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放牧

目の前にわらわらと現れた毛むくじゃらの、なんと表現したら良いか、でかい銀色の毛虫の群れ。前世の感覚がまずいやつだとぞわぞわ鳥肌を立ててくる。頭の一番前についている六個ほどある黒い目がつぶらでありながら何も考えていなさそうな虚無を訴えかけてくるし、なんならその動きが気持ち悪い。もぞもぞとなにをどうやったら前に進めるのかわけの分からない動きで前に進んでくるし、なんなら意外と早い。

「……」

いくつものつぶらな黒い目が、じっとこちらを見た。

「きゅぴ」

「ヒッ」


鳴き声だろうか。私が泣きたい。

「きゅっきゅっ」

「ひえ!?」

わらわらと私の周りに集まってき始めるそれらを全力ダッシュで撒きながら、私は近くの目に付いた民家のドアをだんだんと叩いた。

「きゅっ」

そこから先の記憶が全く無い。


目覚めた瞬間に気がついたのは、暖炉のぱちぱちはぜる音と妙にぎしぎし言う音だった。

「ここは……」

「おや、起きたか少年」

私がその声のほうに振り向いて驚いたのは、目の前にいたのがごく普通の人間だったからだ。そう、スニェーの民ではない、普通の人間だ。はしばみ色の目は優しく、だがどこか諦観したような光を帯びている。手にある皺はまだ薄く、彼女が若いことを物語っている。その顔には右の額から左のあごにかけて長く細い獣の爪あとが残っていて、それがどこか年寄りめいた印象を残していた。


「やあ、少し君には暑いだろうが、我慢してくれたまえ。これでも生存にぎりぎりな範囲で火を使っているのだ。客をもてなすには少々わたしの身にこたえる」

「あ、いえ、おかまいなく」

ぎしり、と彼女の座っている揺り椅子が音を立てた。毛布が不自然に膝から下に落ちている。おそらくあの下は脚がない。


「すまないな、私自身そうそう客人が来ないのであまり人と話さないのだ。喋るのがたどたどしいが、勘弁してくれ」

「いえ、こんな子供相手にそのようなことは気にしなくていいですよ」

「ふふ、おかしなことを言う。君自身私の思ったような年ではないんだろう?まだ小さく見えるが」

「いえ、私はまだ思ったとおりの年ですよ。前に人の住む町に行きましたが、こんなものでしょう」

この世界で私はよく食べられているほうだし、栄養不足で小さな人たちは成長も遅い。ゆえに私は人と同じ程度の成長速度と言えなくもない。

まだ、今のところは。


「そうか。それなら私も気を使わずに話すことにするとしよう。さて、何から話したらよいものか。私がなぜここにいるか、だが――そうだな、私はプギュの家畜化を行い、それに成功した。君はプギュに囲まれていたが、アレは嫌いな見た目だったようだね」

「え、ええ、まあ……」

「本来のプギュは、あれより断然でかいし獰猛だし、牙も持っていた」


もざもざとした毛は吹雪の中では紛れ、そして見えない。私がここに来るまで襲われなかったことすら本当に奇跡みたいなものだそうだ。

「私は今スニェーに生かされている。夏の短い間ここへ戦力として送り込まれた新兵だから、古のもの(リ・コルキュル)に襲われたとき真っ先に見捨てられた。その後逃げて逃げて逃げて逃げてここへやってきて、そして足を失った。やつらから逃げるには死が最も良い選択肢だと思っていた」


そこでスニェーの民に命を救われたそうだ。

「なんだかんだ言って彼らも暖炉の傍で料理してくれる人間が有難かったらしい。ここいらは特に寒さが厳しいから、スニェーの民もそれなりに暑さに慣れていない。煮炊きがまず初めにわたしの仕事になったが、その次に一匹のプギュに出会った。プギュというのはとても不思議なもので、今までの調査で分かったことだが、十匹生むうち一匹や二匹は体が小さく、牙も持たぬらしい。それらは大体他の獰猛な子供の餌になる。狩りをはじめて行うのがきょうだいなのだよ」


