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訪問

ひとまずの旅路として、エスティーー脚のない女性を訪ねることにした。テブルテ王国はシハーナ宗主国の属国に近い。ニーへから行けばいいのだろうかとも思ったが、そうなるともう何年後になることやら分からない。そのためまずはエスティを訪ね、道中について詳細に話を聞こうと考えたのだ。


あの小さなプギュの姿は……苦手極まりないのだが、とにかく足を向けることにした。食糧の準備は十分ではないものの、あちこちには見知った植物もあるし小動物くらいならば簡単に仕留められる。いざとなれば……プギュは雪を食べると言っていたがエネルギー代謝はどうなっているのだろうか。


「いや、今はそれを考えてる場合じゃないですね」

休む時は徹底的に休むが、正直なところ野山で眠るのは避けたいところだ。プリンスタゥがいるところでは他の獣はいないが、それでも余計な音を立てたら爆発四散だ。

それでも……正直それ以外の場所では眠れる気がしない。他の場所で眠るのはかなり命取りだ。道中の警戒要員は私しかいないのである。旅をするならば仲間がいるのが最も良い、しかしそれを求めるのは無謀というものだ。


思えば数年前は一人で村を出たのだったか、と思いながらさくり、と雪を踏んだ。


臆病になった。いや、知識が増えたが故に警戒をするようになった。きっと数年前なら、気にせず先を進んだだろう。静かに息を潜めたまま歩みを進める。

未だに土地は、人にとって未開のものが多い。それでも開拓を進め続けられる体力のある国はそこまでいないから、国は現状維持を続ける。停滞したままでもある。開発を続ければ、きっと国同士の交流が盛んになり、国の進歩が生まれる。そして、戦争が起こり始めるだろう。

長い歴史の中で大きな争いがあったことはあまり聞かない。それはこの世界が人類にとって、危険な場所であることの示唆だ。


故に旅を娯楽的に行える者はほぼいない。


そもそも国を越えることはできるのだろうか、と思いながら、静かに歩き続ける。途中で眠気を感じた時は木によじ登って眠りについた。はっきり言えば、一番安心できない時間だった。疲れを最低限取るためだけに無理やり体を休めたまま、精神は警戒に入る。

気楽に木の上で寝られたのとはまた異なっていて、そんな以前との違いにも私は静かに息を吐き、笑った。


そうしてようやく到着した場で、私はヤーンと呼ばれる男がプギュの下顎を撫でている光景に少し遠い目になったものの「こんにちは」と声をかけた。


「あれ?君は、前の……」

「お久しぶりです。少し、エスティさんに聞きたいことがありまして」

「ああ、それでこんなわざわざ遠くまで……ん?もしかして、一人?」

「一人ですよ?」

ぽかんとした彼の顔に私は少し面白くなってしまって笑い声をあげたが、それに釣られて寄ってきたプギュに口をつぐんで彼を見上げた。

「あの、えーと……なんと言っていいか分からないけど、家出とか?反抗期がずいぶん早いね」

「反抗期ではないです。どちらかと言えば、その、追放されてしまいまして」

「えっ?」

今度こそ本気で意味がわからないという表情になった彼に笑い声をあげて、私がプギュに塗れて悲鳴を上げるまで数秒もなかった。


エスティは依然として毛布をかけたまま椅子に座っていたが、彼女の腕の中には小さな子供が抱き抱えられていた。

「久々だな、ハイル」

「ええ、お久しぶりです。約束を果たしたいと思ったのですが、その……国境を越える方法について、お伺いしたく」

「国による。デザアルからシハーナ宗主国に行きたいならば、剣を持っていくべきだが……捕まるかもしれない。領主などに届け出て、正式な使者として任命してもらうのが最も良いが、伝手などは?」

「他領の領主ですが、一応は」

「そうか。だがお前はニーへに行きたいのだろう?」

「ええ、そうです」

「ニーへに行くには、シハーナ宗主国では学問の徒として認められるものが必要だったな。まあ、実質入国時に必要なのは、パトロンになる資格、あるいは面接だな。常識を持っているか否かを諮られ、また最低限の知性の証明が必要とされる。ああ、そうだ。確か、害獣の排除を条件に学徒として滞在できる方策もあったな。そちらもある程度の面接は必要だが」


