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罪過

本日3話目です。

ネーナ様は小さな木のカップに飲み物を注いでくれる。確かいつかに飲んだ味にホッとしていると、彼女はニコニコと私を見ていた。私もそれに微笑み返し、「お聞きしたいことがございまして」と口に出す。

「あら、先ほどのおちびさんのことはいいのかしら?」

「私は恋人を作れるような人間ではありませんよ」

もしできるとしても、それは自分と共に歩いてくれるような人になるだろう。待たせる、ということは大層苦手だ。人の心に図々しく居座り続けるということは幾度も気を揉ませることでもある。自分のことでそう悩んで欲しくないし、人々の心に残り続けるということがどういうことか、知ってしまっているからこそなおのことだ。


「私は私のことを大切にしてくれる存在をよく知っています。であるからこそ、私は彼らに誠実でありたい」

「そうね。あなたはよくわかっている。わかりすぎているくらい。だから、ピチェルもあなたのことを心配しているのかもしれないわね」

ことことと何かが煮える音が奥からする。

「お嫁さんの話は、私からピチェルに言ってなんとかしておくわ。さて、一体何が聞きたいのかしら?」

どこか少女らしいその微笑みに、私は少し気をほぐしながら問いを口に出す。

「私が過去に聞いた光と闇の話と、それからヒトから聞いた話。そして、ヒトと私たちの違い、それから生まれる時になぜ古のものがやって来るのか。……いろいろ考えて、結論が出ませんでした。ゆえに、私はネーナ様に聞いてみようかと思いまして」

「ああ」


彼女はちょっと目を伏せて口元は微笑んだまま、ゆっくりと膝をさするように撫でる。

「子供たちが古のものに狙われる理由はわからないわ。遠い昔からそうだったから」

「けれど、私が少し前に会った闇は、人間が光と闇を幾度も裏切ってきた、と聞きました。古のものとは一体何なのでしょうか。あれを罰と考えるなら、人間を襲っても仕方がありません。しかしながらヒトは襲われないで、私たちが襲われた」

ならば、こう考えるのはどうだろうか。


「古のものは、そもそも光と闇の敵であったのではないでしょうか」

「……それはつまり、古のものが人間を襲わないのは光と闇の敵だから、かしら?」

敵の敵は味方、とまでは言わない。けれどもある意味理に適っているのではないだろうか。しかしネーナ様はゆるく首をふった。

「あなたの推定は誤りね。古のものは人間を襲うわ。積極的とはいかないけれど」

「……では、人間と我々の生まれ方の異なる点について考察しましょう。人間は混沌の祭壇で生まれますが、我々はごく普通に生まれます。その違いは?」

「そうね、確かにそれは疑問だったわ。けれど、こう考えてみてはどうかしら」


古のものはそもそも人を襲う。けれど、混沌が身代わりを受けることでそれをコントロールしているのだ、という仮説だ。


「……なるほど。すなわち、混沌に我々の一部を渡すことで、古のものに狙われることを防ぐ、と」

「ええ。つまり混沌はこの世界と、光と闇との世界での、門番のようなものではないかしら。私たちスニェーの子供が未だに光の眷属であるなら、より光と闇の世界に近いでしょう?それを混沌がうまく調整し、調整しきれなければ光の元へ送り返される」

「では人間はどうなのでしょう」

「人間は光と闇を何度も裏切ってきた、のよね?なら、混沌の調整がそういらないのではないかしら」


なるほど、と私は深く頷いた。つまり、彼女の言いたいことはこうだ。

光と闇に近しい、つまり魔力を持ってそれを操れるスニェーの一族はこの世界よりも光と闇の世界に近い。対して人間は光と闇を裏切ったせいでこの世界に近いからこそ、古のものに幼少期襲われずに済むのだろう。


「それでは、この世界の匂いが強いものを周りに置くと卵が守られる、ということでしょうか?」

「そうね、まず間違いなく」

ならば、と私は少し考える。この世界のものならざる物質ならば、もしかしたらあの肥大する病をどうにかできるかもしれない、と。しかし同時にそれは古のものを呼び寄せるのではないか、という危険性もはらんでいる。魔力が光と闇、すなわち光と闇の世界のものならば、間違いなくそうだろう。

「偶然知ったのですが……人間の中にはスニェー族のような力を持った人間が生まれます。しかし特別なことが起こるでもなく、その力を外に出すことができないのは、混沌による人間の調整が誤ったものであるからではないでしょうか」

