォードはもうすぐここへ着く」と口にし、その通りにクリフォードはやってきた。私はすっかり彼女の手のひらの上で転がされているような、それでいて不思議に嫌いになれそうもない気分でいて、なんだかおかしくなってしまった。それからしばらくして、私が本格的にクリフォードのところで住み込みで働き始めた時だった。10歳になっていた私はある日、上司である男に呼ばれた。彼は名を持たず、皆からは侍従長としか呼ばれていなかったが、とても慕われていた。


「ああ、クラウローレン、今からクリステア様が次代を継がれることが決定しましたのでそれをクリフォード様にお伝えください」

「……は?」

後継者というものは明言されていなかったが、それでも女性がアショグルカ家を継ぐなんて、という思いと、それからそれもそうかもしれない、という思いがせめぎ合った。しかし、クリフォードが家を継げないということになると、ひどく荒れるかもしれない。クリフォード様は後援を地道に増やしていたし、特にクリステア様を嫌っていらっしゃったからだ。


「失礼いたします」

「なんだ、クラウか。どうした?」

「……単刀直入に申し上げます。クリステア様が、次代の後継者に任命されました」


そう言った瞬間、クリフォード様はまるで理解できないという風に頭を振って、それからもう一度言ってくれ、と低い声でつぶやいた。私はその言葉を繰り返す。

「……双華を背負うのが、女だとお祖父様が、そう認めたと?」

ギラギラとした輝きが指の隙間から覗く。その瞬間、全身の毛が逆立つような気分に陥った。私が肯定を返すと、耳の横でけたたましく物が割れる音が響いた。背にしていた場所に陶器が当たって砕け散り、割れたのだ。私は一瞬ののちにギョッとして、それから恐怖で動くことができなかった。


しかしそれは幸運だった。何しろ、もう一つ物は飛んできていて、ちょうどそれは私の逆側にぶち当たった。


しばらく一通り暴れた後、クリフォード様は出ていけ、と叫び、私は丁寧に挨拶をしてその場を辞した。それから数日間、私はクリフォード様を宥めるのに必死だった。何しろ、「お前も私を見限ってあのエスティの方を選ぶのだろう」と叫んだり、「どうせ後継者ではないのだからお前が私に付く必要もない」と喚き散らしたからだ。

しかし、私は根気よくそんなことはないと言い聞かせ、それからさまざまに宥めすかしてようやくまた元通りの生活に戻っていった。そして、クリフォード様が十五になるかならないか、そんなあたりでクリステア様の部隊にいた男の一報が家を震撼せしめた。


何しろクリステア様は優秀であったし、家に対する愛着もそれなりに持っていたと私は考えていた。しかし、クリステア様に提供したクリフォード様の部下は、『クリステア様が古のものを前にして部隊を裏切り、ついには一人逃亡した』と報告したのだ。すでに引退を決め込んでいたように見えたオフェルス閣下はすぐさま動き、それでもエスティがいない、逃げた、という話しか聞こえて来なかった。そんなまさか、という思いは全ての者が持っていたが、いかんせん本人が不在であり、かつ全ての人間が口を揃えて逃亡したと口にしている。その中には貴族の者もおり、発言としては無視できない。


故に閣下はそう処理なされたし、クリステア様についていた人間たちも自然、それに付き従った。


しかし、今回はまるで違う。クリステア様の部下にいた人間は、今思えばかなりの人が貴族ではあったが後からクリステア様に降った人が多かった。つまり、派閥争いだったのだ。派兵された先でも十分に注意していたであろうに、古のものに襲撃を受けたことは傷やなんやかやから証明されているので非常に不運なことが起こったのだと言って間違いない。


「……おや?どうされました、クラウローレン」

「あ……侍従長。すみません、内々の報告がございまして」

「おや。それでは閣下も一緒に聞いた方が良さそうですね」

にこやかに言ってのけられたが、私はあまり閣下と話したことはない。それをどこまで信用していただけるかどうか。


「心配しなくとも、配下の報告を無碍にする方ではありませんよ」

「は、はい」

胸元には手紙が入っている。そうだ、これがあれば問題ない。


加工しにくい黒木(モッサラ)の扉は丁寧に磨かれて埃ひとつ溜まっていない。それについている輪をかちん、と鳴らすと、中から扉が開く音がした。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