なかなか壮絶な生き物らしく、私はその言葉に聞き入っていた。

「それでだね、その小さなほうをペットのように飼ってみたくなったんだ。そう言い出したら次の日には狩人が二三匹取ってきてくれた。家の片隅にもぞもぞ動いているそいつは雪しか食べず、いつの間にやらまるまると肥え太っていたが、全くその大きさは変わらなかった」

雪で太るというのは大変に不思議だが、よくよく考えてみれば雪で何かしらのエネルギー摂取を行っているのか、もしくは例の『力』が関係しているのか。


「まあ不思議だが、それが交尾をして子供を産み始めたときにそれに気づいた」

全員が全員、弱い子供だった。


「つまりだね。家畜にするにはかなり向きのある生き物だったのだ。この集落で安定的に食料が手に入ることは喜ばしいことだと歓迎されたし、家畜を狙う獰猛な生物と戦うという名目を得た戦士も張り切ってプギュの見回りをしている。君たちは戦士に重きを置くからね、その辺は考慮している。もちろん狩りも定期的に行っているよ、さすがにプギュのみで生きていけるわけではないからね」

彼女ははあ、と息を吐き、それからずるりと椅子から降りた。彼女は腕で二足歩行を行うように歩き、近くの台に置いてあった水のはいったカップを取って飲み干すと元に戻した。


「久々に話したから喉が渇いてしまってね。すまない。この脚のせいで私はこの地域から出られずにいるんだ。遠くまでそりに乗ったとしても、この区域を出る前に凍り付いてしまう。なかなかにせちがらいことだよ」

彼女はそういって笑った。


「この家に寄り付くスニェーの民は多いが、この部屋は暑いそうだし長居はしないのだが、それで、君のような小さな子供がどうしてこの場所へ?」

私もはっきりと儀式の詳細とかいうものを分かっているわけではないのだが、とりあえず今分かっていることを説明すると納得したようにうなずいた。

「要するに、初めてのお使いのようなものだろう。村にばかり閉じ込めておくのは頭のいいことではないからな」

「はあ、そうなんですかね」

お使いの域をなかなかに超えていると思われるのだが、それは今は口に出さないでおこう。


「ああ、ここで待つか?村の人間は今おおかた出払っていてな、ここにもうじき人が来るはずなのだ」

「え、ああ、そうなんですか?一体どうして……」

「嫁入りだ。私は祭りの料理を用意しようと思ったのだが、花嫁と花婿が獲った獲物を彼ら自身の手で捌き、料理することによって縁を結ぶという。その儀式をするのだが、花嫁はどうも狩りに向いていなくてな、勢子をするためにかなりの人間を連れて行った。そのほかにも色々用事が重なっていてな。他のやつはプギュの警備についている」

「なかなか大胆な配置設定ですね……」

「まあ、そう思うだろうが、ここのいいところは外部からの襲撃を気にしなくて良いところだ」

村の警備はあまり考えずとも良いのだと彼女は笑う。


「食いでのあるのはプギュだけだ。わたしの肉など食らっても、美味くなかろう」

「そういうものなんでしょうか?」

「古のものでさえなければな」


彼らは人を憎む。全てを嫌い、そして憎み、妬み、嫉み、ありとあらゆる手を尽くして殺しつくそうとする。


たんたん、と軽く扉が叩かれる。それからいつもそうしているのかすこしばかりくつろいだ格好の男がぎいとドアをうならせながら中に入ってきて目をしばたかせた。

「あれ、子供?なんでここに?それに村外の子だよな?」

「二ィテ、寒い。早く閉めてくれないか」

「ああ、ごめんごめん」


彼はそう謝ると扉を丁寧に閉めた。それから私に近づいてきて、首を傾げた。

「ええと、何がなんだか分からないけど……僕の名前は二ィテ。二ィテ・アシュテアリテ。よろしく」

「え、あ、えっと、はい。宜しくお願いします……?」

そういってのけた顔は、きょとんというか、ぼんやりというか。目は子犬のように澄んでいて、鼻筋がすっと通って頬は少し丸っこく、垂れた眉と目じりがほやほやとした雰囲気をまとっている。綺麗ではあるのだがどこかおどけたような表情に見えて、私もまたぼんやりしながら差し出されたその手を取った。


