帰還
結局ピチェルが泣き止んだのは、夕刻近くになってからだった。リスドカルトはようやくか、と剣を下ろし、ノズルゲはくたりと地面にへばりつくように倒れた。どこか怪我をしているような様子でもないから、恐らく疲れが出たのだろう。
「あぁ、地面、冷たい……」
そう呻いている彼女だが、そういえば村のどこでも彼女を見かけた覚えはない。一度見れば忘れられない、くっきりした美人だ。ラテン系にも似た情熱的な赤々とした瞳。意思の強そうな眉の下の目は、粗削りな美しさをもっている。体つきも筋肉質かつ肉感的だ。
それに確か、ノズルゲは女につける名前ではない。我が集落ではさすがに男女性差は形骸化しつつあるものの、一応男には男の、女には女の名前をつけるはず。女に男の名前をつける集落はここいらでは聞かない。
「あのう、ノズルゲさんは、どちらから?」
「ん?あたしはリンペベルン、ニーヘの近くからね。近いといったって山三つ越えなきゃいけないけどさ。その山だって越えられはしないからね」
「え?山が越えられない?」
「あぁ。ずいぶんと高い山なんだがね、越えようとするとすぐに頭痛とかめまいとか、吐き気もするんだよ。無理に越えようとして体調が悪いまま先へ進むと幻だって見るやつもいる。それに、二つ目の山にはやばい奴がいる。そいつを見たのはずいぶん前だけどね」
高山病かとも思ったが、二つ目の山にいる化け物の話を聞いて納得した。白く大きい毛むくじゃらの体は大人の背丈の二倍ほど。首の周りにぎっしりと歯が並んでいて、耳は大きく刃のようになっている。その足はかぎ爪をもち、鋭くそして俊敏であるという。さらにその首、どこからでもばっくりと開くらしい。
「へえ!どこからでも、ですか?」
「そうそう。それで、木々に網目のある氷の巣を作るって話だ。あたしからしたら眉唾っぽい話ではあるんだけどね、どうもこれを見たやつは結構信用度が高くってさ」
ノズルゲはぺんぺん、とその掌をたたいてほとんど体のしなりだけで立ち上がると、ぎゅんと私のほうへと近づいてきて、にっこりと迫力のある笑みを浮かべた。美人が近いとどぎまぎしてしまうのは悲しい性のようなもので、ちょっと笑いながら目をそらす。
「いいねえ、子供。あたしも嫁いできたからには欲しいと思ってるんだけどさ。こっちは色々と風習が違いそうじゃない?ここいらは結構厳しいところだって聞いたからさ」
「え?厳しいんですか?」
リスドカルトへ振り返って聞いてみれば、肩をすくめてこう言われる。
「じゃなきゃ今時十で試練に出したりしないっての。プリンスタゥが出るあたりはまだその風習はあるようだけど、まあそれも形だけ。村のハズレにあるものをとって来い、みたいなもんさ」
その内容に私は愕然としながら振り返る。ノズルゲはうんうん、とうなずいて、それからさっぱりと笑った。
「気にするなよ、ちびっ子。あたしは初めて村の外に放り出された瞬間に泣いた」
「ちなみに気絶させて村から放り出すくだりは大体一緒みたいだぞ。ちなみに言いたかねえが俺は放り出された瞬間に呆然として動けないまま三日三晩過ごした」
「え?逆にすごくないか、それは」
「だろ?監視してるヤツもびっくりしたみたいだ。でも今回のハイルときたら、しょっぱなからすげえ大事件起こすんだもんな」
「見てたんですか、リスドカルトさん」
ちょっとじろりとにらんで丁寧に言ってやると、彼はまあな、と頭をかいて笑った。つま先で雪をがりがりと引っかくと、その笑いは地面に落ちたように消えていく。
「血の気が引いたよ。まさかココモに乗っかったまんまあんなふうに目の前からいなくなるなんて、誰も考えてなかった。みんなが呆然としてる間に消えてしまって、すげぇ驚いたんだからな」
「あ、ご、ごめんなさい」
「ま、お前のせいじゃねえからなあ、ハイル。それにしても、えらい色々引き起こしてきたみたいだな。あっちこっちからお前の噂を聞いたぞ。なんでもプラスティアーゾくんだりでお前を見たなんて噂があったが、さすがにそいつは嘘だよな?嘘だといってくれよ」
私はあはは、と軽く笑った。
「嘘だったら良かったんだけど……あいにく、本当のことで」
「えぇ、俺なんかプラスティアーゾに行ったことさえないってのに……お前、ツイてないな。暑かったろう?」
「暑いのは平気でしたけど、一番大変だったのはやっぱり、そこの領主にかち合ったことくらいで」