言葉少なに中に入り、私はすぐさま背筋が凍るような思いをする。奥から、金色の目がこちらを睨め付けていた。クリステア様とそのはしばみ色以外は生写しのようだ、と思う。女性的な柔らかさをあの顔から抜いて仕舞えば、全て同じように見える。


高く少し大きめの鼻、薄い皮肉げな唇、そして鋭い目つき。全てが厳しさと傲慢さ、それから不満や苛立ちを秘めているようで、全身で叱責されるような気分にすらなる。

「そちらの男は、クリフォードの部下だな。一体何用だ?」

「……あ、は、はっ、私めは此度、クリフォード様が閣下の代行として面会した、ロスティリ家との報告をしに参りました」

「ああ、田舎貴族か。私が調べても特に顔繋ぎ以外のことはなかったのであろうが、何かあったのか?このように私に報告するほどの、事態が」


そうでなかったならばお前の首を切る、と言われそうな雰囲気に、私は胸元にしまっていた手紙を取り出した。


「……その使者から、こちらの手紙をお預かりしました。どうか、表面のサインだけでもご覧になってはいただけないでしょうか」

閣下と侍従長がアイコンタクトをし、後ろから出てきた女性がその手紙を手に取り、それから困惑した表情でそれを侍従長に手渡す。


「その……これは、私が判断できる領域では……」

「どれ?……えっ」


初めて見た侍従長のぎょっとした顔に驚きつつも、当然かと思う。すでに死んだ人間と思われていたクリステア様から手紙が届いたのだから。しかも、筆跡もまず間違いなく本人のものだ。侍従長から手渡された閣下もまた、目をカッと見開いて、驚きをあらわにしている。


「本日面会したロスティリ家の使いは、それを本人から預かり、さらに家宝の剣も持っておられました」

「家宝の剣?まさか……そうか。それで、剣はまだその使いが持ったままなのか?」

「い、いえ、その……」

これを言えば、確実にどやされる。


「クリフォード様が真贋を確かめる際に偽物だと仰いまして、それから破棄の名目で回収して今はクリフォード様の手元に……」

「何だと!?お前、主人がそのようなことをして、黙って見ていたのか!?」

「……申し訳ありません」

「この件をなぜ直ぐに儂の所に持ち帰らなかった!この件を有耶無耶にして客人から剣を騙し取るとは、どういう神経をしておる!!」

「……申し訳ありません」

「ーー謝罪すれば良いというものでもありませんよ。他に預かったものはありませんか?」

「あ……はい、ございます」


散々に正論をぶつけられたが、侍従長の言葉にもうひとつ包みにくるまれていた飾りを引っ張り出す。ふと、閣下の顔つきが和らいだ。


「ほう、それを受け取ったか?」

「え、あ、あの、はい。それが何かありましたでしょうか」

「代々アショグルカの宝剣は一代ごとに手を加える決まりになっているのだ。それがなければ剣は正しい宝剣とは呼ばれえぬのだよ」

「と、いうことは……」

「それを知るのは後継者と儂が定めた者のみだ。さて、手紙の中身は聞いているのか?」


一気に軟化した態度に、温度差で体を壊しそうだと思いながら「完全に私信だ、と伺っています」と言うと静かに封蝋を開き、それから読み始めた。しばらくは紙を捲る音のみが響き、そして十数枚にわたるその紙を全て読み終えると、トントン、とテーブルの上で揃える。

「……そうか、子ができたのか。……しかし、両足を失い、移動できなくなっているとは思いもよらなんだ」

「は、はい。使者の方からそう聞いております」

「む?その使者は、もしやエスティと直に面識があるのか?」


私が「そのようです」と返答すると、閣下の顔が薄く微笑んだ。人間というものは恐ろしいものが一気に人間的であったり、優しい面を見せると親近感を覚えてしまうというものだが、今まさにそれを感じている。

「そうか。それでは、その客人をここに呼べ。クリフォードにも呼び出しだと伝えろ。それから、お前にはひとつ、頼みがあるのだよ」


テーブルの上に置かれているのは、刃が薄く丁寧に磨かれた無骨な短剣だった。混乱している脳に染み込ませるように、侍従長はそれを手に取り、ゆっくりと私の手に持たせる。はっと彼の顔を見れば、薄く開いた目が奥から覗いている。

