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剣術

私はふ、と息を吐いて、矯めた膝を一気に引き伸ばす。父に飛びつくのと同じ位のスピードで、その体に飛び込んだ。そして、あえなく鍛え抜かれた体に敗北する。

ぺち、とか、へち、とか、そんな音でたとえられるようなひどいパンチだった。そして、同時にフィローは「いい拳だったぞ」と私を褒め、胸元をちょっとだけ深めに裂いた。赤い筋がすっと入って、ちりりと痛んだ。そして気がつかぬうちに血がどろどろと流れ出てくる。


「い、いったぁ!?」

痛いのは分かっていたけれど、結構なものだった。私はむぎゅ、と口からもれ出た苦悶の声を押し殺して、半泣きでうずくまる。涙目のままふとフィローの奥が見えて、ぐっと喉から出てくる悶絶の声を押し殺す。


フィローの奥には、先ほど中に運ばれてきた獲物の頭がおかれていた。正面から私を見つめるそれは、まだ生きているように、口の端から血泡を吹いていて、その目はガラス玉では到底できない憎憎しげな光をまとっているように見えた。


その首は綺麗に切り落とされていた。つややかな毛並みを踏み荒らし、皮膚に食い込み、肉を断ち、骨を砕き、そしてその行程をもう一度繰り返して、首は落ちたのだ。

彼は真剣に、真正面から戦ってフィローに八つ裂きにされたのだ。私が、こんな傷ごときでわんわんとみっともなく泣き喚くのは、彼に対してひどく失礼を働いているのではないか、そんな気持ちが沸き起こって、さあっと頭の中の熱が冷めていく。


痛みは、ある。けれど、薄皮がわずかに切り裂かれ、肉を裂いたのはほんのわずかだけだ。一歳半ごろに転んだりした以来の久方ぶりの痛みと言う感覚に脳が過剰に信号を送り出していたようで、頭がはっと醒めればそれくらいのもの、転んでしまったくらいの痛みだった。


「おし。立ち上がったな、坊。強い、いい目だ。きっとお前はどでけぇことをしでかしそうな気がするぞ。ティオ坊、俺の背負い袋から塗り薬とって、こいつに巻いてやんな」

「あ、はーい!」

私はそこから丁重につなげて並べた箱の上に寝かされた。実際そこまでではないのだが、塗り薬はちょっとしみて、斬られたときより痛いと思った。


「ぬぐぐぐぐ」

「変な声出さないでよ、笑っちゃうだろう。うん、よし。綺麗に巻けた」

少しばかりゆるめに巻かれたのは、今日ははしゃぎまわらず大人しく家に帰れと言いたかったようで、そこから有無を言わせずに抱き上げられ、家に戻された。両親はフィローに英雄の噛み傷(ノッグ・シャート)をもらったという話にひどく嬉しそうだった。獅子舞に頭をかんでもらうとか、そういう類の縁起担ぎなのだろう。


「よかったわねえ、ハイル」

「うん。でも、もっと解体場でいろんなもの見たかったのに」

「しょうがないわよ。フィローさんはもっと忙しいのよね、顔役の任も長老様から任されているでしょう?そうすると、この集落に立ち寄るのは長くても五年に一度くらいのものだもの。解体場は今度、お父さんかお母さんと一緒に行けば問題ないわよ」

「んー、じゃ、約束ね?」

「ええ。約束」


そう言ってしまえばもう解体場に心残りはない。あの大きな体躯の獰猛そうな獣を葬り去ったフィローには多少聞きたいことはあったが、私はもういいや、と大人しく眠りにつくことにした。


翌日の朝から、食卓には美味しそうな肉の匂いが立ち込めていた。フィローが勇敢な子供が生まれて嬉しいから、一番うまいところを分けてやろうと言ってくれたらしい。

私の体も成長期なだけあって、ひどく肉や油を愛してやまない。塩をふりかけ、両親はそれにべべリアを生ですりおろしたピリ辛で黙々と食べていく。


肉は仔羊の肉に似た野生味を持っているが決して臭いと感じるようなものではない。むしろ絶妙な焦げの香ばしさと相まって、非常に美味い。肉はむっちりとした歯ごたえがありながらも硬すぎず、弾けるような旨味を口の中に残していって、後味はすっきりとしていて脂のいやらしさがない。


夢中で噛んで飲み込むと、蒸して良く潰してあるニチェッカを滴っている油に絡めてもぐもぐと食べる。ニチェッカの味自体が淡白で、甘みもさらりとしているので、肉汁そのものの美味しさという初めての感覚に夢中になった。ものの数分で肉は綺麗になくなり、そしてその場にいた両親と私はようやく料理を口に運ぶ手を止めた。

