変化
さて。
アレが本当にノブジェだというなら、私は明らかに勝てない。取り回しの悪い仕込み杖は使いづらそうだが、手放して戦うとなるとちょっと心細い。あれは結構私の窮地を救ってくれたものだし、なんだかんだ言って手元の短刀よりは殺傷力が大きい。
あとは相手とある程度距離をとりながらの戦いが出来るというのも大きい。私の身長より少し短いくらいのそれは、私からすれば十分に考えて動くだけのリーチをくれる。
「……肉薄して戦うのは、さすがに恐ろしい」
なにか、あいつを襲う獣でもいれば実際の戦闘が見れるのだが、安心してのたのた歩いているところを見るとどうもこの森であいつを襲う奴はいないらしい。私はふっと息を吐いて、それから足元を歩くそいつを見守った。
すぴすぴと鼻を鳴らし、それからもそもそと下枝のあるそれを食いちぎる。私が断念したスゥットの茎だ。どうやらそれが大好物のようで、もそもそとそいつを食っている。背中はがら空きだが今の私はさっき落ちてきた雪と同じでよくてはねのけられる、まあ順当に行けば串刺しというところだ。
腹側の毛は薄いんだろう、じゃないと丸まって眠る際ちくちくして自分が痛い、と思う。もしかしたらトンデモ装甲になっているかもしれないが、今はとにかくひっくり返せば止めをさせると考えるべきだろう。まず、スゥットの茎を好んで食べる。ならばある程度出現する場所は絞られる。
「……罠、しかないか」
私はふうと息を吐いて、それからスゥットの下ばえが残っている場所を近辺で探す。もちろん埋まりたくはないので木を飛び移るようにしての移動だ。それぞれポイントは三つ、そのうち今日食べたところが一つ。つまり来なかったポイントで待っていれば、いつか来るはずだ。私は村よりの場所を選択し、臭い消し済みの持っていたロープを下生えの中に潜らせ、両端を木の枝の上から持った。
「……ふう」
もしこのロープの上を通ったら力一杯引いてその体をひっくり返し、ナイフをお見舞いする。万が一があったら恐ろしいので、まずは上から氷柱を落としてからにはなりそうだ。
チマチマ力を使って氷を作り出さずとも、暖かい地方であるだけに結構氷柱がある。それらを適当に集めると、先をナイフでごりごりと鋭くしていく。それから抱えるようにして丁寧に持つと、下を見張る。
まだ「待ち」は始まったばかりだ。
四時間ほど待って、眠気が襲ってきた。罠を持っているから迂闊に落ちることもできない。とはいえノブジェが来たら起きていなければ罠の甲斐がない。
酸っぱい種を一噛みして無理矢理意識を弾き、覚醒させる。強烈な酸味にふうと息を吐きそのまま頭をちょっと振った。
次の日の朝は眠り浅く目覚めた。なんの気配も感じなかったが、紐は手元からずり落ちて木の下にあった。私は若干イライラして木の幹に蹴りを入れた。頭の上に雪がぼすんと落ちていたい思いをした。
二日目の朝には気だるい疲れを感じながら、昨日のような失敗をしまいと気を張っていたが、夕方になるまでなにも現れず、出てきたのはひょろ長い縦じまの子リスのような生き物だった。
陣取ってから三日たつともはや気を抜きっぱなしで警戒するという矛盾じみた行動に出るようになった。なんのことはない、動いたものがあれば殺せばいい。私はぼうっとしながら枝に足を引っ掻けて逆さまにぶら下がり上体を起こして暇を潰していたのだが、その時足元の茂みに動きがあって手に持っている縄に意識を切り替え相手を観察する。
「……ノブジェだ。間違いない」
獰猛そうな顔できゅんきゅん鳴きながらその体を茂みの中に突っ込ませてむしゃむしゃと葉っぱや茎をかじっている。なんだかんだ言って無茶苦茶なことを言われたものだ。せめてあの子リスのような生き物なら……。