なるほど、実に学ぶためにはちょうどいいらしい。


「しかし学徒であれば、年に一度文書、あるいは成果の提出が必要になる。要するに滞在を許可するには全ての研究成果をニーへに蓄積しなければならないのだよ」

確かに年に一度、査察があると思えば当然だ。また研究結果の吸い上げもニーへで行う、実に合理的だ。


「実際、その文書の提出が最も苦痛だと考える人が多くてね。多くは十年ほど滞在して、そのままやめてしまうことが多いんだ」

「なるほど。つまり、質も求められるということですか?」

「いや、質は求められない。文章ならば大体なんでも喜ばれる。もちろん書写しではいけないが、まとめ直したものでも構わないらしい。しかし、その文章を書くということに慣れていない者が多くてね」

「……なるほど。学ぶ意欲はあっても、その下地ができていない、ということですね。話をする才能と文章を書く才能はまるで違いますから」

「そうだ。加えて学問のみならず無形の文化を学ぶ場所もあってな。そこでは五年以内にパトロンを見つけることが条件になっている。様々な条件があるからこれくらいしか覚えてはいない。詳しくは知り合いの貴族にでも尋ねるといい」

「ありがとうございます。……マハラティエは、テブルテ大王国の一地域でしたよね?」

「ああ。だが現地での買い付けは難しいだろう。売り先が全て決まってしまっているからな、できれば都心で買ってくれ」

「わかりました」


費用はなんとかするしかない。さて、と私は息を吐いた。


「改めまして、ご出産おめでとうございます、で合ってますよね?」

「ああ、そうだな。フェイというんだ。ヤーンという言葉と同じ意味で、勇ましいという意味がある。フェイは私の血を継いでいるからきっと無茶をするだろうが」

「無茶、ですか?とてもそんなふうには……」

「ふふ、想像できんだろう?だがなかなか私もやんちゃでな」


小さい頃に木登りをしたり、野山を捕まえた魔物で駆け回ったりして他国に行きそうになったこともあったという。


「エスティの話はなかなか聞いていて楽しいよ?」

「今はヤーンと、フェイとお喋りすることが最も楽しいからな。テルシュの作り方も覚えたが、なかなかどうして模様をきれいに織るのは難しいものだ」

にこにこしながら、以前の硬い表情とはまるで違う様子に私も微笑みを浮かべる。


「そう言えば、今回はどうしてここに来たのだ?まだ15かそこいらだろう?」

「え、あ、ああ……ええとですね」

頬をポリポリと掻くと、私は視線をフェイに合わせた。


「言い出しづらいことなのですけど、私、五十年ほど村から追放されてしまいまして」

「……お、おい、その、よくあることなのか?ヤーン」

「い、いやあ、その……六十にもなってない子供が追放されるなんて滅多にないよ。五十年っていうのも、百歳超えた者ならともかく、そうじゃないならまるでない処分だ」


そうだったんだー、と今更知る自分に下った罰の重さに少し驚きながらも、それでも自由に使える時間ができたのだと嬉しくも思っていることを伝えると、正気かという視線が向けられた。

「子供を産んだ身であるからわかるが、その、……ハイル、君の考えは正しいものではないと思うぞ」

「ええ、それはまあ、十分承知です」

前世はこの世界で重ねた年月になり得ない。何しろ私に残されているのは人としての見地ではない、ただの『世界』だけだ。それもただ写されただけの、幻のようなもの。

そう言った意味では人の記憶がなくてよかった、とも思える。だって自分が自分であると信じられなくなった時、きっと私は壊れてしまうだろうから。


そう、詰まるところが、私はまだ子供なのだ。興味津々に世界への憧憬を語り、若さ故に無茶とも思える冒険に胸躍らせることの何が悪いか、いや、何も悪くはないはず。


そう語ると相手は非常に複雑な表情になった。


「ハイル、その、なんと言っていいかわからないが、私たちには到底お前がただの子供には思えないのだが」

む、と私は返す言葉に困ってしまったが、ふと思い返せばあれこれ予兆というか、その片鱗はあった。

「いやいや、私は無計画に国を出たいとか言っておいてその方策を探りもしませんでしたよ?」

「それもそうだが、その、そういうところが余計に、だ」

むう。


「ひとまず、今日だけ泊めてください。そのあとはプラスティアーゾに向かって、その知り合いの貴族と考えようかな、と」

「そ、そうか。……なんだろう、私の知る子供のお使いとは一線を画してしまうが、これはどうなんだ……?」

ボソボソとそんなことを呟かれたが、あえて聞かないふりをして私は小さな子供の手をきゅっと握った。フェイはにぱ、と人懐っこい笑みを浮かべてきたが、抱き抱えられるのは嫌だったらしい。そりゃあ安定感のない知らない人である私よりは、当然母親の膝の方がいいだろう。