「あ、う、な、な、何ですか、これは」

「クリフォードを殺せ。クラウローレン」

「な……こ、今回のことは流石に見過ごせない瑕疵でしょうが、それは廃嫡とかでは済まされないのですか?」


にっこりと笑った侍従長は笑みを一瞬にして消した。


「実は、クリフォードは『叛逆』の兆しがあります。独自に兵を集め、それから内部の者に声をかけて回っている。故に、今ここで始末しなければならないのです」

「へ……?」

「貴方が不在の間、かなり精力的に動いていましたよ。貴方がクリフォードの指示で外向した間、彼は人脈の限りを尽くしてそのように動いていました」

「……なぜ」

そう呟いたが、自分ではよくわかっていた。


クリフォードは私のことをかつて友と思っていた。しかし、今の事実は違うのだろう。私はあくまでも上司は侍従長で、その報告も全て彼にしなければならない。彼の部分で完結するだけの仕事をしているわけではないのだ。故に、私は今回ハイルと会い、手紙を閣下にお届けすることができた。しかし、それは、本当に仕えていると言えるのだろうか。私は本当に、クリフォード様の心に寄り添えていたのだろうか。


「……私、は」

「証拠が欲しいですか?」

「あ……」

手に持たされた資料を穴が開くほど見てみても、やっぱりそこにサインされた筆跡は変わらない。私は静かにそれをなぞり、内容を確認する。ふと、一枚に見覚えがあった。武器の大量購入書類だ。一度兵士の一人から受け取って、それをむしるように取られた覚えがある。

『これに関しては忘れろ。お前とは関係のない書類だ』

もやもやとした気分が蘇るように、薄暗く心を覆っていく。


「……わたし、は、……っ、」

短剣を手に取り、そして震える手で柄を握りしめる。胸に短剣を抱くようにして、深く息を吸う。


「私は、クリフォード様の部下失格です。成功の暁には、処分をお願いいたします」

「ならん」

処分されない?そんなわけがない。飼い殺しにするつもりか?しかしそれならば、と私はもうひとつの道を口にする。

「では、首を切り国外に追放してください。主人を殺したとなれば、私はーー」

「お前の主人などではなかった。現に、お前は儂の命にそれほど悩まずに結論を出し、そして自らの忠誠心にも疑いを持っているはずだ。違うか?」


何か言おうとした瞬間に喉が震えて、声が出せなかった。私は静かに頽れそうになったが、背中をパンと侍従長に張られてよろめき、それもかなわなくなる。

「さて、それでは先ほど頼んだ用事、よろしくお願いいたしますね」

鞘をひょいと手渡され、にこやかに送り出される。私は剣を鞘へとしまい、それから懐に入れる。クリフォードの部屋へと急ぐ間、不思議と心は透明なままだった。実際、忠義忠義とは口にしていたが、それは特に形とか、感情を伴う者ではなく、義務だった。家と家同士の契約で、金とつながり、縁故を第一に考えたものであった。


ならば、友人としてはどうか?


最近では独善的な行動が目立っていたが、小さい頃は決して仲は悪くない。ある程度の信頼はもらえていただろう。しかしながら、全幅の、というわけではなかった。私は間違いなく、彼にどこかで信頼されていなかった。車の中でハイルと会話した時はどうだった?監視されることを前提に作られていなかったか?


あれこれ思い出されることはある。しかし、私はその全てに納得できる信頼を見つけ得ないでいた。ハイルと無邪気に喋っていたことがひどく懐かしい。あの子供との会話は、ひどく楽だった。

ああ、面倒だ。


「……いっそ、首だけにしてくれれば良いものを」

どろりと濁った感情が心の奥底を支配する。知らず知らずのうちに表情は抜けたようになっているのに、まるで気付かぬままに足は進んでゆき、そしてクリフォードのいる扉をいつも通りにノックして開いた。

「クリフォード様、報告が済みました。それから、オフェルス閣下からの伝言です」


少し息を吸い、それからその言葉を口にする。

「直ぐに閣下の元に出向くように、とのことです」

「お祖父様が?そう、か。剣のことは報告したのか?」

「はい。いずれにせよ、剣の出自をごまかすには閣下のお手が必要となるでしょうし……もしかして、何か不味かったですか?」

「ああ、いや。……そう、ならちょうどいいね」


ゆら、と立ち上がった彼は、ちりん、と鈴を鳴らす。兵士たちが鎧をガシャガシャと鳴らしながら集まってきて、私は慌てた。正直に言えば、ここまで叛逆の意思をはっきりと示したからだ。私はすぐさまにクリフォードの近くに寄って、「何なのですか、これは!」と怯える。兵士とここまではっきり近づいて話すこともないゆえに近くに来て構えられるとひどく恐ろしい。