「……縦じまの、子リス……ひょろ長い」
絵の脚は四本だった。あの子リスも、四本だった。縦じまのある、細長いからだに短い手足。
あまりの事実に憮然として下を見やる。今まさにその体は罠のロープの上を通ろうとしていた。一度だけ息を吸い、それから止める。ここまで来たのだ、もう狩るしかないだろう。そう言い聞かせる。
実態は八つ当たりにすぎないのだが。
「ふんッ」
縄を強く引くと同時にノブジェの後ろ半分が持ち上がり、顔を軸にするようにして前へとひっくり返った。次の瞬間には手元にある氷柱をその体めがけて投げつけたが、失敗する。少し近い場所に刺さった氷柱をそれでも足場にするべくナイフを抜きざま飛び降りて、その氷柱の上に立つ。ノブジェがぐきゅりと鳴き、私は次の瞬間目を疑った。その顔が雪の中にめり込み、蛇行運動を始めるように潜っていったのだ。
「は、ああ!?」
だがその衝撃は痛みによって打ち消された。雪中から黒い針が見えぬほどの速度で私の頬を掠めながらどしゅ、という音を立てて背後の木に突き刺さる。恐る恐る振り返ってみれば、その幹は一部が歪みへし折れながら針を飲み込んでいた。
「くっそ……ありかこんなこと」
常になく口汚く罵りながら、私はすぐに意識を切り替える。どうせかわせないのだ。致命傷だけ避ける。
テルシュを引っつかんで引き抜き投げ捨てる。仕込み杖も一緒に落とした。半身裸になると一気に力を放ち、自分の体まわりを凍らせる。次の針が放たれたのはちょうど顔に向かってだった。意識をそこだけに集中させれば、一応は平気だ。耐久になりそうだなと思いながら顔面にめがけて飛翔してきた物体をナイフで弾く。重たい感触に、面倒なと苛立ちを隠せない。
ノブジェがしびれを切らして飛びかかってくれた方がよっぽど楽だろう。脛めがけて飛んできた針は無視だ。ゴッ、という音と同時に足にはりめぐっていた氷がバラバラになって落ちて、ぢりっとした痛みが足に走る。氷のお陰でわずかだが方向が逸れてくれたようだ。私はその針の飛んできた方向を見る。この湿った重たい雪の中をどうやって動いているかわからないが……。
雪の?
「なるほど」
足でしっかりと大地を踏みしめ、そしてふん、と息をはく。仕込み杖を足を引っ掛けて上へ飛ばし両手でキャッチすると次に飛んできた針ががつりとその真ん中ほどに当たる。
飛んできた方向目掛けて棒高跳びの要領で雪に杖を差しこみ、そして空中へと飛んだ。上から見ると良く分かる、雪がうごめいて逃げているのだというのが。
「逃がすかッ」
声にならないほどの音量で悪態をついて、そしてその雪の膨れ上がりに着地する前に、目一杯力を放つ。着地した雪は水分をあっという間に氷に変え、そして私はふうっと息を吐いた。四方一メートルほどは凍っている。深さは分からないが、雪がうごめいて見えることはないし、おそらく凍り付いてしまっているはずだ。後は放っておけば、死ぬ。
だが一応警戒は必要だ。私は針に注意しながら仕込み杖を手にとって抜き、氷の上からその凪のような煌きをここだろう、という場所に当てる。剣尖は氷に当たりがつんと――音を出すものと思っていたが、全く何の抵抗も無しに氷の中に飲み込まれていく。
「……また、これはなんとも……」
不思議な感覚だ。抵抗らしい抵抗がなく、水にそのまま棒を突きたてたような、軽い感触に驚く。しかし剣ががつん、と何かに当たったとたん、その刀身はじわりと下から黒っぽく、だが凪のようなきらめきはすべてそのまま、夜空のような色になった。
「命石を、この剣自身が食べてるのかもしれない」