彼は私がここに来た理由を聞くと納得したようにうなずいた。それから私をじっと見つめて、それからちらりと女性のほうを見た。彼女はもう引渡しは済んだとばかりに茶を啜っていたのだが、突然二ィテにカップを掴まれてびくんと体をこわばらせた。

「な、何だいきなり」

「うん。ええと、そういえば前に君は結婚のときあるものを新郎新婦に贈るそうじゃないか。ほら、前にこぼしていたろ」

「な、なんだ急に。そうだが、それがどうした」

「君もヤーンに贈ればいいんだよ」


ヤーンという男の名前が二ィテの口から出た瞬間、苦い顔で彼女は笑った。

「彼の幸せはとても願えそうに無い」

「それなら、そこの少年。僕からの依頼、いいかなあ」

「え?あ、はい」

「彼女からその作り方、教わって」

「は、はあ?」


女性はぎょっとした顔をして、それから私をじっと見つめた。そして二ィテをにらむ。

「……嫌なやつだ」

「それ、みんなに言われるんだけど、僕はそんなつもりじゃなくて……」

「はあ、まあ、良いだろう。そこの、そういえば名乗ってすらいなかったな。私はチェンブロ・エスティ・クリステア。エスティが名だ。チェンブロはもとの名だが、シハーナ近郊の街で洗礼を受けたときにエスティを名乗る様にしている」

「そうだったんですね。私はハイル・クェンといいます。えーと、エスティさん、まずはそのあるものについて教えてくれませんか?」

護符(ケルス)、と呼ぶ。私の家に伝わる模様は……これだ。剣の柄に描いてあるこれだ」


線が消えかけているが、その図柄はしっかり打ち出されていて凹みが見えて図自体はしっかりとわかる。私はその鞘を手にとって観察する。革はしっかりしたつくりで、とても新兵に持たせるようなものではない。彼女はもともと良い家の出だったはずだ。新兵、か。

家畜を新たに作り出すなど平民が考えるわけがない。


「……貴族ですか?」

「何もなくなった身だ。私をどう定義するものもいない」

「帰りたいですか」

「既に殺されているだろう、実家では」

「それでも――」

「くどい。私がどこで生きようと、私の本当の家では悲しむものさえいないだろう。私の存在を有難がり、受け入れてくれた場所はここなのだ」


けれど、私には彼女がそう長生きするようにも思えなかった。彼女自身がそう強いわけでもないこの世界で、死んだように朽ちていこうとしているエスティが、だ。

「私には理解できませんね」

死ぬ前の記憶を合わせたとしても、やはり私、というか地球に生まれた私とスニェーの民である私にとっては彼女の産土に帰りたくないという心持はわからなかった。

「分からなくて良い。お前にはお前の考えがある。私の生まれた家はあまりよくないところだった」


ふふ、と笑って毛布の中にもぐりこむ。

「さて。それでは護符の織り方だ。糸巻きをいくつか用意して……」

小さな糸巻きは華奢で、丁寧に磨かれている。それを台に敷いた布の上に針を立たせるように刺してあるところへくるくると巻き付けていく。織り込むようなレースが次第に出来上がっていくのは、非常に見ていて楽しかった。一つの文様が出来上がるまでに大体のパターンはわかる。細かい部分を教わって私も始めてみた。


これは意外と難しい。私の作ったものはよれてかなり糸がばらばらだ。ふにゃふにゃになったそれを見て、私は少しばかり笑った。これはおそらく、慣れがものをいうやつだ。

「やっぱり、あなたが作ったほうが良いですよ。絶対こちらのほうが綺麗に出来ている」

「……そうだな。いや、すまない。本当はここまで作るつもりも無かったのだが……実際作ってみるとなると、とても楽しいな。家のことはすべてここでは関係ないと思っていた」

彼女の顔色からは懐かしさというよりは、苦い思いのようなものがにじんでいた。


彼女にとってそれがいいことかどうか、私には全く分からなかった。それでも彼女自身の手は新たなレースを作ろうと動いている。案外故郷とは、そういうものかもしれない。

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