「へえ!あそこの領主は揃いも揃って芸術狂いだって聞いたが、何か変なことはされなかったか?」
リスドカルトはそうたずねてきたが、初めに下着一枚になるまで脱がされたとは言えずにちょっと目をそらしてうっすら笑ってみせる。大変だったと言えば大変だったし、そうでないと言えばそうではなかった。私にとって彼らとの邂逅は本当に、楽しいものでもあったのだ。
記憶の中では、「私」は色々なものを目に出来た。その味もありありと思い出せる。もちろんそれらは美味しいし、馴染み深いと感じることもある。だが、私が一番落ち着くのはべべリアやニチェッカ、それから肉の脂とうまみだ。前世というか、記憶はあくまで記憶に過ぎない。私自身が最もなじんでいるのは今の生活とでも言うべきだろう。だからこそ新鮮な体験をくれたプラスティアーゾは本当に楽しい場所だったのだ。
「おぉーい!」
ふと気づくと、ようやくピチェルは泣き止んでいたようでひっく、ひっくとしゃっくりを繰り返してとろとろとそのまぶたを落とそうとしている。私はハロリオの元へ行き、そして「ピチェルは?」と聞いた。
「今、眠りそうなところだよ。そっとしといてやって」
「そのつもりでした」
そりの安定したところに乗せると、彼女の体がぐでりと力を抜いた。熟睡する体勢に入ったようで、私はそれを見てくすりと笑ってしまった。
「その子、寝てるのか?」
「ええ。でもこの面子ならば、正直不安もあまりないです。むしろ荷物と思って寝ている間に村に運んでしまったほうがいいんじゃないかな、とも思います」
「そうだね。それじゃあ、俺たちと一緒に帰ろうか。ネーナ様が待ってらっしゃるよ」
にっこりと笑ってかがんだハロリオから差し出された手を取って、私は一歩前へと踏み出した。
少女が目を覚ましたのは村に入って大分経ったころだった。不安げな表情であたりを見渡し、それから私を見つけて目を見開いて固まった。
「おはようございます、ピチェル。どこか痛いところなどはありませんか?」
「な、ないけど……その、ハイル。あたし、むらについちゃったの?」
「ええ。ここが私の住んでいる村です」
彼女はくたりと体から力を抜いて、寝台の上に寝転がった。
「……いきてる」
「一人だけ生き残ったことが、辛いですか」
「つらい、のかな。もうわからない」
ごろりと安全な場所で横になって、彼女は小さく丸く体をちぢこませる。
「……さっきはしにたいとおもったの。しんでもいいやって、おかあさんがいるならそっちのほうがいいって。でも、いまは……なんか、どうでもいい。つかれちゃって」
ごぎゅるるる、と彼女の腹がタイミングよく鳴った。彼女はがばぁっと起き上がって「ちがうの!」と叫んだ。顔を真っ赤にして涙目になっているその姿に、くふんと笑って私も立ち上がる。
母が作っていたスープを鍋から椀に入れ、スープを匙ですくって二三度吹くと、液体の入ったそれを目の前に差し出す。小さい口が開き、それをはむ、と口の中に入れる。
「……おいしい」
「でしょう?私の母は、とても料理が上手なんですよ」
「そうみたいだね」
すみれ色が少し潤んで、それからぽろりとひとしずく、切ない色が零れ落ちた。
「ついさっきまで、しのうとおもってたのになあ。あたしのおなかはすいちゃうし、ごはんはおいしいんだ」
匙を私の手から取り、そして彼女はスープを勢い良く口に運んでいく。少しスープがしょっぱくなるんじゃないかな、と思うくらいの涙を流しながら、時々えずいて、それでも力強く食べ物を噛み締めていく。
ピチェルはきっと、強い人間になる。
ピチェルはそのまま私の両親が引き取ることを決めたらしい。どうもピチェルが私になついていると言うか、人見知りを発揮して他の子供と話そうとしないこと、それから年回りが近いことも考慮に入っているようだった。子供のいない夫婦の子供となるということも提案されたようだが、両親が変わるのに子育ての経験がない人では不安だろうと言うことで両親が選ばれたのだった。
元の地域にある別の集落に移そうかと提案した人もいたようだが、そちらではどうもプリンスタゥが多く発生しているようで、しばらく預かっておいてくれ、そっちで育ててくれても別にかまわない、ということだそうだ。
「やだわぁピチェルちゃんかわいい!」