これまでの戦いを鑑みてもその考えが一番妥当なような気がした。食べるというよりは、命石から噴き出した力にあてられた、というのがより適切な表現だろう。命石を舐めたときにも力が無理くり注ぎ込まれた感覚はあったのだ。もともと力を持たなかった剣が妙な性質を持つということも不思議ではない。
不思議ではないからこそ、不思議だ。
私一人がこの事実に気づいているのか、はたまたそれ以外の人間もこれを知っているのか。じわじわと氷の下に広がる赤い色に、私はふう、と息を吐きながら思いをめぐらせた。
ノブジェも氷の下のもどきも回収を終えた後、私はリェリェに面会を求めた。ずるずると子供が凶悪な顔の獣を引きずってくるのはなかなか衝撃的なものだったようで、すぐさま彼は商人との会合をほっぽりだしてこちらへと来たようだ。
「な、な、な、なんだいそれは!?」
「ついでに仕留めたものです」
「ついでどころじゃないだろ!ネーナ様の集落だって聞いたときはまさかと思っていたがそのまさかか!?前の族長から聞いてるぞ、ネーナの集落にはバケモノが多くいるって!」
バケモノとはまたひどい言い草であると思ったのだが、父の普段のおっとりほよほよした姿からは全く想像しがたい剣捌きやらいろいろを突き返されれば何もいえないくらいには納得できる。
「この儀式だって、以前にすべてこなした奴はいたんだ。それがネーナ様の兄君だと聞いたときは驚いたぞ?しかも旅人になった。これは君もおそらく旅人だな」
「……そうですね、おそらくは」
私はその言葉を肯定し、そして次の村へと出立する前にいろいろの準備をする。もちろん村では形だけでも歓待を受けたし、それに傷も手当してもらった。妙に村の人々は冷たく私のあれこれを世話してくれた。リェリェとは異なり、私のように純粋なスニェーの血を持っている人間は珍しい。彼らは片方親がいなかったり、商人も寄り付きにくくあまり血のつながりを持たない薄められた一族だと冷遇されているとリェリェは言った。
「ま、実際のところ差別を受けていると感じるのは間違ってはないよね。商人が寄り付かないのは僕らが弱いからさ。特別な獲物はないし、暖かい地域だから狩人もいる」
引け目を感じているからこそ引いてしまう。自分たちが差別されていると感じることはひどく妙にも感じた。けれどそれはやはり懐かしさすら感じる社会構造でもある。のほほんとした部分ばかり見てきただけに、こういったぎすぎすとした状態にめぐり合うことが稀であったからだ。
「あのう。それじゃ、おいとまします。ありがとうございました」
「ああ、うん。また来てね」
にっこりと笑った顔はやはり最後までうさんくさかった。
私はその後、次の村、ニッゲ村に向かっていた。そこでは牧畜がさかんと聞いたが、牧畜とはこれいかにと驚きを隠せない。不毛の大地代表であるような雪原で一体誰が牧畜など試そうものか。私が思っているより、村ごとに特色が違うらしい。わたしの村は……。
やめよう。かなりひどい言葉が浮かんできた。
やけに澄んでいる空に私はちょっといい気分になりながら、平原を越えていく。雪の質は北に向かうにつれだんだんとさらさらしてきて、どんどんと私の知る雪に変わっていく。テルシュを再び着込むまでにそう時間はかからなかったが、ひどい雪嵐に遭遇して数日を雪中で過ごすことを余儀なくされ、しばらくは件の酸っぱい種でしのぐより他なかった。
種は確かに栄養豊富のようだが、どうにも腹の空きが収まらない。物理的な実態がないから満たされた感じがないのだ。
雪原に穴を掘ってぐるぐると鳴る腹をなだめるのが、例の狩りの間より大変だった。