「誤ったもの?」


ネーナ様の不思議そうな顔に、私は頷いた。これはもうほとんど自分での思考の整理に近いのだが、構わずに口に出す。

「混沌が世界を隔てる門番のようなものだとするならば、光と闇、それから混沌の考えが異なります。その辺りはシハーナ宗主国に行った際に調査することにしますが……ですが、それは一旦置いておくことにして。混沌は人間が、その体をビンに例えると、そこに蓋をすることで力の行き場がなくなる。一方で私たちはゆるく蓋をされている状態で、いえ、そもそもビンではなくて、布のような通り抜けられる材質なのかもしれません」

「ちょ、ちょっと待って、ハイルちゃん。私よくわからないのだけど……あの、少し怖いわ」


その手が膝の上でぎゅう、と握り締められるのをみて、私は我に返った。

「す……すみません、私、どうも興奮してしまって、止まらなくて」

「いいの、いいのよ。だめねえ、おばあちゃんになっちゃうと新しいことがこんなにも怖くなってしまうもの。私は……ねえ、ハイルちゃん、あなた、一体何を考えているの?」

ぼんやりとしたその問いに、私は息が詰まってしまってどうにも答えられそうになかった。


「すみません。私、私は……」

こんな時に謝罪ばかりが口をついて出る。私はゆっくりと顔を上げて、それからごめんなさい、と謝った。ネーナ老の家を出る時にふわ、と雪が降り始めた。灰色に濁りきった空に、何をしていたのだろう、と頭がすうっと冷える。静かに目を伏せて足元の地面を見た。


「……やってしまった」

顔を覆って、それからため息を吐く。

自己満足の世界にネーナ様を引き摺り込んで、なおのこと不敬にも程がある事象に首を突っ込んだ。光と闇という単語こそないが、光と闇はこの世界では絶対的なものだ。シハーナ宗主国との取引があるのも、光と闇に対する信仰あってこそのもの。


前時代的、とは言えない。なぜならここは光と闇に支配された、神秘の溢れた場所だからだ。なぜ私は大人しく日々を過ごすことができないのか。私ははあ、と息を吐いて、それから静かに家へと戻っていった。

私にとって悲劇的なことに、テルシュは一年くらい経たねば出来上がらないらしい。明日ネーナ老に手土産でも持って、謝りに行こう。


そして私は、生涯謝る機会を逸してしまうことになった。


翌朝、ネーナ老は冷たい体になって発見された。その顔はひどく穏やかで、そして厳粛であった。私を優しく撫でてくれた手はなく、そして呆然としたまま私は母がいつまでも帰ってこないのを心配して呼びに来るまで、立ちすくんでいた。


テルシュに包まれたまま彼女が埋められていくのを見送りながら、ポッカリと空いた穴を埋めるように胸をどん、と叩いた。知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ちて来るのを人ごとのように感じながら、私は泣いていた。

なぜ死んだのか、それは誰にもわからなかった。私は静かにネーナ様の体に触れると、ふとあることに気がついた。

かつて村を裏切った男を埋葬した時分と、それからピチェルの村で触れた死体。そのどれもとは違っていた。私はその頬をゆっくりと撫でる。そこでああ、と気がついた。

凍っていないのだ。

柔らかく、暖かく、そして静かに落ち着いた眠りにあるように、その体は冷気を失っていない。直感的に生きている、と感じた。触れなければわからなかっただろう。慣例に応じてテルシュで包んで広場まで持ってきたから、わからなかったのだ。手首に触れれば脈はない。それでもまだネーナ様は、ここにいる。


葬儀の準備を遅い動きでのろのろと始める大人たちを制して、その体を具に調べる。医者も途中で参戦したが、病状にはまるで心当たりがないという。

私はまず初めに手をギュッと腕に押し当て、それからとりあえず力を流してみることにした。満遍なくネーナ様の体に力を流していくと、ふとその胸元あたりにある何かに気がついた。

「……これは」

間違いない。


古のものの気が、体の中に埋まっている。なぜ、というよりも、どうやって治すか、ということが頭の中を駆け巡る。しかしまずやれることは一つある。

「聖水って、まだありますか?」

「え?あ、ああ。まあ、あるが……」

「ネーナ様に飲ませてください。大至急」

「え!?いやしかし、聖水を飲めば死ぬと……」

コップに入れたものを少しずつ少しずつ匙で含ませ、そしてしばらくするとその手足が異様に冷え始める。私の力と反発するものがあるから、これはネーナ様自身の力が働いてのことだろう。やがてゲホッ、という咳き込みとぜえぜえ、という音が彼女の口から飛び出した。それにほっとしながら、私はネーナ様に話しかける。


