本能
かち、という音で目が覚める。私は静かに呼吸を止めると、あたりを見回して安全を確認した直後にほっと息を吐き出す。未だ、私は死体の影に隠れたままである。あまり離れては慣れていない匂いに警戒したあの怪物が襲い掛かってくるかもしれないと考えてのことではある。しかし、吐き戻したものに対して特に無反応だったため、個人的には匂いより動きに頼って襲うか襲うまいか考えているのではなかろうか、と推測している。
「よし」
まず私があれを倒せるかどうか、と聞かれれば倒せなくも無い。ただし、かなりの犠牲を覚悟すれば、という但し書きがつく。なにしろ、一撃で人がぺちゃんこだ。加え、何がまずいかと聞かれればアレが古のものではない、と言うことに尽きる。
正直、アレほどの化け物が古のものではない、ただの魔物と呼ばれていることに驚きだ。古のものと、命石を持つ魔物と、普通の動物の間には大きく差がある。それは埋められないほどの物だ。しかしながら、ここまで強力な魔物がいると言うこと、それは異常だ。
「……リリンたちのことは、いったん忘れましょうか」
おそらくだが、アショグルカ家縁故のものたちではないだろう。もし彼らであるならば、テブルテ大王国に入った後で襲撃してきたはずだ。シハーナ宗主国では外国人は本国人を犯罪者であっても殺してはならないと言う法のもとに処罰すると言うことができるからだ。まあ、宗主国本国のみを適応したような法律なのだが、実際は拡大解釈されるきらいがある法律だ。
宗主国もそれを見逃しており、おそらく暗黙の了解のようになっているのだろう。
しかし、ここから逃れるにしても、だ。
仮に逃げ切れたとして、もう一度安全に国境が渡れるかと言われれば、否である。もし街道が彼、あるいは彼女の根城や縄張り、警戒範囲に入っているとすればすぐさまにでも殺しにくるだろう。となれば、奴からどう逃げるかではなく、奴をどう殺すか、と言うのが最も課題としては大きい。
一番良いのが、森の中。つまりこの場所だ。地の利がある、とは言わないが、正直動きやすさはひらけた場所よりもこう言うところの方がいい。それから襲うにしても相手の体が大きいため、まず間違いなく木々が邪魔になってくれるはずだ。
それから、襲うにしてもなんにしても、私は森の中が一番好きだ。村も嫌いではないが、やはり人の声も気配もしない静かなこの場所を好いている。
「……罠……は正直、効く気がしないし、冷気も多分通用はしないだろうな」
自ら冷気を発しているのだし、正直腕力と技巧と胆力だけで相手をする、と言うことになる。私はあたりの地形をざっと確認して、それからまた元の死体の場所に戻っていく。
同じように磔になっている死体はいくつもあり、定期的に死体を舐めてはまた凍らせていく。一体なんの所以があるかと思ったが、氷漬けになった卵のような物を一つ見つける。おそらく、アレのせいだろう。どうやってここまできたかはまるでわからないが、すぐさま警戒態勢が解けることはなさそうだ。
子育て中か、と少し面倒な気分になる。子育てをしようとしている獣は魔物も含め、だいたい気性が荒くなる。それから、食事をあまり取らなくなる。狩りの手間が増えるからだ。しかし、多分ここにいる怪物はまず間違いなく食事をたっぷりとっているだろう。
いくらでも人間はいるのだから。
私は少しだけ目をすがめて、それから卵を見つめる。透き通ってキラキラと光り輝き、まるで中身などないように見えるその卵だが、それがここにあるせいで私は大きく足止めをーー。
待てよ、と少しいいことを閃いて、私はそのまま計画を練り始めた。
大きな怪物が後ろから勢いよく追いかけてくる。ほぼ全力で走りながら、恵まれた体に感謝する。卵を追いかけてきているのはよくわかる。何しろ、私をの集落にいる大人もまず間違いなく子供を失えばこうなるだろう。
メキメキ、ミシミシと音を立てながら木々が勢いよく倒れ、土煙が上がる。枝を踏みしめしなりを利用して勢いよく飛んでいくと、また後ろから立つ音が激しくなった。
