受容
彼女はひどく鬱々とした雰囲気をまとっていて、大変にやりづらかったが、それでも丁寧に教えてくれた。彼女の迷い無い手つきを貰っていた紙に記録していく。織り方はある程度記号に集約して、図のようにまとめていく。その様子をじっと見つめる彼女は、ふと思いついたように私に声をかけてきた。
「なあ。すまないのだが、ひとつそれをたのまれてくれないか」
「へ?」
「その図だ。私がひとつ作るから、出来たらそれをもとに一つ図案を作って、丁寧に作ったものをひとつ欲しい。糸はマハラティエにある赤い絹だ。品質は問わないが、あまり低すぎると困る。それからひとつ手紙を書くので、インクに似たものでいい、用意してくれまいか」
インクに似たもの、と私は首を傾げる。ここではとかく液体すら凍り付いてしまうからそういうものは所持していなかったのだ。それからふと墨汁のことに思い至って、こくりとうなずいた。あれは確か膠で煤を練って固形化させていた、と思う。ここまでの頼みを書き取って、それからエスティを見上げた。
「感謝する。お願いはもう一つある。これはそう早くなくて良い。これをアショグルカ家にエスティからの届け物だといって渡してくれ」
「え、ええ……わかりました」
何がしかアショグルカ家とはあったのだろうが、どうも親交は深かったようだ。図案を織り進めていく手はすばやく、ひどく複雑な気分になった。
「アショグルカとはシハーナ宗主国の西側にあるテブルテ大王国のいち貴族でな、そう高位でないが面通しにはこれが必要であろう。この剣を持っていけばいい、どうせここにある間は無用の長物だ」
「……いいんですか」
「ああ。かまわんさ。迎えに来られたところで私はこの平原を越えることが出来ない」
彼女のその言葉にはいかほどの感情も込められていなかったが、しかしながらひどくつまらなそうにも聞こえた。
「わ、私は二十年後にこの集落に立ち寄ります。三十になるまで本格的に集落を、というよりはスニェーの住まう地を出ることを禁止されているので」
「そうなのか?まあ、それならそれで二十年待とう」
気楽に言ってのけた彼女に私は驚いた。
「いや、二十年ですよ?分かってますか?」
「君が正しい時間の感覚を持っているとは驚いた。気を悪くしないでくれたまえ。もはやこの年になるとそうたいしたことでもないと思い始められるのだよ、二十年は」
そう言ってのけた彼女の顔は、ひどく達観したようなものだった。この世界の年齢から考えてみればそう長生きできるようなものではない。たぶん四十か、五十が限界のはずだ。今二十代ほどに見える彼女はこの寂しく、寒く厳しい土地でそれほど生きられるのであろうか。
「君の心配しているようなことはあまりない。なに、私もそこそこに生きる目的を持てるようになったのさ、君との約束のおかげだ。君は三十になったらここへ来ると言った。私は君に会えるのだ。君にとってはあまり愉快で無い時間だったかもしれないが、私にとっては楽しい時間なのだよ、若者と語り合えるというのはね」
彼女との対話はわたしにとっては多少なりともしてきたことと変わらないが、彼女にとってはそうでもないようで、少しばかりやる気を出したのか、ヴェールといっていいような大きさのものを作り始めた。
「私が軍隊に行ったのは、皮肉なことに私自身の婚前準備金を稼ぐためだった。こちらで言えばテルシュを織るようなものさ」
エスティはあまりしっかりとした糸でないながらも美しく白い総レースのヴェールを織り上げた。簡単な花柄の羅列だったので私も横から手の動きを見て書き留めていた。出来上がるまでにおよそ一月、私はすっかりとそのパターンをそらで織れる様にすらなっていた。
「これは頭につけるのだよ。幸せになれますようにと願いを込めてだな……いや、私の場合呪いでもあるのか」
「ヤーンさん、でしたっけ?ニィテさんと話してるときとても幸せは願えそうにないって……」
韜晦するような口ぶりに思わず口をはさみこむと、彼女は諦めたように笑った。
「私は彼と一時期恋人同士だった。だが私自身が彼と共に年を取れないことに気づいてしまったのだ。そこからはもう、ダメだった」
私はその口ぶりにはっきりと気づいた。
「まだ、ヤーンさんのこと、好きなんですね」
