文字
私はなかなか文字というものが好きである。というのも、見たことのない文字には浪漫というものを感じるからだ。考古学に似たものだろうが、どこかしら心をくすぐってくるのだ。未知に対する興味と関心が膨れ上がるような気がして。
長老から新たな石版を一つ受け取ってみると、以前習ったのとは全く違う文字が出てきて、私はむ、と首を傾げた。全てをさっと読み飛ばすと、同じ文章で習ったことのあるものが二回立て続けに出てきた。
「これが、小さな国である、ニーへで使われている文字です」
「ニーへで、使われている……」
「ええ。面白いのですけどね、彼らの文字は音を持たないの。なぜかと言えば、ニーへを建国した種族は、喋ることができないのです」
「ええ!?」
その事実に愕然として、私はもっと詳しく、と詰め寄った。
「あの、どうしてですか」
「そうねえ。まずは、ニーへでは礼節と言うものは形を持っていないの。知識と、技術と、そして同時にそこに対して投資をしていくパトロンの集まり。ニーへの知識は膨大なもので、ひとつの都市がまるごと図書館になっているの。そしてその知識は誰でも利用できるんですってよ」
それはこの又聞きが基本の社会において、非常に価値のあるものだ。私はごくりと喉を上下させて、続きを聞く。もはや私の心の中はニーへという国に行って見たいという心持でいっぱいであった。
「そこの支配者は、ええと、煮込んだ腱のスープが冷えかけたように、そう、ぷるぷるしているのよ。なんだか不思議かもしれないのだけど、その体の真ん中には石があってね、体に文字を浮かび上がらせて会話をするの。たまに木が植わっている人?も、いるそうよ」
「……ええと、それは……」
想像がつかないでいた。プルプルの体の中に、石が浮かんでいて、体に文字が浮かぶ。木が植わっていると言うところで、透明なグラスに入れられたぷるぷるの青いゼリーの中に植物が根を張っている鉢植えのことを思い出して、苦笑いが浮かんだ。前世の記憶からは役に立つものとか、そういう点ではほぼろくなものが出てこないらしい。
「想像できないわよね。私も、旅人になった一族の子から聞くまでは知らなかったのだけど……ああ、そうそう。ニーへは礼儀を無視しても突然無礼だって殺したりしないでくれるけれど、他の国ではそうはいかないようだから。旅人の、その子ね、別の大陸に行ってとんでもない失礼を働いて殺されてしまったようだから」
「ニーへでは、どうして突然殺したりしないんですか?その、面子を保とうとするでしょう?」
「法律の問題かしら?殺人を全面的に禁止しているのは聞いたことがあるわ。治安の面に関してはすごくいいらしいのよ。でも、詳しくどうしてなのかは聞いたことが無いわ」
なるほど、確かにパトロンになりに来ているのに相手が態度が悪いからといって斬っていたら、大変なことになりかねない。知識を求める人材が有能に育つ農園を、育つ前に刈り取らせるなどとんでもない。
「私、いつかニーへに行って見たいです」
「そうお?じゃあ、いつかは旅人さんかしら」
楽しそうなその声に、私は少しばかり笑って見せた。三十まではここにいる。戦禍も何もかもを雪の檻で取り囲んだこの場所に。
「ネーナ様に、いっぱい、いっぱい、おみやげ買ってきますからね」
楽しい時間と言うものはあっという間に過ぎていく。帰り道、私の手には件の石版が握られていた。スパシュイナ語は無骨という言葉が似合う文字で、直線と習字のはねのような形から作られている。見てくれもかなりごつごつしている。これは手がかじかむ中でもうまく書けるように設計された文字らしい。
テットト語はその由来からして少しばかり特殊で、どうも文字を見る限りではその原点は近隣のニーへのほうから影響を受けていた。音はスパシュイナ語から勝手に付けているので共通しており、そしてニーへの文字は一部簡略化して拝借した。そして出来上がったのがテットト語。
素早く書けるように流れるような続き文字が多く、分割して書かれることはめったに無い。せわしなく、だが機を逃さないような交易都市の商売気質がにじみ出た文字だ。
フュシュフィ語は典礼に特化した、美しさを最も重要視する文字である――たとえば本気で書こうと思ったなら線の太さから何から何まで決められてしまうほどには。
装飾的要素が多分に含まれており、その筆跡が美しいのは当然の教養であるとみなされる。発音はしかし、あまりに明瞭過ぎると性的だとみなされるらしく、喋ることができるようになったものの私はその間のギャップに苦しみっぱなしであった。
離しかけられたら、スパシュイナ語で返そう。
とりあえず、だ。