全速力で迫ってくるそれを決まった場所に誘導する。それが単なる作戦だった。
私は森が途切れ、ふっと景色が明るく見える場所が見え始める。その瞬間、勢いよく仕込んであったつたをすれ違いざまに掴み取り、一瞬で手の内にあった卵を投げ出した。それに勢いよく巨体が飛びついていく。しかしながら、明るい場所の先にあるのは崖だ。
巨体が足元を滑るように駆け抜け、そして一瞬のうちに空に投げ出されるようにしながら卵を抱きかかえるようにして落ちていく。蔦に捕まったまま、私は息を切らしてその姿を見つめる。ただただ空中に投げ出された卵を守るために、自らを谷底へと投げ出したのだ。
本能的な行動かもしれない。しかし、どうだろうか、人は私を殺そうとして、自ら地位にすがり、どんなに陰惨なことでもやってのける。私だってそうだ。自らが生き残るために殺したのはよしとしても、それを除けば一体私に何があると言うのか。
「……、やめましょう。死んだかどうか、確認を」
元より、そう深い谷でもなければ降りられないほどでもない。私は崖の取っ掛かりを見つけ、ひょいひょいと降りていく。濃く霧のはった谷はひどく薄暗い。きっと、水分のあるところにあの冷たい獣を落としたからに違いない、と思いながら進んでいくと、巨体が浅く呼吸をしているのが見えた。
ざあっと勢いよく血の気が引く。手負いだ、と思いながらパッと後退り、その直後私のいた場所を何かが抉り取った。砂利が飛び散り、荒い呼吸音が聞こえてくる。時折ガハッ、と苦しげに咳き込む声の中、私を包み込む霧は徐々に雪のようにパラパラと冷たくなっていく。
切り裂かれて一瞬見えた霧の奥には、血液を全身から流しながらこちらを変わらぬ瞳で見つめてくる、あの怪物だ。相手の状態がわからない以上、ここに留まるのは避けたい。しかしながら、霧の向こうから漂ってくる気配には、もはやおぞましいとか、威圧感といったものがまるでないのだ。
私は剣を引き抜くと、勢いよく霧の奥へと走り込んでいく。瞬間、右から押し寄せる気配に合わせて剣を振り抜く。腕にじいん、と痺れが走り、次いで衝撃が体に沈み込むように入ってくる。ただの耳の一撃、しかしこれほどまでの感覚は久々に受ける。
「くおッ……!まるでフィローさんの一撃、ですね!」
気合を入れて流し受けると、もう一度振り上げるように動く。切り返すように動いてこないあたり、おおよその相手を一撃で仕留め切る技量はあったのだろう。しかし、それだけではどうしようもない。
その体に肉薄し、腰のナイフをすれ違いざまに体に突き立てる。服の裾をわずかにがちん、と何かがかすったのは、まず間違いなく歯だろう。私は勢いよく地面に転がりながら体勢を立て直し、再び向かっていこうとする。しかし、そこでひたりと動きを止めた。
「動けない、んでしょうか?」
相手の足音がまるでしない。あの巨体であるからこそ完全に音を消すのは難しいはずだ。しかしながら音がしないと言うことは、動いていないと言うことでもある。私はすぐさま方針を切り替え、待ちの姿勢に入る。時々動いてはものを投げつけ、集中力を持たせる。たまに切りつけに行っては冷や冷やしながら帰ってくる。獲物を痛めつけるような真似は本来したくはない。味は落ちるし、栄養だって血が流れすぎて今一つ。肉が硬くなる場合もある。
未だ自分が力及ばなかったせいだ。故に、その動きも見逃していた。半日ほどしたあたりで、ずしん、と聞くはずの無い幻聴を聞いたような気がして、勢いよく息を殺して立ち上がる。瞬間、右上をひゅっ、と何かが通過していった。
「……!」
気配がなかった。ただの石ころだ、と気づき、次いで襲ってきた予感に従って剣を体の前に構えた瞬間、勢いよく前から爪が叩きつけられる。牙の並んだ首からはこぷり、と血が溢れ出している。そう長くは無い、ゆえに子供をこの先守ることよりも直近の子供の危機を避けることにした、と言うことだろうか。ギチギチ、と均衡が崩れそうになる予感が全身に広がり、足元の砂利がズズ、と滑る感触がした。