たぶん、今生で一番うまいものを食べた。


ただ長時間ローストしただけの肉だ。だが、これほどまでに夢中になるとは想像すらしなかった。


はあ、と満足と、それから不満足から溜息をついた。前者は美味い肉に対する心持で、後者はもっとたくさんあったらよかったのに、という気持ちからだ。私はその点欲張りであるのだろう。

「また、食べたいね。お母さん」

「ええ、でも、たぶん今度はもっと後ね。でも、ハイルがこれを獲れるようになったらきっともっと食べられるようになるわね。ふふ、美味しいご飯にかわいいハイルとかわいい夫、私は幸せ者ね」

「ちょ、ちょっと待って。さらりと今俺のことをかわいいって言っただろう、訂正してくれ!俺は格好いいだ、格好いいだぞ、ハイル!ああ、ハイルが間違えて俺のことをかわいいなんて言った日には……」


父のおろおろした様子に、私はちょっとだけいたずら心がわいた。

「お父さん、かわいいよ?」

石でも顔に投げられたように、口をぽかんと開けて、それから一気に苦々しげな顔に変わっていく。つくづく渋面が似合わない美少年振りだが、もごもごと部屋の隅っこに陣取ってこっちをちらり、ちらりと見てくる。さすがに可愛そうになって、冗談だよ、お父さんはカッコいいけどというと一気に機嫌が急上昇した。


「ほぉらぁ!!今ハイルがカッコいいって言った!やっぱり俺、格好いいんじゃないか!」

「ちょっとあなた、うるさいわよ」

ぽかりと拳の関節部分が父の頭に当たり、いい音を立てた。かなりの痛みを産んだようで、半分涙目になってそれから母は口先だけで謝りつつもその様子に笑い転げていた。


その日の昼間に、私が広場のほうへ向かうと、フィローが私を見つけてひょいと抱き上げた。

「うわあ!?」

「よう、おちび。お前も参加してみるか?ちょっと剣の基礎でも見てやるよ。参加しな」

片手でらくらく振り回せるくらいの重みの枝を渡されて、それからフィローと同じように振るように言われる。


「スニェーの剣は、片手だけで操る。元の腕が他の種族と比べたってかなり頑丈だからな。雪に埋もれねえったって、持ち歩きに不便だし。それに、いざというとき自害しやすい」

「じ、自害?」

「ああ。獰猛な肉食の獣が多いんだ。万が一ってくらいだが、痛みってのは昨日みたいに人をひるませる。痛くて動けないままなぶられて食われるってのは、きつすぎるんだ。……わからねえなら、まあ、いつか知るさ」


私はちょっとだけ、想像することができた。


痛いことは辛かった。膝をすりむけば、まともに歩くことさえできなかった。胸を切り払われて、私はどうしたか覚えている。痛みとは人を守るための信号ではあるが、時として人を危険から逃がしてくれはしない。

「ううん、わかるよ。だいじょうぶ」

「へえ、じゃ、続けんぞ。まず最も重要なことをお前に教える」


一気にその歴戦の戦士のような風格が増して、私はこくんとうなずいた。大事な秘密をこっそり授かるようなわくわくした感じに胸を躍らせ、同時に自分の息遣いや声までがやけにうるさく感じられた。

「それは、『逃げ足』だ」

「逃げ足ぃ?」

私の声が素っ頓狂にひっくり返ったが、なんだ文句があるのか、と言わんばかりに見下ろされた。


「やっぱりお子ちゃまだな。逃げ足の速さが一番俺たちにとっちゃ、必要なことなんだよ」

それは、一拍おけば理解できた。命こそが資本であるからには、私たちはできるだけ生き延びる努力をしなければならない。


「まずは走る。それから、年長者と打ち合う。動かない案山子を滅多打ちにしたって、獣相手の俺たちじゃどうしようもないからな。相手は逃げるし激昂して襲い掛かってくることもある。少なくとも何らかの行動は起こすわけで、ヒトと違うのはその点だ。つまり、スニェーの剣は獣用だ。人用じゃない。それだけ覚えておけばいい」

「はいっ」

はきはきと返事をすれば、満足げにうなずいて、よし、と一言フィローがつぶやいた。


「それじゃあ、広場を全力で、走れるだけ走って来い。ただし、その後に一周広場を走れるくらいの体力は残しておくこと。以上、はじめ!」

私は軽快に広場をぐるぐると走り始める。そのうち大人が来て、やってるな、という言葉が横を通り過ぎるときに聞こえた。これは皆も通った道のようで、「頑張れよ!」という野次があちらこちらから飛んできた。