「聞こえますか。聞こえていらっしゃるんでしたら、うなずいてみてください」

せきをしながらも、その頭はコクリとゆっくり縦に揺れた。

「今から聖水を体に入れます」

聖水、この作用はネーナ様の力の暴走から見るに、私たちの魔力を高めるものだ。しかし同時に、古のものの命石を浄化する作用がある。すなわち体内にある魔力と古のものの力は真逆の作用を持つものだ。


魔力で古のものの力を監視しながら、私はジリジリと聖水を口に垂らしていく。一歩間違えば彼女の体は氷漬けになってしまうから、慎重に、飲み込まれるまで一滴ずつ、丁寧に。

「……ハイル、寒いわ」

唇がブルリ、と震えてそんなことが口に出される。喋った言葉の後にゴクリと唾が飲み込まれると、彼女の体はゆっくりと動いた。魔力で調べても特にまずい気配は感じられない。少し体に霜は降りているが、ネーナ様は静かに体を起こすと頭を振った。


「治り、ました。治せた」

「お、おい、ガキンチョ今のはどういうことだ!?ネーナ老が生き返ったじゃねえか!!」

側にいた医師が私の肩を鷲掴みにしたが、聖水は万能の薬ではない。もし仮に人間に投与したら、件の肥大化と同じ現象が起こったであろう。

「もともと、死んではいませんでした。いえ、あのままであれば死んでいたでしょう。古のものの力が、体内にありました。一体なぜ」

私が視線を彼女にひたと合わせると、綺麗な瞳がこちらをじっと見た。


「ハイル、私を助けてくれたのは大変ありがたく思います。けれど、それを理由に聖水を体に入れるなんて……聖水を飲んだ人間が、どのような死に様を迎えたか、あなたにはわからないの?」

「聖水は私たちの体に流れる、光と闇の加護を増幅します。いいえ、もしかしたら加護そのものなのかもしれません。だからネーナ様は寒くなるほどに冷気を発した。あなたが倒れた理由は、一体なんなのですか?教えてください」

「黙りなさい」


しん、とその場の空気が凍りつく。私はしかしながら、言葉を飲み込むことができなかった。

私だけは私のこの心が震えるほどの欲求を、否定してはならなかった。浅はかと言われようと、軽率だと罵られようと。


「私は、ただ、知りたいのです」

それは戯言のように周りの大人には響いただろう。しかしながら、ネーナ様は一度目を見開き、「そう」と小さく呟いた。震える手が肩にかけられたテルシュを掴み、俯いた表情は見えなくて何も窺い知れない。


やってしまった。

そう、過ちだ。これはまず間違いなく、過ちだ。彼女は昨晩私の言葉から何かに気づき、実行した。そして私の知りたい何かを知ってしまった。すぐに彼女の口からそれは知ることさえ禁じられるだろう。

ならば村にいるよりはその真実を知りたいのだ。


とんだ屑のような人間だ、私はと自嘲する。ネーナ様の信頼も、家族からの愛も、村の絆も、全てをドブに捨ててまで自分の好奇心を満たそうとするとんでもない人間だ。前世の記憶というものはこれほどまでに人を愚かにしてしまうらしい。


ネーナ様の顔が上げられた。私の知るような優しく、包み込むような笑顔はなかった。村の外からやってきた不埒者や、害獣を見るような眼差しが私を貫いた。

その顔つきで理解をした。


「ハイル……あなたにこんなことを言いたくはありませんでした。ハイル・クェン。あなたを十日ののちに、五十年この村への一切の立ち入りを禁じます。慈悲としてテルシュは与えましょう」

その瞬間に、私の周りの時間が止まったような気がした。大人たちのざわめきも、うるさいくらいに響き渡る風の音も、何も聞こえなかった。


「ネーナ老」

それは、と私の唇が言葉を紡ごうとして、そしてあえかな微笑みに変わった。

「どうあっても、話してくださいませんか」

「私が負ったものを理解しないままに欲ばかりを振りかざして、いい加減にしなさい」

厳しい言葉でピシャリとはねつけられると、私は静かに首を垂れた。


「甘んじて、罰を受けます。如何様にも」

「……それでいいわ」


彼女へと両親が抗議しているのを見たが、私には困って笑うことしかできなかった。ピチェルもまた綺麗な瞳に涙をいっぱい浮かべて私を見ていたが、私は涙すら出てこなかった。


薄く困ったように笑って私は胸に手を当てた。

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