勢いよくかけられた力に負け、そのまま吹っ飛ばされる。空中ではやけに長い間舞ってくるくると回る景色を茫然と見ていたような気がした。しかしながら、すぐに全身に激しい痛みがやってくる。
「かッ……!!」
崖のむき出しの岩肌に叩きつけられた。剣が先に食い込んで衝撃を殺してはいたが、若干といった程度だ。勢いよく氷の地面に叩きつけられ、全身打撲になったことを思い出して少しだけ笑いが漏れた。
「だからと言って」
そう、だからと言って、大人しく殺されてなんかやるものか。
相手は足を引きずりながら、とどめを刺そうと勢いよく右の前足を振り上げていた。チンタラとした動きに私は笑った。
地面から直接力を伝えるように、どっしりと構え、勢いよく剣を振り抜く。直後、髪がぶわあっと舞い、霧がそこだけ消えていく。
「ーーっらぁッ!!」
爪が、勢いよく切り飛ばされて赤い放物線を描きながら吹き飛んでいく。やった、と気が一瞬抜けたその瞬間、ぐあ、と怪物の首が裂けた。
どこからでも開くんだよ。
「ッあ、や、べ」
判断は一瞬だった。剣を持ったまま口に全身を滑りこませ、熱くうねる肉壁に絡まれる。酷い圧力と湿気と熱気に絶叫しながら、それでも上下を見定めて脳天に向かって剣を突き上げた。しかし、体勢が崩れてうまくいかない。
「あ゛あッ」
刺さっては、いる。
あとは、あれを、少しだけ押し切れば、それでおしまいなんだ。それで、全部終わりになる。
「こいつを、殺す!!」
その時私がどんな表情をしていたのか、それはわからなかった。けれど、私の体は飲み込まれる寸前にあの怪物に刺さった仕込み杖の柄を蹴り飛ばして、絶命させていた。
全身が弛緩して、私がほうほうの体で胃液混じりの肉の壁を抜け出すと、その体はぐったりと弛緩していた。はあ、と息を吐き、ピリピリとしている全身を流そうと近くを流れる川で体を洗って、それから戻って剣を引き抜く。全身は濡れたままだが、それが逆に心地いい。
「……あれ?全然抜けない……」
どうやら大き目の何かに突き刺さってしまったらしい。仕方なく口を大きくこじ開けて岩を挟み、その体を右足で固定して踏ん張り、背中で勢いよく引き抜く。潜り込んでいた刃にごり、とした感触が走り、みしり、ぱきん、と弱い音が聞こえた。
「あれ、っておわあああ!?」
ずるんと引き抜けた刀身は、見えなくなった。より正確に言えば、見えないほどに透き通っていた。
「……な、なんだこれ?」
今までもあった。しかしこれは、おかしなほどの変化だ、としげしげその剣を見つめる。まあいいか、と体毛で血を拭うと、丁寧に鞘に仕舞い込む。
ふと気になって怪物がいた後の場所を見れば、わずかにヒビの入りかけた透明な卵が落ちていた。
「……」
今更こんなものを拾い上げたところで、私にはどうしようもない。しかし、これが孵って新しい脅威を生み出すならばいっそ殺してしまった方が、と思った瞬間、私の手は動かなくなってしまった。
安っぽい同情や、小さな命だからと言う理由でこれを助けるのか。
様々な感情が入り乱れる中、私はそれを拾い上げて、冷たい腕で抱きしめた。その親を殺しておきながら、褒められたものではないこともわかっている。
けれど、私の脳裏にどうしても『あれ』が焼き付いて離れないのだ。
「ごめん」
ごめんね、と囁いて、卵を懐に抱えると、痛む体でその母親の体から割れた命石を取り出す。きっと刃はこれに刺さっていたのだろう。わずかに魔力を感じるだけのそれを口に入れると、溶け出すように何かが染み込んだ気がした。
「はあ」
倒した、ならばあの遺体を元の場所へと戻してやり、それから、この怪物の頭でもなんでも切り取って倒したと言う証明をして、それから。
つらつらとやるべきことを頭は並べてはいたが、とうとう眠気に耐えられなくなり、私はそのまますとんと意識を飛ばした。
これでストック切れましたので、毎日更新から頻度下がると思います。よろしくお願いします。