そんな三つの文字を同時並行で習っているわけだが、このたびニーへのその文字も追加された。頭がおかしくなりそうではあったけれど、ふと気づけばテットト語との関連性を見出している自分もいた。ニーへの言葉は、テットト語における母音に類した記号と、それから意味を表すのであろう記号が組み合わされてできている。大変不思議ではあるが、日本語においての漢字を考えてみればなるほど納得が行く。
「複雑すぎて、覚えるの、大変だものね」
「へえ、今はこんなことをやるのね。お母さんたちの時代には、こんなもの見なかったけれど……」
「忘れているだけじゃないか?どれどれ……あはは、お父さんも見たことはないな」
「ちょっと」
だむ、と強めにひじでわき腹を打たれた父はくずおれた。いつものじゃれあいだと分かっているので苦笑いすると、家の中に敷かれているラグマットの上に二人を招き寄せた。
「あのね。これ、ニーへっていう、この国とも全然関係ない言葉なの。そこにはいっぱい本があってね、いつかそこに行きたいと思ってるんだ」
「ほう!いいんじゃないか、いつ行くんだ?」
「三十過ぎたらね、行こうと思ってる」
母が目を丸くして、それからちょっと口元を抑えた。私が急激にいろいろなことに手を出し始めたせいで、かなりはらはらしていたらしい。思い返してみれば、最近は接触がとみに激しかった気がする。
「へえ、三十か。……早いな、だいぶ」
「早いの?」
「ああ。見てもらえば分かるとおり、私たちの成長は遅い。ハイルもまた、そのころにはまだこれくらいだろう」
腰くらいを指しながら、父はそう述べた。私はちょっとだけむ、と眉をよせた。小さすぎる。
「もうちょっと、でっかいよ」
「そんなことないさ。ハイルは頭の中の速度が俺たちと違うだけ。体くらいはゆっくりしたっていいだろう」
私は少しだけ、恥じた。子供が成長するのが早すぎるとか、子供が大きくならなければいいのに、という気持ちが全く分からないでもない。分からないでもないけれど、確かにそれだけでは不安が募る。
たとえば私が旅に出たとき、子供だけで行動するとどうなるか。明らかに、トラブルを呼び込むはずだ。
「ゆっくり大きくなるのもいいけれど、やっぱり早く大きくはなりたいんだ。父さんと一緒に狩りに出たりしたいし、そのためにはある程度大きくなきゃいけないでしょう」
私がそういうと、父はひどく子供っぽい満面の笑みを浮かべてくるくるしている私の髪をなでくりまわす。ぼさぼさになったじゃないか、と文句を言うが、やに下がった顔で笑っているので、母がむん、とこぶしを構えると大人しく引き下がった。
母がぼさぼさになってしまった髪を梳いてくれると、やわらかくうねっている私の髪がつやつやになる。指先からマイナスイオンとやらでも出ているのではないだろうかと思うほどには綺麗になった。お返しとばかりに母の髪に櫛を入れる。さらさらと解いていき、ふと思いついてその髪を少しだけ編みこんでみる。
「んふふ、お母さんかわいい」
「あら。ハイルったら、いたずらっ子ね。襲っちゃうわよぉ!そぉれ、こちょこちょ!」
「うわあ!?それはずーるーいー!」
きゃいきゃいと戯れていると、父がその様子を物陰からじとっと見守っていた。
「お父さんもまざる?」
「俺はちょっと……」
混ざりたくなさそうにしていたので、その背に飛びついて髪を素早く三つ編みにした。母はその姿を見て大笑いし、床をだんだんとたたきながら転げまわっていた。
二人とも大変に似合っていると思うのだが、そこはそれ、男のプライドというやつらしく、二度とするなよとやっぱりかわいらしく頬を膨らませた父親に釘を刺された。
夏が近づいてくると、だんだんとみなの動きが緩慢になってくる。私は若干暑いかな、と思うくらいだが、皆にとっては今年は暑いらしい。
「氷の中に埋まっていたいわ……」
エヘルナが外に出てきたことを後悔するように言った。けれども日が当たらない場所のほうが家の中よりよっぽど涼しい。理由は簡単、洗濯物を乾かしたり煮炊きするために暖炉があるからだ。冬はまだいいが、夏は風も吹き込みにくくなり、暖炉の熱が家の中にこもる。なので、夏場になると家から出て外で寝ることもあるらしい。
「ティオは?どうしたの?」
「ああ、ティオね。ティオなら、なんだか今日はいそいそと狩りのほうに足を運んでいたわよ。何でも、今日辺りに大物が帰ってくる予定なんですって」
「大物?何?」
何かでっかいものを抱えてくるのだろうか、しかしそれでは『帰ってくる』という表現ではおかしい気がする。
「あはは、ティオの伯父さんよ。この集落では一番強くってね、前なんか、でっかいカゼスを一人で倒しちゃったんだから。あっ、カゼスっていうのはね、お肉は美味しいんだけど、すっごいでっかくて、凶暴なやつなの。冬に広場にあった雪山ね、覚えてるでしょ?アレくらいの大きさで、足がもじゃもじゃしてて……」
「わかんないよ、エヘルナ。ねえ、帰ってくるっていうなら、きっと解体場のほうでしょう?行って見てみない?」