そして、なんだか楽しくなってきた私は調子に乗った。一周広場を回れるくらいの体力を残しておけ、という指示を頭からすっ飛ばして。


「ぬぅう……」

「ははは、ペース配分間違えたな。まあ、次からはちゃあんと気をつけろよ。自分がどれだけ走れるかってのは大事だけどな、歩けるくらいの余裕は残しておけ。最後の貯金だ」

「最後の貯金」

私は寝転がったままその言葉を復唱した。周りが暑いから、かなり熱のこもったこの体はなかなか冷えない。


「そう。貯金は大事だ。そいつさえ残すことができれば、まだ心に余裕が生まれる。考えることをやめたら獣より一段上には行けない。俺たちは狩人であって、戦士じゃない。獣は狩るものだ。いいか、おちび。そいつだけは忘れるんじゃないぞ」

「は、はい」


ヘロヘロとしたおぼつかない声だが、それでも返事はできた。この考え方があってこそ、スニェーの民は生き残ってきた。

戦いではなく、狩り。

余裕があればこその思考。


ふう、ふうとまだ整わない荒い息。私はしばらく天を見上げたままの格好でいたが、地面を大勢の大人がふみ鳴らす音が聞こえてきて、足を振り上げてその勢いのまま反動で立ち上がった。

「そこ、甘い!」

「はいっ!」


木の枝だが、それでも私が今持っているよりずうっと太くて、重いような音をぶつかり合わせて立てていた。がつん、とまた一度木が乾いた、だが重く鈍い音をさせる。

棒切れの重さは軽い。今はこれでもいい。けれど、いつかはあの中に入っていくのだろう。


「あ、父さんだ」

その眼差しはまっすぐに前を見据えている。正眼に剣を構えて、それから膝をくっと軽く曲げた。そこからは怒涛のようだった。鋭く確かな一撃が、突きとして鎖骨に向かっていく。フィローの腕の中に潜り込んで、そして下から左手を添え、首元に向かって剣尖が突き出される。


思わず危ないと目をつぶったが、まだガツンという鈍い音は続いている。父とフィローの打ち合いは徐々に父がその剣の勢いを鈍らせていき、フィローのぬるりと滑るように伸ばされた剣で平打ちされてばちん、と手に衝撃を受けた父が剣をとり落す。


「あっ……」

「ぐぬう!!もう一回だフィロー!」

「はいはい、わぁーったよ、シュエット。お前も相当負けず嫌いな奴だな、奥さんの尻に敷かれすぎだってのに」

「う、うるさいな。俺だってね、昨日ハイルにかっこいいよって言われたんだからな。ミルチェットに逆らえないのは……あれだ。家庭円満の秘訣って奴だよ」


あんまり格好いいとは言えない言い訳をつらつらと並べて唇を尖らせているので、ちょっとだけ、さっきまでの姿を思い出して、あまりのギャップに笑いがこぼれた。


今日はもう帰って、母にこんなことをしたと話そう。どうせもう体はくたくただし、あんまり頭も働かない気がするし、と自分を納得させて、ただいま、と家の中に入った。


「あら。どうしたの、ハイル?早かったわね」

「うん、広場でね、フィローさんにちょっとだけ剣を教わってきたの。最初は逃げ足のためにいっぱい走れって言われてね……」

言葉尻がだんだんとふにゃふにゃしてきて、私はうっとりしながら母の胸に抱かれた。相変わらず暖かいのに冷たくて、なんだかおかしくてスリスリと体を寄せてそのままころんと寝入ってしまった。


目を覚ますとすでに夜明け前で、私は仄暗い中ぱちりと非常に心地よく目を覚ました。体は少々だるかったが、子供の体はさすがに回復力が早いようだ。


「あれ……」

「んん……ハイル?どうしたの、ふああ……」

「あ、ごめん。ちょっと用足してくるね」

「いってふぁああ……」

ことんと頭を枕に落として、母親はすうすうと寝息を立て始めた。私は小用を足すと、すでにさえてしまった目をちょっとこすって、それから戸口の外に出た。ひゅう、ひゅうと風が音を立てていて、夏の今の時期にしては少し肌寒く感じる。


どこまでも地平線が見えた。太陽はまだ顔を出していない。


ひたりと風がやんだ。無音の中、私の息遣いだけが夜明け前の静寂に溶けていく。紫色の雲が綺麗だった。ゆっくりと空の明るみが増えていって、そして唐突にちかり、と視界が真っ白にはじけた。

「まぶしっ」

ぎゅ、と目を閉じて、それからそろそろと開いた。


こたえようのない美しさだった。

ぱあっと明るさが散っていって、闇が取り払われていく。闇のヴェールを脱いだ光は、いっとう美しく見えた。きっと光への思いに身を焦がした闇も、このような心持を抱いたのだろう。


人々の声が聞こえ始めた。

いつもの朝だった。

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