母は頬に手を当てて、そのままくねくねと体をよじっている。あふれ出すパッションがうんたらかんたらと述べているが、実際私が男だと思っていなかったときに作っていた服のようである。確かに赤や黄色の華やかなテルシュは私には合わないし、かわいらしい衣装をピチェルもまた気に入ってるようだから何も言えないが、ピチェルはすみれ色の目をしているのだし、黄色はあまり顔立ちにも似合っていないような気がする。
それに華やかなものを着るならまず、髪をもう少し整えたほうがいいのではないだろうか。
「ちょっと、ピチェルちゃん困ってるじゃないか。二人とももう少しおちついてだね……」
「え?あの、私もですか?」
思わず聞き返せば父はまさかという顔をする。
「え?ハイルも今櫛とはさみと髪紐を手にとって何かする気満々だったじゃないか」
むぐ、とそれらを机の上において、へへへ、と苦笑いする。ふと思い出して背嚢の中を覗く。その中には譲り受けた絵つきの図鑑があった。少しばかりよれてはいるが、私はそれを広げてみる。地域ごとにある程度分けていくと、徐々にその枚数にばらつきが見えた。たぶん、行けなかった地域か、種が手に入らなかった地域なんだろう。特にニーへとは別の地域、シハーナ宗主国あたりの種が少ない。気候が大幅に異なるのか、そうでなければ余程種すら手に入らないのだろうか。
「なんだい、これは?」
父が横から覗き込んできて、一枚を手に取った。
「ああ、ええとね。道中のプラスティアーゾで人から譲り受けたんだ。使われない知識よりも、使われる知識のほうが有用だと」
「へえ、すごく綺麗な絵じゃないか。これは本当にある植物なんだろう?こんなものを譲り受けたなんて……よっぽど価値のあることをしたんじゃないか?」
「価値なんて、あり得ない。だって私は……」
私は彼の確実な死を予見しただけなのだ。彼のためになることはなにもしていないし、望みがないと未練全てを断ったことは別段彼のためでもない。ポルヴォルが彼ら一族の、ひいては彼らの統治する土地のために死んだのだと言っても、あの肥って体が大きいのにも関わらずおどおどとした気の弱そうなオジールカが、どうして私のために死ななかったのだと言いきれようか。
そこまで考えたとき、ぽん、と頭に手が乗った。
「ハイル、君のしたことが間違いだとも、正しいとも言えないのはわかっているよ。でも、君が今すべきことは、今しがたこの家にやって来て、ここになじんでいない女の子の手助けをすることなんじゃないかい?」
「……まったく、その通りです」
頭の上に乗せられた手をそのままぎゅっと握る。剣を持つ人間特有の厚みがあって、ざらつきがあって、いつもいつもたおやかに見えるその手は実際本当に頼りがいのある手だ。
やはり人生経験とは、記憶があろうとなかろうと、その「人」自身につくものなのだ。何しろ人の記憶がないのだから、いくら賢しらぶっていても私はまだ十年ちょっぴり生きた若造もいいところだ。
ふと、道中でのあれこれが思い出されて、自然顔が赤くなってきた。両親は過保護気味とはいえ、私自身がやりたいと言えば実験だってそうむやみに止めるようなものではなかったはずだ。
あんなに危険を冒してまで凍原でする必要があったかといえば、もちろんそんなことはない。つまりだ、私は私自身しか信用していない、ということでもある。それはあまりにも寂しいことだし、自分でも家族に信を置けないというところにがっかりすべきだった。
父も母も(時たまあんぽんたんであるが)十二分に信用のできる人であり、尊敬できる人である。それに何より古のものでさえ屠ってしまえるような人でもあるのだ。それにネーナ様だっていらっしゃるのだし、私があれやこれやと一人で頭の中でこねくり回すなどしても、人に話して気持ちを整理すると言うことには勝るまい。
「父さん。ネーナ様に会って来るね」
「うん、よしよし。父さんがピチェルちゃんに構いすぎる母さんを止めておくから、気になることがあるなら行っておいで」
「……止められることは期待できないかなぁ」
「ひどい!?」
冗談だよ、と笑って外へ飛び出した。しばらく見ていなかった景色が、音が、あちこちから流れ込んでくる。ひとつ大きく息を吸うと、おなじみの匂いがあちこちから漂ってくる。ああ、帰ってきたなあとそう思えた。長い旅が嘘のように、村はいつもの通りである。
「ただいま」
小さく呟いた声は、風に乗ってこの場所に降り注いだ。