「……そう、かもしれないな。いや、恐らくはその通りだ。私が弱い人間であるばかりに」
ヤーンはでも、きっと、そう言い掛けそうになり口を慌てて閉ざす。これはあまりにも希望的観測で、外れるであろうことだからだ。私の口からそんな不確定な、不誠実なことを軽々しく言ってはいけないと思った。
それからその白い文様の羅列に目を向ける。シンプルな花柄は、きっと誰がこれをかけても似合うだろう。そう、たとえば目の前のエスティも、それからスニェーの人々にはよりいっそう。これを見てなおさら私はなにも言えなくなった。
「綺麗ですね」
「ああ、そうだろう?これを集落の中心近くにある家に届けてくれ。お前もずっとこもりきりで長老へ挨拶をさせぬままであったし。ちょうどいい、行って来い、ハイル」
「え、ええ。そうします。ありがとうございました」
「そうだな。頼んだ件、宜しくな」
それだけ言い置いて、彼女は早々に扉を閉めてしまった。料理を作るのだって、煮炊きだけだ。彼女の仕事は鍋をかき混ぜることくらい。
「……うん。せめて、花嫁を見てからにしよう」
私の出立は私が決められるのだし、せめてそれくらいは。
中心近くにある家まで行くと、春ももう来ているというのに冷たい風がひゅるりと襟足をなでた。
「こんにちは、ええと、長老様!」
ぎしい、と近くの家の扉が開いた。髪を高いところでひっつめにしたはっきりした意志を持った女性が姿を現した。まさに女傑といった見た目である。
「入りなさい。二ィテの小坊主に話は聞いてるからね」
「あ、はい。ハイル・クェンです」
「ああ。私はロイエ・ニトチェだ。まあ、あんたのするべきことはここでは終わったのだろ?」
「エスティさんは自らこれを織りました。彼女に報酬を払うべきですし、あの、私自身が何かしたわけではないです。できれば何か言いつけてください」
「……ハァ、やれやれだね」
そう言って彼女は髪をかきやった。そして私をじとりとにらんだ。
「それじゃ、ヤーンの結婚式を手伝っておくれ。日どりは三日後、そいつの着せ方はわかるんだろ。花嫁の頭にそいつをかぶせて花嫁衣裳を着せ、陰気に引きこもっているのを家から引っ張り出すのがお前の仕事さ」
「へ……」
私はその答えを頭で反芻し、そして気づいた。女傑はむっと口を一文字に結んで、そして私をにらみつける。だがその表情は若干気恥ずかしそうにも見えた。
「なんだい」
「いいえ、いいえ」
「……エスティをきちんと家から引っ張り出しておいで。お前なら、必ずできるだろうからね」
「は、はい!」
さて、彼女を家から引っ張り出すとはいえ、寒さで凍えてしまっては意味が無い。まず準備すべきは彼女の体を保護するものだが、それはおおよそ出来上がっているらしい。とはいえ風を通さないと温かいという感覚は私たちには備わっていない。これは一度死ぬ前の「私」の経験則だ。
丁寧に縫いこまれた衣装の内側は毛皮がある。多少着膨れして見えるが、だいぶ良い。これを着せて外に出すには、だ。
「よしっ」
私はそっと策を練った。
当日の朝、私はエスティの家の扉を叩いていた。
「こんにちは、エスティさん」
「お、おまっ……ま、まだいたのか。どうしたんだ?いきなり」
「あの、子供は立ち入り出来ないみたいなんです。えーと、結婚式を見てみたかったんですけど……」
「ああ、そうなのか。それはまたどうして」
「お酒が入る大人が多くて、子供だけだと危ないということで。せめて付き添いがいるみたいで、ちょっとでいいんです、ついてきてくれませんか?」
「……いや、礼装まで持ってきて私について来なければならない気分にさせているのはお前だろうが」
てへ、と舌を出して笑う。
「じゃあ、着替えてもらえますか?」
「わかった、わかった。……はぁ」
何も分からぬ子供はいいな、と彼女が息を吐くように呟いた。
着替え終わると、私は彼女を移動できるようなそりに載せる。それからとんとんと外に面している扉を四回叩いた。
「え?いや、ハイル?待て、なぜ合図のような真似を……」
不思議がっているが、今更である。未練たらたらに二ィテや私に愚痴を言いまくるのが運のつきで、まあ、良かったことなのだろう。そりを引き、開かれた扉から外に出る。今日は全く風の無い、穏やかな天気だ。