「あの邪魔な老人を、循環の中に引退させてやろうと思ってね」

「は、はあ!?と、ということは、まさか」

「そのまさかだよ。あの老人が生きている限り、私はこの家を全て手に入れることができやしない。それはあくまでただの借り物、そんなんじゃあ道化に過ぎない。ならどうするか、もうわかるだろう?」


あの老害を、殺してしまえ。


「これで私は、勝利できる!このアショグルカ家を栄えさせるために、もっともっともっと高みに上げるために!私は間に合わせの出来損ないなどではない!そう世間全てに証明しなければならないのだからな!」


ああ。

これは、不要だ。

アショグルカ家は、今あの老人によってギリギリ成り立っている。理解してしまった。ここにいるほとんど全ての人間があの老人によって支配され、そしてなおかつクリフォードはそれに気づいていない。もし外に向けても同様のことをやっているのだとしたら、アショグルカ家はあの老人がいなくなってしまえば、例えクリステア様が帰ってきても変わらない。


「……こんな不甲斐ない主人ですまない。もっと高みを目指すから、ついてきてはくれまいかね?」


違う。

違うのだ。

私はただ、平穏でありたかったのだ。こんな、こんなぎらつくような目をした男を主人と定めたわけではない。なぜ私はこんなところにいて、それからこんな答えを求められているのだろう。


自然に跪いて、それから目頭を押さえた。


「全ては、双華の栄光のために」

敬意の先は、目の前の男ではなく、あの老人に、そしてこの状況を作り上げた家門に向いていた。私は静かに礼をいう男に対して、もはや何の感慨を抱いてすらいなかった。いや、もしかするとこの私が道具としてまともに機能できたことに対して嬉しさを感じているのかもしれない。


「ああ。それでは、行こうか」


先ほども開けたあの扉を開ける。次の瞬間、事態は劇的に動いた。クリフォードは即座に命令を下し、それに従って老人の首に剣を突きつける兵士たち。もしかして、把握はしていたが掌握はしていなかったのか、と背中に冷や汗が伝う。それでも、今ここでその老人を失うわけにはいかない。細く、小さな体だ。しかし、それを崩せばたちまちこの家門の全てが崩壊しかねない。


「どんな気分だ、オフェルス!お前が散々守ってきた椅子など、この程度だッ!!私こそがこのアショグルカ家を国の天辺に押し上げるために必要とされる人間なのだ!!」

「……どんな気分、か。随分と舐められたものだな」

「はっ、虚勢か?見苦しい、見苦しいな!やってみれば呆気なく、全ての人間がお前を裏切った!」

「裏切った、ねえ。この人数を集めて、高々こんな爺一人すら、己の手で殺せないのかね?」

「は?」


ごっそりと表情が抜け落ちたような顔で、クリフォードは己の祖父を見つめる。

「お前にはあえて、何ひとつ褒め言葉を言わぬまま過ごしてきたな。それは、お前の頭がいいと思っていたからだ。バランス感覚にたけ、政治も上手い。現にこれだけの人間を集めてみせた。今、私は心からこう思っている」


静かに笑っている祖父を見つめたまま、クリフォードは動かない。私は懐に手を入れた。


「お前が生まれてくれて、よかった。なぜならーー」


剣を引き抜く。


「ーー忠義に厚い使用人が、また私の手元に増えてくれるからな」


ぞぶ、とほとんど抵抗なく貫いた刃はほとんど根っこまで入り込んだ。胸から飛び出た短剣の先を信じられない、という表情で見ながら、彼の口からグボッ、と湿った音がした。その光景を目にした時、私は驚くことに口から謝罪を勢いよく吐き出した。

「ブボッ、ゴブッ……ぉぼッ、お前っ……」

「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありませんーー」


ですが、と私は唇を開く。

「このお家が善くあるためには、あなたのような人間は不要なのです」

「あ、あぅ、ゴホッ……な、で、……くら、う」


名前を呼ばれた瞬間に感じるはずの痛みや感傷も一切なかった。私はただ、その場に突っ立って静かに彼を眺めていた。

「さて、これで侍従長もそろそろ引退できますね。あなたが次の、顔なき者です。クラウ」

しっかりおやりなさい、という男に、私はただ胡乱にはい、と答えた。


次にハイルと会う時は、きっと名も呼ばれないだろう。それだけが心残りだった。

しばらくストックの書き溜めに入るので休業します。

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