翌日の朝に外に出ると、やあ、と声を背後からかけられた。聞き覚えがあったために振り向くと、にっこりと笑ったニィテ・アシュテアリテがいた。彼はにこにこしながらしゃがみ込み、私の両方に手を乗せてきた。その瞬間貼り付けていたような微笑みはすっと消えて、真剣そうな顔つきに変わった。


「やあ、ハイルくん。ちょっと聞きたいんだけど、君、一体何やって追放されたわけ?」

「わあ、お久しぶりですねニィテさん。それはネーナ長老にお聞きくださいな」

「聞いて答えてくれる類の質問なら、そうしたところなんだけどね。……僕は正直、君の処分に異を唱えなきゃいけないと思ってるんだ。だってこんな幼い子供、異質な天才で、早熟であったとしてもだよ?村のそとに五十年放り出そう、だなんて……」

ニィテの思惑がどうであれ、私はその処分を嬉しく思っているのだけれど、彼の言葉を上辺だけで断ればまず間違いなく、ネーナ長老が針の筵に座らされることになる。


「あの、大変心配をかけてしまって申し訳ないと思うんです。でも、この処分、実は九割くらいは私のためなんです」

「……ん?それはどういうことかな?」

「私、村の外に出ないと知識欲で死んでしまいそうで。ほら、人は誰しも呼吸をするでしょう?息を止めると苦しくなりますよね。世界の知識を得ることは私にとって息をすることと一緒なんですよ」

「……あの、ええと?そのね、君、追放がどれほど不名誉なことか」

「うちの村では割とありましたよ。どうもこの村で生きてはいけないからと追放されることが多いんだとか」

「それはほぼ移民だろ!それとは違うんだよ、わかる?」

「でも私、ニーへで色々と学びたいんですよねえ。邪魔するならニィテさんに薬の一服でも盛って足止めするしか」


ドン引きした表情になったニィテは、はあ、と息を吐いた。


「……なるほどなー、旅人ってみんなこうなのか。そりゃあ、止められないわけだ」

「誰かお知り合いが、旅人なんですか?」

「あー、うん、まーね。俺の兄がそうなの」

「へえ、お兄さんが!」


なんでもニィテの兄は四十を超えたあたりでたまらずに着の身着のまま村を飛び出して、十年後くらいにひょっこり帰ってきたらしい。彼はいつの間にか数日もしないうちに帰ってきていて、彼のことを慕っていたニィテは非常にがっかりしたのだとか。しかも帰ってくるなり冬支度の食料を持って行ったりして、ひどく迷惑を被っている、と愚痴るように呟いていた。しかし、その顔を見る限りそんなに嫌っているようには思えなくて私は少し笑った。


「ハイルも誰か、置いてきたってことだろ?」

「ええ、……引き取った姉が一人と、それから両親。兄姉みたいな人たちと、それから……」

ネーナ様は、一体私のことをどう思いながら送り出したのだろうか、と少し笑って語る。ニィテは地面の雪を摘んで落とした。

「多分、なんだけどよ」

「はい」

「少し楽しみだったんじゃねえかな、と思う」

ネーナ様の身内にも確か、旅人はいた。彼女は彼のことをすごく楽しそうに語っていた。きっとそれは、自分にない世界を教えてくれたから。そして、夢のような話を聞いて、すでにかの地に埋めた自分の骨の慰みに語って聞かせてやるのだ。


「だから、ネーナ様については心配しなくてもいいんじゃない?っていうかハイル、姉ちゃんがいたのか」

「まあ……でも、どっちが年下かわかりませんが」

「ああ、まあなあ。余計にキレそうだな、そしたら。ハイルが旅立った時には何か言ってなかった?」

「……そう、ですね。すごく怒っていました。帰ったら何か言われそうかな、とあまり顔を合わせたくない気持ちでいっぱいです。……あ、そうか」


きっと、ニィテの兄もそんな気分だったのだろう。


「こりゃあ、次に顔を合わせてくれるかどうか分かったもんじゃないよ」

私の言いたいことに気がついたのか、彼はそう笑って雪の上に座った。それからほう、と冷たく白い息を吐く。


「本格的に冬になる前に、プラスティアーゾに着くといいね」

「ええ、そのつもりでした。……いくら寒さに強いとはいえ、ここの天候は流石に骨身に染みますから」


旅に出る前にニィテと話すことができてよかった。出る時に怒っていたからと言って、帰ってくる時に怒っているとは限らない。大体怒りというものは長らく続かないものだ。ただいまを言っても怒られぬように、快くおかえりと言ってもらえるように、手紙だけは欠かさないようにしよう、と思えた。

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