「エスティ」
初めてその声に新郎がそこにいるのだとわかり、私はそりを引くのを止めた。
「な、な、なぜ、お前が、ここにいるんだヤーン!?花嫁はどうした!」
「花嫁を迎えに来たんだよ、エスティ」
軽く笑う彼は、全身で幸せを表現しているように明るい色のテルシュを身にまとっており、つややかな黒の帯で腰を巻いている。その靴は綺麗に磨きぬかれて文様が彫りこまれ、鮮やかに染色されている。
ちょっと丸みを帯びた頬は少しばかり柔和に見せ、その目は柔らかに垂れている。二ィテとは異なって間抜けそうというより大人しそうとか、穏やかそうな印象を与えるその紫の瞳は今は嬉しそうにさらに垂れている。
「は、は、は、花嫁を、迎えに来たって、」
「好きだよエスティ。僕と命を交換して欲しいな」
「なッ……!?そ、その件については断ったはずだろう、どうして、」
「僕は君のことが好きだ。君にどうせ置いていかれるなら、君の傍で過ごしたい。君は?君は僕のことが嫌いになっちゃったのかい、エスティ?」
「……そ、そんなわけ、ない。でも、私は、すぐに死んでしまう。それでお前を縛り付けるくらいなら……」
ヤーンはうつむいてかたくなにそれを拒むエスティの頬に手を当てた。
「いいんだ。むしろ、縛って欲しい。君が僕と生きる時間が違うと分かっているから僕から離れたことはもう分かっている。二ィテから聞いたよ」
「クソッ、あのぽやぽや野郎!一体何を喋っているのだ!!」
ぽやぽや野郎というスラング自体が会ったことに驚きだが、それを遠い目をしながら教えてくれた長老様のことをもちょっと思い出した。ネーナ様はたぶん必要ないと言っていたし目の前のヤーンも理解できていないようだからあえて言おう、一応使えた。
「あのね、エスティ。一時期の感情で決めてるわけじゃないんだ。全力で結婚の準備は君以外ではすべて整えておいた。君が出来るだけ外に出なくていいように段取りは組んだしね。ね、ここまでやって後からなしです、なんて、言いっこなしだろ?」
「そ、それは……ずるいぞ、ヤーン」
「君と一緒にいるためなら、いくらでもずるなんてしてみせるよ」
ヤーンのごつごつとした手がネーナの手を取った。
「全く、かなわないやつだ。そんなに縛られたければ、存分に縛ってやる。覚悟するがいいよ」
「ふふ。さて、ありがとうね、君。僕はヤーンだ。君の名前は?」
私についと視線が向けられ、ぴしりと背中を正すとハイル・クェンと名乗る。
「君が閉じこもった僕の愛してやまない人を外へと出してくれた。感謝するよ」
「またいつでも遊びに来るといい。こんどは私がお前のことを罠に嵌めてくれる」
エスティのちょっと根に持った言い方に、私は少しだけ苦笑いした。結婚式は神の御前にて行われるらしい。といっても寒空の下、ということになる。彼女の負担を考慮して、ある程度短縮されるものらしい。
二人はテルシュの下にいつも着ている黒い巻頭衣とは異なる白の首もとまである服を着込んでおり、それには色とりどりの刺繍が細かく施されている。花嫁の帯はきらきらした石で装飾され白のものであり、常とは異なる。
雪の上に両手と膝をつき、そして長老が二人の手をこん、こんと骨らしきもので叩く。それからぽんと持っていた火桶にそれを投げ入れた。ごう、と立ったのは青い炎だ。
「おぉ」
「祝福されているぞ」
「よかったな、ヤーン!」
あちらこちらからそんな声が上がった。二ィテは不思議がっている私に身をかがめてこっそり囁いてくれた。
「あのね、あの炎の色が青だと祝福されていて、赤だと不幸な結婚であるという証なんだ。黄色や緑もあったりするけど、それぞれに意味がある。黄色は友達であるべきだとか、緑は関わらないのが吉であるとかね。この儀式は結婚だけじゃなくて村同士でやることもあるんだよ」
「へえ……」
「ちなみにあの木の枝っぽい骨は、花婿の血肉を食わせた獲物の骨。えっと、そろそろ来るはずなんだけど……」
すっ、と空に大きな影が差した。それに気づいた瞬間、エスティの体がさっとヤーンをかばうように前に出る。その瞬間、全員の体がぐらりと傾いだ。
「ぇ、」
私は一拍遅れて皆が倒れこむのを見ながら昏倒した。