「あら、そうね。うーん、私、お絵描き下手っぴだし、伝えるのもあんまりうまくないわね。ごめんね、ハイル」
「大丈夫だよ。ついたら、いろいろ教えてくれる?」
「ええ!もちろんよ。これでも解体は上手なんだから!」
自信満々にそう言ってのけたとおり、解体場に到着するとうわさを聞きつけて来ていた大人がこちらに寄ってきた。解体場は村から少し外れた場所にあり、それなりの高さと広さを持っているドーム上の建物だった。以前に気になっていたドームはこれだったのかと納得する。
「いらっしゃい、エヘルナ。今日もお手伝い?」
「ううん。今日はね、ハイルにいろいろ教えてあげて、ついでにティオの伯父さんが持って帰ってくる獲物を見せて、お勉強」
「あら、えらいわねえ。暑いでしょう、戸口の近くに座っていらっしゃい」
ドームの中はかなりむっとしていて、暑かった。それと言うのも、皮をはいだり肉を分けたりするときにナイフを熱湯でさっと処理したほうが、効率が良く済むからだという。
「お肉を分けるときに脂でぬるぬるになっちゃうと、切れ味が落ちるの。だから、だんだん切れなくなってきたーって思ったら、熱いお湯をかけるのよ」
持ち手のところは骨でできており、刃の部分の熱が伝わりにくくなっている。それでも熱い、と思う者は多少布を巻いたりと工夫するようだ。
「獲物は大体皮をはぐときにその見た目をきれいにするようにするの。ほら、えーっと、あそこにかかっているやつは次の商人が来たときに売ってお金にしたり、ご飯にしたりするの。ハイルのところでもお芋とか食べたりするでしょう?それよ!」
「へえ、じゃあ、お金にするにはきれいじゃないといけないんだね」
「そう。最初はこの、刃がけっこうなまくらなナイフを使うの。腸やいろんなトコが切れるとおなかの中に中身がでちゃうから、そうならないようにね。皮は取っ掛かりがつかめれば、大体は服を脱ぐみたいにぺろんと取れちゃうから。あ、でも結構力いるし、今日はちっちゃい獲物があったらやらせてもらいましょ?」
私はその提案にうなずいた。説明はぴょんぴょんとまったく別の方面に話が飛んだりしたが、とりあえずそれなりにはつかめたので、ここに来て良かったと思った。
ふと、外からがやがやという声が聞こえてきて、私は座っていた木箱から立ち上がった。ほぼ同時に開いた大扉からは、獣の頭がぬうっと突き出された。
その生き物は、妙に面長な鹿という風体だが、鹿と最も異なる場所はその口にずらりと並ぶ牙、ついで目に付いたのは額の目。
ヘラジカの角に似たそれは扉のはじっこにがつん、と音を立ててぶつかったが、またゆらりと揺れて正面を向いた。
その体を支え持っている男たちが中にはいると、にわかに場が騒がしくなった。
「お帰りなさい、フィローさん!」
「伯父さん、お帰り!」
「ああ、ただいま。っと、ティオ坊、こいつは土産だ。好きに食いな」
「うん、ありがとう!」
ティオが喜色満面になっていると、エヘルナもまた私の手を引いて人垣の中を歩いていった。
「お久しぶり、フィローさん。この子、まだ五歳なの。良ければ英雄の噛み傷を残してやってくれない?」
「ん?五歳か、そいじゃ、俺とははじめましてだな。ちっこい、壊しちまいそうだ」
なかなか豪傑のような感じではあるが、彼の姿もまた偉丈夫などとは言いがたい姿である。髪をざんばらに伸ばしており、野性味のあるぎらぎらとしたところはあるが、それでもやんちゃな青年のような姿だ。きゅっと薄い唇をゆがめて笑うと、山猫に似た高貴な獰猛さが垣間見える。
「坊主。手を出しな。それから誰か、湯を持ってきてくれ」
「はあい」
ティオがすたすたと走り去って、ひしゃくにぐらぐら沸き立っていた湯をもってくる。フィローはその湯をすらりと抜き放った剣の身に、さらりとかけた。それからすぐさま水気を払うようにふぉん、とそれを振る。
「よし。じゃあ、坊主、上の着物を脱いで、俺に一発食らわせろ。下は脱がなくていいからな」
「へ?いや、何がなんだかさっぱり」
「ああ、なんだ、知らないか?英雄の噛み傷ってのは、俺みたいに強くてカッコいい大人が子供の体に一本傷を残すんだよ。英雄に一撃食らわせて、英雄から一撃をもらう。つまりだ、記念みたいなもん?」
ははあ、なるほど、と私は納得した。要するに、英雄と戦ったコトだってあるんだぞ、という証のようなものらしい。訓練中にちょっとだけ声をかけられただけで弟子になった、などと吹聴するようなものだろう。
「分かりました。えっと、服脱いでってことは、胸?に傷跡を残すんでしょうか」
「そうだな。さ、分かったらとっとと服を脱ぎな」
木箱の上に丁寧に服を折りたたんでおき、それから行きます、と声をかけて、ひざを少しだけ曲げ、わき腹に張り付かせるようにこぶしを構えた。